先月、北海道で起きた二つの凶悪事件に相次いで判決が言い渡された。
「旭川女子高校生殺害事件」の内田梨瑚(りこ)被告には懲役27年、「江別大学生集団暴行死事件」の川村葉音(はおと)被告には懲役30年という結果となった(※)。
犯行当時、内田被告は21歳、川村被告は20歳だった。
※前者は2024年4月に旭川市で17歳の女子高校生が殺害された事件。後者は同年10月、江別(えべつ)市で20歳の男子大学生が集団暴行を受けて死亡し、金品を奪われた事件。
いずれの事件でも遺族は極刑を求め、世論にも厳罰を望む声が広がった。しかし、裁判所が選択したのは、ともに有期刑だった。
そもそも、有期刑と無期懲役を分けるものは何なのか。
実は、犯行当時の年齢が旭川・江別の被告らとほぼ同じだった女性に対し、無期懲役判決が言い渡された事件がある。1990年に起きた、いわゆる「赤池町保険金殺人事件」だ。
当時まだ20歳だったこの女性が起こした、無期懲役が相当と判断されるほどの身勝手で残忍な事件とは、いったいどのようなものだったのか。(ライター:ミゾロギ・ダイスケ)

焼けた自動車から男女2人の遺体が見つかる

事件の第一報は、1990年12月28日付の夕刊に載った。同日正午前、福岡県田川郡にある赤池町(現・福智町)の職員から同県の田川警察署に「町民グラウンドの駐車場に止まっている自動車の中で、男女2人が焼け死んでいる」と通報があった。
翌朝、男性は田川郡赤村に住む無職のAさん(27)、女性は赤池町に住む宝石販売店従業員のBさん(20)だと判明した。その後、現場の詳しい状況も明らかになった。

Aさんは運転席、Bさんは後部座席で見つかっていた。
車内にはガソリンをまいて火をつけた痕跡があり、Bさんの顔や頭、両手などには刃物による傷があった。運転席の床からは果物ナイフ、自動車から数メートル離れた側溝からは血のついた包丁も発見された。
Bさんは12月25日夜、家族に「友達のところへ行く」と言い残して外出し、そのまま行方が分からなくなっており、家族は27日、田川署に捜索願を出していた。
一方、車内にはAさんがBさんを殺害したと受け取らせる内容のメモが残されていた。
警察は当初、男性Aさんが、女性Bさんを道連れに無理心中を図った可能性があるとみていた。しかし、2人が交際していた事実は確認されず、遺体の傷や車外で見つかった凶器など、無理心中とみるには不自然な点がいくつもあった。
そして、この“無理心中”説は、年が明けると大きく揺らぎ始める。

20歳の女性店員に5000万円の生命保険

1991年1月末、未婚だったとみられるBさんに約5000万円の生命保険がかけられていたことが報じられた。
契約されたのは、事件の約1か月前。受取人は家族ではなく、Bさんを雇っていた宝石店の経営者だった。その後、普通死亡の場合は5000万円、災害死亡の場合は1億円の契約だったことも判明した。
まだ20歳の従業員に、雇用主を受取人として最大1億円の生命保険がかけられていた。
あまりにも不自然だった。
福岡県警は、無理心中ではなく、保険金を狙った殺人事件の疑いを強めた。2月には現場を再検分し、Aさんについても他殺の可能性を視野に入れた。
同年10月、福岡県警は事件を保険金目的の殺人と断定。古美術店主の小田義勝容疑者(43)と、宝石店経営者の益田千栄(ちえ)容疑者(21)を、殺人と死体遺棄の疑いで全国に指名手配した。
益田は前年、小田が面接を担当した美術品オークション会社の求人に応募し、同じく応募者だったBさんと知り合った。その後、小田は益田を社長に据えた宝石販売会社を設立し、Bさんを従業員として雇った。益田は事件当時20歳だった。
報道では、益田が事件前からBさんに、テレホンクラブを利用して男性と知り合うよう勧めていたことも明らかになった。
テレホンクラブとは、主に男女の出会いを目的に、当時流行したサービスである。広告などで電話番号を知った女性が店に電話をかけると、料金を払って店内の個室で待機している男性客につながり、気が合えば実際に会う仕組みだった。
Aさんも12月25日、飯塚市内のテレホンクラブへ出かけた後、行方が分からなくなっていた。
捜査当局は、小田と益田がBさんを殺害して高額の保険金を得ようとし、その死を男性との無理心中に見せかけるため、テレホンクラブで相手役の男性を探してAさんを巻き込んだとみた。
小田と益田は、ともに姿を消していた。

男は死刑に、女は逃亡を続ける

事件から3年近くたった1993年11月、埼玉県浦和市内で強盗致傷事件を起こした男が逮捕され、指紋照合によって、指名手配中の小田だと判明した。

福岡県警は翌1994年、小田を赤池町事件の殺人容疑で逮捕した。しかし、小田は黙秘を続け、犯行を直接的に裏づける物証も乏しかった。益田も行方不明だったため、殺人容疑はいったん処分保留となった。
その後、小田が親族や知人に犯行を打ち明けていたことが分かった。福岡県警は1996年、小田を同じ殺人容疑で再逮捕し、福岡地検が殺人罪で起訴した。
小田は裁判でも当初は黙秘していたが、1999年、AさんとBさんを殺害したことを認めた。翌2000年3月、福岡地裁は、保険金殺人を計画的に主導したとして小田に死刑を言い渡した。
小田の弁護人が量刑不当を理由に控訴したが、のちに小田自身が取り下げ、死刑が確定した。

