「いおうじま」から「いおうとう」へ その真相は?
小笠原諸島・父島で撮影した様々な島、東京への距離が出ている指標。<br>残念ながら硫黄島の指標は東京まで1007kmの指標に隠されてしまっていますが……この指標によると、硫黄島までは272km、北硫黄島までは207km、南硫黄島までは330km(1989年6月撮影)
先日、硫黄島の呼称が「いおうじま」から「いおうとう」へ変更されると国土地理院から発表された。
国土地理院の発表によると、硫黄島については、地元で旧島民が「いおうとう」と呼んでいた背景もあり、小笠原村から国土地理院に地名修正の要望が寄せられ、国土地理院と海上保安庁海洋情報部で構成する「地名等の統一に関する連絡協議会」で検討を続けてきた結果、「硫黄島」の呼称を「いおうとう」に変更したという。


「とう」と「しま」この呼び方の違いには何か定義のようなものはあるのだろうか。
国土地理院の測図部基本情報調査課に聞いてみた。
「『しま』と『とう』の違いについては定義のようなものはありません。現地での呼称が元になり優先されます。山や川といった自然地名についても同じです。そのため、地図を作る上で地名の表記、呼称については市町村など自治体に確認をしています」とのこと。


硫黄島は、昨年公開の渡辺謙主演のアメリカ映画『硫黄島(いおうじま)からの手紙』の影響もあってクローズアップ。
テレビなどで「じま」と発音されることが多くなったため、旧島民から「じま」ではなく「とう」だという意見が多く寄せられていて、昨年、国土地理院から地名確認の問い合わせがあった際に村として呼称の変更を要請することにしたという。

では、もともと島民が「いおうとう」と呼んでいたものが、なぜ「いおうじま」になってしまったのだろう。
小笠原村に問い合わせをしてみた。

「硫黄島は、第二次大戦前までは島民たちに『いおうとう』と呼ばれていましたが、戦後アメリカの統治下でアメリカ軍が『いおうじま』と呼んだことから、その呼び方が一般的になりました。なぜアメリカ軍が『いおうじま』と呼んだかというと、それは戦時中の日本軍の地図に『いおうじま』と表記されていたからのようです」と総務課の渋谷さん。


「でも、戦時中に実際に硫黄島にきた方々は、島民と同じように『いおうとう』と呼んでいたようです。これはご遺族の方々などから聞いた話です。島民に『いおうじま』ではなく『いおうとう』だと聞いたため、地図の呼び名ではなく現地と同じように『いおうとう』と呼んでいたようです」

「硫黄島はご存じのように戦後アメリカに統治され、昭和43年にアメリカから返還されました。昭和50年代に東京都を通して村に国土地理院から地名の確認があったのですが、この時に当時一般的になっていたということから、島の読み方を『いおうじま』と回答したようです。今もそうですが島に旧島民は帰っていません。沖縄のように統治されていても島民がいればまた違ったのかもしれませんが……」

先の国土地理院の「現地での呼称が優先」ということからすれば、今回の変更は当然のことのようだ。

生まれ育った土地の名前は自分の名前と同じように、その土地に生きる人々にとっては大切なもの。

「硫黄島の呼び方については以前から、旧島民から『いおうとう』にという意見がありました。また『いおうじま』、『いおうとう』、どちらなのかという問い合わせも多くありました。今回の地名変更は映画『硫黄島(いおうじま)からの手紙』がきっかけということではありませんが、追い風になったことは確かです」

「硫黄島の旧島民は島に帰れません。せめて名前だけでも戻したいという思いでした」という渋谷さんの最後の言葉が心にしみた。

東京都では、硫黄島旧島民の心情に報いる措置として、年2回(春・秋彼岸)、航空機を利用した日帰りによる墓参を実施。
しかし上陸時間はわずか3時間ほどと短いため、小笠原村ではゆったりと墓参や里帰りができるようにと、定期船「おがさわら丸」による硫黄島訪島事業を平成9年度から年1回(6月)実施している。訪島は、硫黄島旧島民の他にも戦没者遺族、小笠原村立中学校生徒及び、一般小笠原村民も参加できる。

「硫黄島」の呼称の変更にあわせて「北硫黄島」の呼称は、「きたいおうじま」から「きたいおうとう」に、「南硫黄島」の呼称は、「みなみいおうじま」から「みなみいおうとう」に変更される。図名のふりがなを修正した地図は今年9月1日に刊行される。
(こや)

*硫黄島には一般人は観光などで上陸できません

エキサイトシネマ『硫黄島からの手紙』検索