【指揮官と箱根駅伝】中央大・藤原正和が一度きりの2区で奪取し...の画像はこちら >>

連載第1回:指揮官と箱根駅伝/藤原正和(中央大学駅伝部監督)~後編~

前編〉〉〉2区出走の希望叶わずも山上り5区で見せた衝撃の走り

【ケガの影響で不完全燃焼の3年目、マラソンも見据えた最終学年】

 下級生の時に2年続けて箱根の山でインパクトのある走りを見せた中央大学の藤原正和は、さらなる飛躍の時を迎える。

 2年の終わりの日本学生ハーフマラソン選手権で優勝を果たすと、3年の夏は北京ユニバーシアードのハーフマラソンで金メダルを獲得。日本インカレでは5000mと10000mの2種目で入賞を果たした。

 しかし、試合で輝かしい実績を挙げた一方で、3年目のシーズンは貧血やケガにも見舞われた。極めつきに箱根直前には脚を痛めてしまった。

「アキレス腱だったか、ふくらはぎだったか、11月末の(伊豆)大島合宿で痛めてしまいました。ようやく走れるようになったのは箱根の2週間前で、とてもじゃないけど2区は任せられないという状況でした。『5区だったら行けるか?』と聞かれ、『5区だったらなんとかします』というやりとりがあり、結局、5区に回ったっていう経緯がありました」

 大学生世界一になり、堂々と箱根2区を駆け抜けるはずが、直前のトラブルで3年連続の5区を走ることになった。

 急ピッチで仕上げたものの、当然本来の走りからは遠かった。

「全然体も絞れていないし、5区だからなんとかなったというだけでしたね。たしか上りだけの区間順位でいえば9番か10番通過だったので、下りだけで区間3位になりました。実は、下りのほうが強かったんだなって、その時に気づきました。本当に、ただただつないだだけの箱根駅伝になりました」

 藤原は区間3位。チームは3年ぶりにトップ3を逃し、総合4位に終わった。

「我々が入学する10年ぐらい前から4位より下の順位にはなっていなかったので、最低限の4位は死守できましたが、戦力を揃えられなかった。

僕自身も直前までケガをしていましたし、1個上の強い世代では杉山智基さんしか走れなかった。なるべくしてなった4位という結果でした。

 自分たちの代で優勝するには、とにかく全員がしっかり走れる状態で本番を迎えること。そう思って、最後の年のスタートを切りました」

 ラストイヤーは主将を務めながらも、藤原自身はマラソン挑戦をも意識した1年になった。

 3年時の箱根直後から月間1000kmを走り、熊日30キロロードレースでは、同学年のライバル・松下龍治(駒澤大)に敗れたものの、従来の学生記録を上回る1時間30分13秒の好記録をマークした。また、6月中旬から7月中旬にかけてはアメリカ・コロラド州ボルダーに遠征し、後に所属するHondaの合宿に参加した。その間にはカナダの試合にも出場した。

「いろんな経験をさせてもらった上半期でした」

【一度きりの花の2区で見せた覚悟】

【指揮官と箱根駅伝】中央大・藤原正和が一度きりの2区で奪取した区間賞と指揮官として目指すもの
4年時は念願の2区でエースらしい走りを見せ、区間賞を獲得した photo by Jiji Press/代表撮影
 一方、チームはこの年から田幸寛史氏がコーチに就任。しかし、前半戦は故障者が相次ぎ、駅伝シーズンに入ると、出雲駅伝は11位、全日本大学駅伝は7位と苦戦が続いた。

「田幸さんも僕に遠慮していたところがあったのでしょう。全日本が終わった日に『腹を割って話そう』ということになり、今のチームに欠けていることや必要なことなど、お互いにいろいろと意見交換しました。箱根はいい形で迎えられそうでした」

 もちろん最後の箱根は、藤原は2区を走るつもりで準備をしていた。ところが、チームは直前にアクシデントに見舞われてしまう。

「5区を予定していた1年生の中村和哉が、直前にインフルエンザにかかってしまったんです。あれが大きな誤算。非常に悔やまれます。5区を予定していた選手が走れなくなった時点で、『藤原、もう1回上ってくれ』って言われたのですが、最後はエゴを通させてもらい、2区を走らせてもらいました」

