『平氏―公家の盛衰、武家の興亡』(中央公論新社)著者:倉本 一宏Amazon |honto |その他の書店

◆近代までたどり先入観を一掃
平氏(へいし)は有名だ。でも誤解されている。
「驕る平家は久しからず」と言われるが、そもそも平氏は滅びたのか。本書は、平氏の全体像を示し、平氏への先入観や間違った理解を正す。

平氏の生き延びを痛感したことがある。大学院生の頃、京都の古書店を回ると、店先でお公家さんが和歌をしたためた自筆短冊が売られていて驚いた。江戸後期のものが多かったが、「(交野)時萬」とか「(平松)時量」とか「時」の字の付いた署名が結構あった。時が付く名前は北条時政・義時など平氏に多い。
調べてみると、やはりそうだった。幕末まで平氏の子孫の公家が何家もあって貴族として生き延びていた。

また、幕末の孝明天皇のフンドシを毎日取り換え、布地を貰っていた駿河という女官の子孫を探してみたことがある。桂宮家の諸大夫(重臣)・生島成房の娘(『幕末の宮廷』)とあり、苦労して子孫を見つけ出してみると、「うちは平家なんです」という。平清盛の甥の系統が許されて京都に帰ったそうだ。孝明天皇は、平清盛の弟の子孫の女性と二人きりで、お手洗いに入っていた。
たまげたのを憶えている。

本書は最初に平氏を二つに大別する。有名な「桓武平氏」と「その他の平氏」だ。桓武平氏をさらに「武家平氏(高望(たかもち)流)」と「公家平氏(高棟(たかむね)流)」に二分。その他の平氏は四分して説明している。

さて、平安後期・鎌倉期をみる時、教科書で教えぬ要点がある。
知っておかねば、当時を理解できない。その時分のエリートは、概して三位以上の「公卿」と、以下の「諸大夫(しょだいぶ)」の二つの階層で出来ていた。公卿とは大臣の公(こう)と朝廷の最高会議に列席する高官の卿(けい)だ。二十人前後しかいない。牛車に乗る平安貴族の主人公は彼ら。公卿と諸大夫とでは大差があった。
諸大夫は○○守といった国司にはなれる。ただ公卿たちのしもべになって奉仕し、出世を狙う存在だ。天皇に血縁が近いあいだは公卿層高位にいられるが、天皇の玄孫・六世孫など血が遠くなると、諸大夫層に下る。院や公卿に奉仕せねば無位無官まで落ちる。

桓武平氏のうち公卿層でいた成功者の系統が「公家平氏」。平時忠たち高棟流だ。
一方、諸大夫層に落ち、京で武者になるが、やがて伊勢などを根拠に「武家平氏」として勢力を蓄え、中央に復帰してきたのが、平清盛たち高望流の伊勢平氏だ。この「武家平氏」は朝廷で栄えるため「公家平氏」と婚姻などで再び結合する。そのあと清盛死後は、この武家平氏は源平合戦に敗れて没落する。しかし、武家平氏と結合した公家平氏の一部は「日記(にき)の家」といわれた宮廷での記録実務の力でもって生き残り続けた。

この系統が以降も、堂上(とうしょう)家となって幕末まで続き、維新後爵位を授けられた。西洞院(にしのとういん)・平松・長谷(ながたに)・交野(かたの)・石井(いわい)といった家々であり、大学院生の私がみた平家らしい名前の和歌短冊をしたためたのは、これらの家の当主であった。


驕ったとされた平家は一部。本書は平家が久しく生き残る姿も、近代まで丁寧に追跡して書き込んである。平氏は、徳島県の祖谷(いや)や能登半島の上(かみ)・下(しも)時国家(ときくにけ)など、地方に去っていった落人伝説のイメージが強い。しかし平氏は近代まで、宮廷の中枢にちゃんといたのである。

【書き手】
磯田 道史
歴史学者。1970(昭和45)年岡山市生れ。国際日本文化研究センター准教授。2002年、慶應義塾大学文学研究科博士課程修了。博士(史学)。日本学術振興会特別研究員、慶應義塾大学非常勤講師などを経て現職。著書に『武士の家計簿』(新潮ドキュメント賞)、『殿様の通信簿』『近世大名家臣団の社会構造』など。

【初出メディア】
毎日新聞 2022年9月3日

【書誌情報】
平氏―公家の盛衰、武家の興亡著者:倉本 一宏
出版社:中央公論新社
装丁:新書(312ページ)
発売日:2022-07-20
ISBN-10:4121027051
ISBN-13:978-4121027054