2000年を象徴する、長嶋巨人のミレニアム打線。

「超超超いい感じ〜」とモーニング娘。
が『恋愛レボリューション21』を高らかに歌い、ダフトパンクが『One More Time』を鳴り響かせたあの時代。プレイステーション2や初の内蔵型カメラ付き携帯電話が発売され、勢いで2000円札が発行されたりと、世の中にはミレニアムの浮き足立ったお祭りムードが充満していた。

巨人の『ミレニアム打線』


そんな時に誕生したのが、長嶋茂雄が命名した巨人の『ミレニアム打線』というわけだ。ミスターらしい、なんて能天気なネーミングだろうか? とにかく打って打って打ちまくる。チームを4年ぶりのリーグ優勝に導いた当時の強力打線は、今でも野球ファンの間で度々話題に挙がるインパクトがあった。
4番には26歳の松井秀喜が座り、3番は広島からFA移籍してきた江藤智、5番ファーストでは清原和博とマルティネスを併用。さらに6番高橋由伸、7番二岡智宏の驚異の下位打線。
ベンチには「クセ者」元木大介もスタンバイ。
この時、攻撃的1・2番コンビを組んでいた仁志敏久と清水隆行は、のちに『ジャイアンツ80年史』という記念本の中で対談して、「2000年前後の打線は文句なく理想的なものだった」と回想。さらに「僕らの時代は間違いなく、ジャイアンツの歴史の中でも最も戦力が充実していた時代」とまで言い切っている。

とにかく派手に打ちまくったミレニアム打線。優勝を決めた9月24日の中日戦(東京ドーム)では4点ビハインドの9回裏、江藤が同点満塁弾をかっ飛ばし、続いて二岡がライトスタンドへサヨナラ弾の劇的V。満面の笑みで出迎える背番号3のミスター。
もちろんチーム本塁打203本は両リーグ1位だ。

強力オーダーを可能にしたものは


この強力オーダーを可能にしていたのはFA補強組と逆指名入団組だった。マスコミやファンから「そんなに獲ってどう使うんだ」とディスられながらも、清原、江藤とセ・パを代表する4番打者をFA補強。さらに仁志、由伸、二岡と毎年のように逆指名ドラフトで若き目玉選手の獲得に成功。

賛否はあるだろうが、球史に残るミレニアム打線の原動力は、この時代にしかできない補強策だ。93年に導入され2006年まで14年間続いた希望入団枠制度のドラフトで、巨人を逆指名した選手は延べ22名。多くのアマチュア球界の有望選手が巨人に集結し活躍したが、時は流れ、その内2016年現在もチームに在籍するのは、00年1位逆指名の阿部慎之助と03年自由枠の内海哲也の2名のみである。

07年から戦力均衡という元のあるべき姿に戻ったドラフトだけでなく、FA制度にしても、もはや一流の日本人選手は巨人ではなくMLBを目指す時代だ。そう、自ら巨人を飛び出し、海を渡った上原浩治や高橋尚成のように。

打線の中心は松井秀喜


当時、あれだけ個性的な選手を獲りまくってもチームが崩壊しなかったのは、打線の中心に長嶋監督自らドラフトで引き当て、育て上げた松井秀喜が君臨していたからだろう。
その証拠に絶妙なバランスで成立していたミレニアム打線は、翌01年に長嶋監督が退任して、02年オフにゴジラ松井がヤンキースへ移籍すると、あっけなく終わりを告げる。

歴史の変わり目だった2000年


今思えば、20世紀ラストイヤーの2000年というのは、プロ野球にとっても歴史の変わり目だった。春には日本で初のメジャー開幕戦が東京ドームで開催され、ボビー・バレンタイン監督が率いるニューヨーク・メッツと、サミー・ソーサ擁するシカゴ・カブスが対戦。秋の日本シリーズではON対決が話題となり、4勝2敗で長嶋巨人が勝利。
MVPは打率.381、3本塁打、8打点の活躍を見せた4番松井秀喜が獲得。テレビ視聴率も第2戦で32.9%を記録したが、日本シリーズの視聴率30%超えはこの年が最後だ。
ちなみにプロ野球開幕前の3月27、28日には、来日していたメッツとカブスの両軍と巨人がオープン戦で対決。驚くべきことに巨人は松井・由伸のアベックホームランでカブスに6対0と完勝、続いてメッツにも由伸の2試合連続本塁打の活躍で9対5と連勝。長嶋野球の完成系とも思える猛打を誇る巨人は、なんと開幕直前の本気モードで来日していたメジャーリーガーたちを一蹴してみせた。

ミスターの監督人生の集大成ここにあり。
20世紀最後を派手に飾った『ミレニアム打線』は、巨人史上最も強く儚い打線だった。
(死亡遊戯)

(参考資料)
『ジャイアンツ80年史1993-2003』(ベースボール・マガジン社)
『週刊プロ野球セ・パ60年 2000』(ベースボール・マガジン社)