 12月29日の区間エントリーの時点で、念願の2区に登録されたが、胸中は複雑だった。それでも、いざ本番を迎えると、自分の走りに集中した。

 1区は上位争いが団子状態。先頭と18秒差の9番手でタスキを受けた藤原は、花の2区でごぼう抜きの快走を見せる。

 留学生のオンベチェ・モカンバ(山梨学院大)、高校同期の清水将也(日大)、そしてライバルの松下と先頭争いを繰り広げると、最後は一騎打ちになった松下を突き放し、先頭でタスキリレーを果たした。歴代4位(当時)となる1時間07分31秒の好記録で区間賞も獲得した。

「自分の走りができた喜びと達成感がありました」

 まさにエースの名にふさわしい活躍だった。

だが、会心の走りの中にも、悔やまれる点もいくつかあった。

「2区って、1回目より2回目のほうがタイムが伸びると言われますけど、本当にそうだな、と思いました。

清水が入りの5kmを突っ込んで入ったのに、僕は怖くて攻めきれませんでした。

 10kmでモカンバと清水と僕と松下の4人になった時も、すごく余力があったので自分でレースを作ればよかったのに、そこで仕掛ける勇気がありませんでした。それに、権太坂をハイペースで攻めてもよかったなとも思っています。それが、いまだに悔やまれますね。

 三代直樹さんの当時の区間記録は最後の3kmが速いので、自分は20kmまでにタイムを稼ごうと考えてスタートしたはずなのに、(区間記録よりも)その代のエースの称号が欲しいっていう気持ちがどこかにあったのでしょうね。そっちを優先させてしまいました」

「初めての2区」という観点で見れば、藤原の記録は当時の最高タイムだった。タラレバを上げればキリがないものの、もし過去3年間のうち1回でも藤原が2区を走っていたら、ラストイヤーでは途轍もないタイムが出ていた可能性があった。

 もうひとつ悔やまれるのがチームの順位だ。1年生の中村に代わり、急遽5区を担った高橋憲昭が区間19位と苦しい走りになり、チームは往路12位に沈んだ。復路でなんとか盛り返したものの、総合5位にとどまった。

「5区の高橋に渡った時にはやっぱり不安が大きかったです。道中を見ていて、本当に苦しい思いをさせてしまい、申し訳ないなっていう気持ちが大きくなりました。

チームも15年ぶりにトップ4から落ちてしまい、主将としても非常に申し訳ない結果になりました」

 今年の箱根駅伝で5区を担った青山学院大のキャプテン、黒田朝日(現・GMOインターネットグループ)の走りを見て、藤原は当時に思いを馳せたという。それは、もうひとつの選択肢、自身が「4年連続で5区を走っていたら」という妄想でもあった。

「僕に黒田朝日君みたいな勇気があれば、もしかしたら、自分もこういうことができていたんじゃないかって思いました。ただ、当時は自分の他に2区を任せられる選手が育っていませんでしたが」

 これもまたタラレバになるが、藤原が5区に回っていれば、それまでにビハインドを背負うことになるものの、その分、箱根山中でごぼう抜きショーが繰り広げられていたかもしれなかった。

 そういった後悔をいくつか口にしながらも、やはり2区を走った経験は、藤原にとって特別なことだった。

「キャプテンをやっていたのもありますし、それまで走りたくても走れなかった区間でしたから。最後に走りたい区間を走らせてもらって、いろんな思いが凝縮された2区でした」

 4年間のうち最も印象深い箱根駅伝を問うと、迷うことなく、最後の箱根駅伝の2区を挙げた。

 箱根駅伝の快走から2カ月後、藤原は3月のびわ湖毎日マラソンで快挙を成し遂げる。一般参加ながら、日本人トップの3位。2時間08分12秒のフィニッシュタイムは、12年ぶりの初マラソン日本最高記録であり、さらには、日本学生最高を1分以上も更新した。そして、その年のパリ世界選手権の日本代表にも選出された(本番は欠場)。

