「石油大国」のはずのロシアで、ガソリンスタンドに長蛇の列ができ、市民同士が殴り合う――。そんな異常な光景が各地で日常となっている。
ガソリンスタンドの前で、男たちが…
ガソリンスタンドの前で、男たちが殴り合っていた。
ロシア各地のSNSに、こうした映像が次々と投稿されている。給油の順番を巡って怒鳴り合い、つかみ合う運転手たち。
何時間も列に並んだ末に「本日分は終了」と告げられ、空のタンクを抱えて立ち尽くす市民。これがエネルギー大国を自称してきた国の、ありふれた日常の風景になった。
プーチン大統領は開戦以来、国民にひとつの約束をしてきた。政治的自由は制限する。その代わり、国内の安全と生活の安定だけは必ず守る、と。この暗黙の社会契約こそが、彼の統治を支える土台だった。
だが今、その土台が音を立てて崩れ始めている。そして崩壊の現実を最もよく知っているのは、クレムリンの報道官でも国営テレビでもない。怒りの声を上げ続ける、普通の住民たちなのだ。
石油産業全体の損失は1兆ルーブル超えとも
ウクライナ軍は自らの長距離ドローン攻撃を「長距離制裁」と呼び、ロシア領内の石油精製所を執拗に狙い続けた。6月18日、モスクワ地域の燃料の40%を供給するカポトニャ精製所が大規模攻撃を受け、その黒煙はクレムリンからわずか15キロの首都の空を覆った。
同月24日には国内第4位のNORSI精製所が主要ユニットを破壊され完全停止。ウクライナ国境から1,500キロ離れたオレンブルクのガス化学施設にまでドローンは到達した。
結果、ロシアの石油精製能力は推計で最大40%がオフラインになった。原油処理量は過去21年で最低水準。石油産業全体の損失は1兆ルーブルを超えると試算されている。
これは戦術的な嫌がらせではない。国家のエネルギー供給網を内側から破壊する、計算された経済戦争である。
この打撃は、即座に市民の生活を直撃した。
話が違う、とはまさにこのこと
当初15地域だった燃料問題は、公式に21地域へ拡大。ウクライナ側の分析では実質60地域に及ぶという。
さすがのプーチン自身もこの危機を認めざるを得なくなったようだ。プーチンは政府高官との会議で「ガソリンスタンドに長蛇の列ができている」「必要な等級のガソリンが常に手に入るわけではない」と語った。
あれほど「すべては計画通り」と繰り返してきた男が、燃料不足を公式に認めたのである。話が違う、とはまさにこのことだ。
政府の対応も迷走している。ガソリンと航空燃料の輸出を半年間全面禁止し、毎月2,000億ルーブルもの補助金を投じてポンプ価格を抑え込もうとした。それでも価格は週に約1%ずつ上昇を続けている。
さらに苦肉の策として、燃料の品質基準を「ユーロ5」から「ユーロ3」へ引き下げた。許容される硫黄含有量は1キログラムあたり10ミリグラムから150ミリグラムへ、一挙に15倍に跳ね上がった。
エンジンを傷める粗悪な燃料を市民に押し付けてでも、量を確保するしかないところまで追い詰められている。
かつてヨーロッパ全土にエネルギーを供給した大国が、今やベラルーシやカザフスタンに緊急輸入を要請している。国民の目に、これが威信の失墜と映らないはずがない。
怒っているのが反体制派だけではないという事実
だが、ここで重要なのは、怒っているのが反体制派だけではないという事実だ。むしろ戦争を最も熱心に支持してきた愛国的な軍事ブロガー、いわゆる「Zブロガー」たちこそが、政府への批判の急先鋒になっている。
登録者150万人超を誇る軍事チャンネル「リバール」は、ウクライナの狙いがロシアの防空システムそのものを枯渇させることにあると警告した。
背後にあるのは絶望的なコストの非対称性だ。ウクライナのドローンは1機数万ドル。それを撃ち落とすパンツィリやトールの迎撃ミサイルは、1発でその10倍以上かかる。
安価な標的のために、貴重な迎撃弾を浪費させられ続ける。Zブロガーたちは「なぜ後方の重要インフラを守れなかったのか」と軍指導部の無策を激しく糾弾している。
