サザンオールスターズないし桑田佳祐の楽曲には、大きく分けて3つの街が登場します。東京と横浜、そして湘南です。
使い分けは実に明快。

東京はずばり孤独で淫靡な街(『東京』『東京ジプシーローズ』『亀が泳ぐ街』など)。横浜は大人の遊び場(『LOVE AFFAIR~秘密のデート』『涙のアベニュー』『思い出のスター・ダスト』など)。
最後に桑田の生まれ故郷・湘南ですが、こちらは青春の地。『希望の轍』『ラチエン通りのシスター』『湘南SEPTEMBER』といった楽曲の歌詞で表現されているのは、淡い思春期の思い出。おそらく桑田にとって、茅ヶ崎辺りの砂浜は彼が“世界一好きな曲”と公言しているイタリア人歌手・ミーナの名曲『砂に消えた涙』よろしく、若き日の情熱を埋めた青春の墓地なのでしょう。


昔は加山雄三の街だった茅ヶ崎


桑田率いるサザンがブレイクする前、茅ヶ崎は上原謙・加山雄三親子の街でした。もともと、9代目市川團十郎をはじめとする、文化人の邸宅が数多く立ち並ぶこの別荘地へ2人が移り住んできたのは戦前のこと。
以来、彼らにあやかろうと、住居のあった駅南口の最も賑やかな通りが『雄三通り』(それ以前は『上原謙通り』)と命名されるなど、長らく市公認の「街の顔」として君臨していたのです。

1999年夏、海水浴場が『サザンビーチちがさき』に


風向きが変わったのは、1999年夏。平成に入ってから来客数の減少に悩んでいた茅ヶ崎海水浴場の名称が、茅ヶ崎市観光協会によって変更されます。その名も『サザンビーチちがさき』。
それ以前から、「茅ヶ崎=サザン」というイメージは世間的にもある程度定着していましたが、行政がその事実をPRの材料に利用したのはこれが初。しかも改名以降、海水浴客の数が増加したこともあり、茅ヶ崎が正式に「サザンの街」となる気運は明らかに高まっていました。


5万人分の署名を獲得! 茅ヶ崎ライブ開催が決定


こうした時流を意識してか、桑田はこの年の年越しライブ『晴れ着 DE ポン』のMC内において、こんな発言をします。

「今年の夏は海が見える所でライブをやりたいです。“チ”がつく所で……」

このコメントを受けて、茅ヶ崎市内のサザンファンは立ち上がります。これまで前例のなかった野外での大型コンサート実現に向けて、2000年の年明けから、茅ヶ崎駅北口前などで署名運動を開始。その結果、茅ヶ崎市の人口の約4分の1以上となる5万人分もの署名を獲得し、4月に入るとついに、茅ヶ崎公園野球場でのライブが決定したのです。

ライブに合わせて書き下ろされた『HOTEL PACIFIC』


本番は2000年の8月19日。この日に向けて、様々なプロモーションがなされました。ライブの数ヶ月前から、茅ヶ崎駅の改札口に「おかえりなさい桑田佳祐」と書かれた横断幕が掲げられたり、神奈川新聞や産経新聞神奈川県版などでライブの事前特集記事が掲載されたり……。


さらに桑田は、このコンサートでお披露目するための、ある特別な楽曲を書き下ろします。その名は『HOTEL PACIFIC』。これは、かつて上原謙・加山雄三親子がオーナーを務めた、茅ヶ崎のシンボル『パシフィックホテル』を歌った曲。1998年秋に、惜しまれつつも取り壊されたこの宿泊施設で、桑田はアルバイトをしたこともあるそうです。
そんなパシフィックホテルについて歌うことは、茅ヶ崎市民のノスタルジーを喚起する目的もあったでしょう。それと同時に、上原謙・加山雄三から街の顔としてのたすきを受けたのは自分である……。
そんな意図も込めて、桑田はこの曲を制作した、というのは邪推し過ぎでしょうか。

福山雅治や爆笑問題も出演


『HOTEL PACIFIC』ひっさげて行われた『茅ヶ崎ライブ ~あなただけの茅ヶ崎~』は、2日間で計46000人を動員。開会の挨拶を福山雅治が務めたり、爆笑問題の太田と田中が、それぞれ桑田と原坊のコスプレをして登場したり、茅ヶ崎漁港沖から花火が打ち上げられたりと、趣向を凝らした演出に彩られた夢の宴は、大盛況のうちに幕を閉じました。

このライブ以降、「茅ヶ崎のサザン化」は活発化していきます。00年には雄三通り近くの通りが『サザン通り』と命名され、02年になると、海水浴場に『サザンビーチモニュメント』が登場。さらには2014年、茅ケ崎駅のホーム発車メロディが『希望の轍』へと変更されました。

おそらく、これからもしばらくの間、茅ヶ崎は桑田の青春の疼きを綴った楽曲が良く似合う街であり続けるのでしょう。
(こじへい)

※イメージ画像はamazonよりGuitar songbook サザンオールスターズ 全曲集 (GUITAR SONG BOOK)