10年にわたった逃亡生活

小田の死刑が確定してから約1か月後の2000年4月29日午後9時ごろ、一人の女性が田川署を訪れた。全国に指名手配されていた益田だった。
事件から約9年4か月が経過し、犯行時20歳だった益田は30歳になっていた。
益田は逃亡中、埼玉県や東京都など関東地方で生活していた。小田に死刑判決が言い渡されたことを知り、自殺するか出頭するか迷った末、警察へ行くことを決めたという。
益田の供述により、それまで詳しく分かっていなかった殺害場所も判明した。Bさんは福岡県田川市夏吉の山中、Aさんはそこから約15キロ離れた田川郡川崎町安真木の戸谷ケ岳山中で殺害されていた。

金のために一人、偽装のためにもう一人…

2000年7月、福岡地裁で益田の初公判が開かれた。
益田は、「間違いありません。二人のかけがえのない命を奪い、悔やんでも悔やみきれません」と述べ、起訴事実を全面的に認めた。Bさんは、事件の約1か月後に成人式を迎えるはずだった。母親は、用意していた振り袖を娘の棺に入れたという。
小田と益田は、益田の店で働いていたBさんを殺害し、生命保険金を得ようとした。当初の計画は、テレホンクラブで呼び出した男性に睡眠薬を飲ませ、その男性の自動車でBさんをひき殺した後、男性も事故の責任を感じて自殺したように見せかけて殺害するというものだった。
益田はBさんとともに、テレホンクラブを通じてAさんを呼び出し、小田から渡された睡眠薬を缶コーヒーに混ぜて飲ませた。ところが、Aさんは完全には眠らず、Bさんもバットで殴られても気絶しなかったため、計画どおりには進まなかった。

そこで、小田が果物ナイフでBさんを刺殺した。その後、益田とともにAさんを別の場所へ連れ出し、小田が包丁で脅して「Bさんを殺した」という内容のメモを書かせたうえ、刺殺した。
Aさんは保険金計画とは何の関係もなかった。初めから、Bさんを殺した加害者に仕立て、自殺したように見せかけるための殺害対象とされていたのである。
AさんとBさんの遺体はAさんの自動車に載せられ、赤池町の駐車場でガソリンをまかれて焼かれた。益田は公判で、凶器とされた果物ナイフと包丁を示されると「自分が購入したものだと思う」と答えた。

事件当時20歳の女に無期懲役

益田が出頭した時点では、死体遺棄と死体損壊については、当時3年だった公訴時効が完成していた。そのため、益田は2人に対する殺人罪で起訴された。
益田の公判で、すでに死刑が確定していた小田は“犯行は自分が指示し、益田はそれに従っただけだ”といった趣旨を述べ、“益田の死刑だけは避けてほしい”と訴えた。
2002年6月27日、福岡地裁は益田に対し、求刑通り無期懲役を言い渡した。裁判所は、小田と益田を2人の殺害を共謀した共同正犯と認定。一連の犯行を、「人命を奪うことを何ら躊躇(ちゅうちょ)しない極めて冷酷な犯行」と指摘した。
犯行を計画・主導し、2人を直接殺害した中心人物は小田だった。

しかし益田も保険金の受取人となり、被害者の誘い出し、睡眠薬や凶器の準備、無理心中の偽装など、犯行の実現に重要な役割を果たしたと判断された。

「赤池町保険金殺人事件」と旭川、江別との違い

最後に、なぜ旭川事件と江別事件では有期刑が選ばれ、赤池町事件の益田には無期懲役が言い渡されたのかについて考察してみたい。
まず、益田の裁判は裁判員制度の導入前で、裁判官のみで審理された。一方で、旭川・江別の両事件は裁判員裁判だったという制度上の違いがある。ただし、この違いだけで量刑の差を説明できるわけではない。
刑事裁判において、量刑では、被害者数、動機、計画性、犯行の態様、共犯者の中で果たした役割、犯行後の態度などが総合的に判断される。
被告人の年齢も考慮の材料になるが、若ければ刑が軽くなるということでもない。犯行当時、未成年だった被告人が死刑判決を受けた例もある。
「旭川女子高校生殺害事件」では、内田梨瑚被告は主犯と認定されたものの、被害者は1人で検察は懲役27年を求刑し、裁判所も求刑通りの判決を言い渡した。
「江別大学生集団暴行死事件」では、検察が川村葉音被告に無期懲役を求刑したが、裁判所は“事件のきっかけを作った責任は重い一方、暴行はほかの共犯者より少なく、死亡への直接的な寄与も限定的だった”として、懲役30年を選んだ。
これに対し、「赤池町保険金殺人事件」では、被害者が2人で、金銭目的の計画的犯行だったことが量刑を重くした。
益田の裁判当時、2人に対する殺人で有期懲役を選んだ場合でも、上限は20年で、現在のような懲役27年や30年という刑は存在しなかった。「20年では軽すぎる」と判断された場合、無期懲役との間を埋める選択肢がなかったのである。この制度上の違いも、3つの事件の量刑を比較するうえで、重要な背景だろう。
犯行を主導したのは小田だった。それでも、犯行時20歳だった益田は、金銭目的で計画された2人殺害の共同正犯であり、その冷酷な犯罪を成立させる重要な役割を担っていた。
結果として、遠い将来に仮釈放される可能性が残されているとはいえ、出所時期の定めのない重い刑を背負うことになったのである。
■ミゾロギ・ダイスケ
昭和文化研究家、ライター、編集者。スタジオ・ソラリス代表。大学の文学部を卒業。スポーツ雑誌、航空会社機内誌の編集者を経て独立。『週刊大衆』をはじめ、各媒体で執筆活動を続ける。犯罪、芸能全般、スポーツ全般、日本映画、スキー、プロレスなどを守備範囲とするが、特に昭和文化研究はライフワークだ。著書に『未解決事件の戦後史』(双葉社)。


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