ビジネスマンにとって大きな悩みのひとつが「コミュニケーション能力を上げたいがどうしたらいいのか」だという。つまり、「対話が苦手」だというのだ。
◆悪口について
■お世辞のインフレを止めるということ
お世辞の攻撃的な性格については先述しましたが、言葉での攻撃というのならば、悪口こそが攻撃である、と思われるかもしれません。
たしかに悪口は、直接的な攻撃の方法として、きわめて有効です。しかし悪口を武器としてのみ認識してしまうことは、その効能の半分か、あるいは七割方を見失ってしまうことになる。
悪口の効能というと、首をかしげる方が多いと思います。日本的な組織のなかでは、悪口というのは百害あって一利のないものと、考えられていますね。それはたしかに、当たっているところがあります。
かつて竹下登という政治家がいました。
竹下という人は、袂(たもと)を分かった小沢一郎とは対照的に、徹底的に突出をさける、目立たないことを信条にしてきた人です。リーダーシップを隠しに隠して、何重にも根回しをして、関係者全員の顔をたてて、事態を動かしていく。
味方を増やすだけではなく、敵を極力作らないようにして、細かい気配りを武器に、敵方にもシンパサイザーを作る。こうして自民党の他派閥だけではなく、野党のなかにも子分を作り、官界、財界、メディアに縦横無尽のネットワークを作っているのです。日本的組織のチャンピオンみたいな人なのですね。
竹下さんは、人の悪口を云わないことで有名でした。何しろ口癖が、「褒め言葉は相手に届くまで3ヵ月かかるが、悪口は翌日に伝わる」という人ですから。
竹下登という人に、政治家の功罪は別として、私は強い敬意を抱いています。この人ほど粘り強く、かつ徹底的に権力闘争に勝ち抜いてきた人はいません。その、ほとんど人間離れしたといえるほどの忍耐強さと、きめ細かさは、まさしく圧倒的なものです。
しかしまた、人間離れをした、と云いましたけれど、なかなかこういう生き方に徹するのは難しい、というよりどうしても竹下的には出来ない人がいるんですね。どうしたって、人の輪から浮いてしまう。我慢がきかない。根回しをするような繊細さをもっていない。
そういう人たちが、生きていく上で大事なのが、「悪口」なのです。
■生きていく上で「悪口」は武器になる
お世辞というものが、竹下的な、我慢強く周到な人にとっての武器だとするならば、悪口というのは、もっとあけすけな人にとって道具になるものなのです。
というのも、悪口というのは、楽しいのですね。云う者にとっても、聞く者にとっても、悪口は楽しい。親友の悪口を云うのは許さん、という人もいるけれど、たいがいの人は、どんな親しい人の悪口も喜んで聞くものです。自分からは云わないまでも、人が云う分には楽しくて仕方がない、というような人が随分いる。
無論あまり激しくやると、毒舌家という評価が固まってしまって、警戒をされてますます浮いてしまう恐れがありますから、その辺には注意が必要ですし、どの人について、どの程度の批判をしていいのか、ということについては、かなり繊細な注意が必要であることは云うまでもありません。
しかし、以上の点に留意した上ならば、悪口は絶大な効果をもちます。日本的な、風通しの悪い、湿度の高い組織風土のなかで、悪口というのは、きわめて普遍的な娯楽であるからです。
特に、誰からも嫌われている、あるいは迷惑がられている人について、悪口を並べることは、きわめて安全かつ安価な娯楽となるでしょう。
この場合、大事であるのは、悪口を云うあなた自身が、その喜びを客観化しておくことです。湿った風土で、上司の悪口を云う、という快感にもろに浸ってしまうと、最終的には自分自身を卑しめる結果になってしまうからです。つまりは、陰湿になってしまう。
だから、悪口という娯楽に興じつつも、云う自分を客観視しなければならない。もっと具体的に云うと、その場で悪口に興じているメンバーの中で、あなたの云う悪口がどのように受け取られ、働いているのか、ということを常に用心深く観察している必要があるのです。悪口は、快楽をもたらしますが、それに浸り切ってしまうと、その奴隷になってしまうからです。
その点に留意さえすれば、悪口には多くの利点があります。
悪口には、コミュニケーションの道具として、きわめて優れた力があります。悪口を云うという場を共有することで人と結びつくことが出来る。意思疎通の糸口にもなるのです。
悪口を共有することで、心を許しあったかのような感覚を、交わす相手との間でもつことが出来る。これこそが悪口の効用です。繰り返しになりますが、それはきわめて仮初(かりそ)めのもので、また陰湿なものに転化しやすいということさえ認識しておけば、なかなか便利なものです。
特に依頼心と警戒心が強く、自分からは口火を切らないくせに、悪口を聞きたくてウズウズしているといったタイプにたいしては、悪口という餌を与えることで、一定の影響力をもつことすら出来ます。
■悪口が信頼感を高める効果があるということ
さらに大事なのは、悪口には、信頼感を高める効果もあるということです。
悪口を云っておいて、信頼というのはおかしい、と思われるかもしれませんが、考えてみて下さい。どんな人のことも悪く云わない、どんなバカげたことでも肯定するような人が、あなたを褒めたとしても、それをあなたは、素直に喜べますか。