【監督として見据えるもう一つの頂点】

 実業団のHondaで活躍したあと、2016年に駅伝監督として母校に帰ってきた。

「(自分の学生時代と比べて)箱根駅伝の捉え方は、180度、さらにもうひと回りして540度ぐらい変わりました。これはもうとんでもないことになっていると思うぐらい、インパクトの違いがありました。トレーニング、走る量、ポイント練習の質、生活、熱量、それらすべてが非常にレベルが高い。今の時代は当時を凌駕しています。

 当時の選手のほうが上だったと思えるのは、マネジメント力というか、自分で自分の問題を解決する能力、自分を深く知る能力ですね」

 こう話すように、自身が学生だった頃とは、箱根駅伝がまったく別物になっていることを素直に認めつつ、後輩たちの指導に当たっている。

 就任1年目、チームは予選会からの出発だった。初陣は予選会で次点の11位とまさかの本選出場を逃す結果に終わった。中大として本選出場の連続出場記録が「87」で途絶えてしまった。

「朝練習の時に酔っ払った人から電話がかかってきて、『お前のせいで予選会で落ちた』とかなんとか延々と言われたり、本当にしんどかったですよ。でも、当時の中大が抱えている問題点を解決しないことには、監督を替えたところでよくなるわけではない。そういったことをレポートに書いて大学に提出しました。わりと保守的な大学ですが、ああいう事件(予選落ち)があったから、箱根に真剣に取り組んでくれるようになったのだと思います」

 今は、予選会校に甘んじていた時期からは脱して、中大は再び上位争いの常連となっている。

なかなか優勝には届かないものの、毎年のように優勝候補にも名前を連ねている。

 一方、駅伝だけでなく、トラックで活躍する選手が多いのも今の中大の特徴だ。若い選手を積極的に海外のチームに派遣させ、スピード強化に注力するのは、藤原監督の現役時代の経験に基づくものだった。

「自分自身がマラソンで世界に出て行った時に、まったく太刀打ちできなかった。根本的なスピードが違いました。自分が指導者になったら、そこにアプローチしようと思っていました。そうしないと、日本の陸上、マラソンは絶対によくならないですから。

 世界大会に出るだけだったら、今までどおりでもいいですけど、僕は高橋尚子さんや野口みずきさんの(五輪)金メダルを見てきた世代ですから、指導者という立場になったからには、ドラスティックに何かを変えなきゃいけないという考えでずっとやってきました。そういう取り組みを加速させる一方で、箱根も勝たないといけません。いまだに批判されますから。箱根も勝てないのに、トラックばかりやっているんじゃないよ、って」

 常に優勝を求められるのは伝統校の宿命だ。それでも、藤原は自身の信念に基づき、箱根駅伝だけでなく世界で戦える選手を育成するために強化に取り組んできた。そして、今の大学駅伝界で屈指のスピード軍団になった。

 もちろん、箱根駅伝をおろそかにしているわけではない。

 藤原が箱根駅伝を志した中学3年の正月(1996年)が、中大の最後の総合優勝だ。その時以来となる頂点を見据えて、着々とチームの強化にも取り組んできた。

「いろんなことにアンテナを張りつつ、年々ブラッシュアップさせており、去年の夏はボリュームを増やすほうへ大きく舵をとりました。すぐに結果が出るものではないので、逆に言うと、今季はかなり楽しみに駅伝シーズンを迎えられるなと感じています」

 指揮官として迎える11年目のシーズン、藤原はこう手応えを口にする。もちろんライバル勢も強力だが、頂点はもう少しで手が届きそうなところにある。

Profile
ふじわら・まさかず/1981年3月6日生まれ、兵庫県出身。西脇工業高(兵庫)―中央大―Honda。出雲駅伝、全日本大学駅伝を含む3大駅伝には大学4年間すべて出場。箱根駅伝では1年時から3年連続で5区、4年時に2区に出走し、1年、4年時に区間賞を獲得。卒業直前のびわ湖毎日マラソンで当時の初マラソン日本最高記録で、夏の世界陸上パリ大会日本代表に内定した。卒業後はHondaで競技を継続し、世界陸上選手権には2013年モスクワ大会、15年北京大会のマラソンを含め計3回、日本代表に選ばれている。2016年3月に現役引退を表明するとともに、中大陸上部の駅伝監督に就任し、現在に至る。

和田悟志●取材・文 text by Satoshi Wada

編集部おすすめ