高官たちの口からも、諦めが漏れ始めた。国家安全保障会議書記のショイグは「ロシアのどの地域ももはや安全だと感じることはできない」と公言し、国防相が誇る「97%の迎撃率」を真っ向から否定した。
最も深い亀裂は、地方と中央の間に走った
下院議員のグルリョフ元中将は「すべてをカバーすることは不可能だ」と認め、広大すぎる領土ゆえに大都市や軍需工場を「点」で守るしかないと告白した。元防空司令官にいたっては、第二次大戦時代の灯火管制を都市に導入せよと提案する始末である。
軍内部の腐敗も露呈した。無人機部隊トップのユーリ・ヴァガノフは、配管業出身で軍歴もないことから「トイレのユーラ」と揶揄され、彼の推薦がなければ実戦で有効なドローンですら採用されないという腐敗した調達システムを築いたと告発されている。
不当にドローンを奪われた部隊が、航空支援もなく突撃を命じられ、無駄な犠牲を強いられていると兵士たちは激怒している。
クルスク州では、同盟国・北朝鮮から供与された防空システムを、情報共有の欠如からロシア軍自身が誤射して破壊するという前代未聞の同士討ちまで起きた。
そして、最も深い亀裂は、地方と中央の間に走った。
ウクライナと国境を接するベルゴロド州。住民にとって空襲警報もドローンも、もはや日常茶飯事だ。彼らは自分たちが見捨てられていると感じている。
政府への信頼喪失は、静かに、しかし確実に臨界点へ
国営「チャンネル1」が平和な日常を伝える投稿をした際、ベルゴロドの住民たちが殺到し、コメント欄を「#ベルゴロドもロシアだ」というハッシュタグで埋め尽くした。
モスクワの平和を守るために、自分たちが盾にされている。その悲痛な叫びである。彼らはまだ反政府デモを起こしてはいない。
クレムリンはこの現実を隠そうと躍起になっている。モスクワへの大規模攻撃の後、外務省報道官は民間被害だけを感情的に非難し、石油インフラへの決定的打撃には一切触れなかった。
国営テレビ各局は、数百機が飛来した攻撃の報道を合計1分未満に抑え込んだ。さらにモスクワ市長は、攻撃の被害映像を市民が公開・共有することを全面禁止し、違反者に罰金を科した。燃え盛る石油ターミナルを背景に自撮りした2人が逮捕される事態も起きている。
しかし、隠せば隠すほど、不信は募る。前線で血を流し、燃え上がるインフラをSNSで目の当たりにしている人々に、「すべて計画通り、被害は軽微」という官製の物語は通用しない。
皮肉なことに、政府がTelegramの遮断に踏み切った結果、それを警告手段に使っていた最前線のロシア軍防空部隊が、接近するドローンの情報を受け取れなくなった。
プーチンが国民と交わした契約は、もはや果たされていない
「自らの手で味方の防空網を盲目にしている」とZブロガーたちは叫んだ。情報統制が、自軍の首を絞めたのである。
ガソリンスタンドで殴り合う市民。
彼らの怒りに共通しているのは、反プーチンのイデオロギーではない。「守ると言ったではないか」という、裏切られた者の怒りだ。
プーチンが国民と交わした契約は、もはや果たされていない。黒煙に覆われた首都の空が、配給制の長い列が、罰金で口を塞がれた住民の沈黙が、そのことを雄弁に物語っている。話が違う——その一言が、いま広大なロシアの大地の至るところで、激しい怒りになって巻き上がる。
エネルギー大国としての威信は失墜し、国民との「生活の安定」という約束は完全に破綻した。プーチン政権がいくら情報統制で現実を覆い隠そうとも、ガソリンスタンドの長蛇の列や地方の悲痛な叫びといった日常の崩壊は隠しきれない。
反体制派だけでなく、愛国派や兵士までもが抱く「話が違う」という根深い不信感。それは今、政権の足元を揺るがす巨大な亀裂となり、広大なロシアの大地を静かに、しかし確実に侵食し始めている。
文/小倉健一 写真/shutterstock

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