しかし、つねに辛辣(しんらつ)なことを云う人が、例外的にあなたを褒めたりすれば、それは嬉しいのではないでしょうか。悪口には、お世辞のインフレーションを止める効果もあります。
ただし、この辺は非常に微妙なところですね。
微妙というのは、私の商売である批評という営為にもかかわるのですが、批判という行為と、悪口というものの境界は、非常に確定しにくい、ということです。
というよりも、ない、と云った方がいいかもしれない。
もちろん、批判というのは、対象の欠点なり誤りなりを指摘する行為であり、悪口というのは、対象をわざと悪し様に云うことだ、というように分類することができるでしょう。非常に乱暴な分け方をしてしまえば、批判は正当で、悪口は邪(よこしま)だということになります。
だが、云うまでもなく事態はさほど簡単ではありません。というのも、批判される方からみれば、批判された欠点なり誤りなり、迷惑なりというものは、欠点でも何でもない、ということが往々にしてあるからです。というより、ほとんどの場合がそうです。
とすると、批判される側から見れば、いかに正当な批判であっても、それはためにする曲解であり、歪曲(わいきょく)であり、要するに中傷、悪口にすぎないということになる。
一方、悪口を云う方にしてみれば、云われる方に相応の瑕疵(かし)があるからこそ云っているのだ、という意識があるのです。正当性があると思っている。
逆に云えば、あの人の食事の仕方は本当に下品だとか、まったく進退が見苦しいといったことについて悪口を云うにしても、それがまったく対象から遊離して説得力をなくしてしまっていては、悪口としての機能も果たさないわけです。
さらに、悪口が複数の人間のなかで許容されるには、ある程度その指摘が共通了解になっていなければならないわけで、その点からすれば悪口には、いずれにしても正当な批判としての部分がなければならない、ないのならば悪口としては失格だ、ということになるでしょう。
■批判と悪口の境界はどこにあるのか?
このように、悪口と批判は、なかなか分別(ぶんべつ)しにくいものですが、明確な指標がないことはありません。それは、指摘にかかわる悪意のあり方の差です。
といって、悪口は悪意の塊だが、批判は善意からなされるということではありません。悪口は、悪意をすすんで露呈し、また悪意自体を楽しむが、批判は悪意を隠蔽(いんぺい)しようとし、その隠し方をこそ楽しむということです。その点からすれば、悪口と批判の差は、露悪と偽善の違いということになります。
隠し方の差は同時に、語られるべき指摘が、主観的であるか、客観的であるか、ということの差異にも通じます。批判は、その偽善的な性格のために客観的な様相を呈し、悪口はその露悪のために主観的な様相を呈するのです。
さらに云うならば、ある人物への指摘が共感を聞いている人達の間に共有される場合に、その場を支配する雰囲気がどのような悪意に染められているかによって、語られることが批判であるべきか、悪口であるべきかが分かれるのです。
つまり、最初に申したような世辞のインフレーションを止めるものとして、悪口を云う場合には、批判としての性格を強めなければならない。つまり、悪意を押し隠して、客観性を装わなければならない。なぜなら、評価の中立性のごときものを主張出来なければ、みずからの世辞をはじめとする発言の裏づけをなすには至らないからです。
しかしまた一方、娯楽として、あるいはコミュニケーションとしての指摘は悪意を共有するということが、享楽の大きな要因となるので、悪口として、つまりは悪意を顕在的にして語らなければならないのです。云うまでもなく、享楽は、主観的に、つまりは料理を自分の舌で楽しむようにしなければ、味わい尽くせないからです。
しかしまぁ、批判にしろ、悪口にしろ、何と楽しいのでしょうか。この楽しさ、快楽というのは、きわめて美味であると同時に、毒でもあります。その快楽に耽溺(たんでき)しすぎると、酒やある種の薬物と同様に、理性を失ってしまう。理性を失ってしまうような危険があるからこそ楽しいのですが。
私などは、酒をやめられないのと同様に、悪口を云うこともやめられないと思います。いやそれどころか、老いぼれて酒にも女にも涸(か)れてしまったとしても、悪口を云うことだけは、やめないでしょう。いやな爺さんですって? いやいや申し訳ありません。
■なぜ悪口はそんなに楽しいものなのか?
では一体、何がそんなに楽しいのでしょうか。
もちろん好意をもっていない、もしくは敵意を抱いている相手にたいして、攻撃を加える面白さはあると思います。
でも、これは逆説的に聞こえるかもしれませんが、そこに過度の攻撃性が含まれている場合、悪口はさほどの快楽をもたらしません。むしろ実際的な側面、つまり悪口の暴力性や、反発といったことが気がかりになる。娯楽とみなすべきものではなくなってしまう。悪口のもたらす快楽と、攻撃性は、一致しないと考えた方がいいようにすら思えます。
私たちは、時に、さほど嫌っているわけではない人のことを、あるいはどちらかというと、好きであったり、あるいは世話になっていて、とてもそんなことを云えた義理ではない人の悪口を云ったりします。
そこが悪口の面白いところであり、また怖いところでもあります。
なぜ人は、さほどの敵意を抱いていない相手の悪口を云ってしまうのか。
それは悪口のなかに、きわめて知的な側面があるからですね。つまり、ある人のなかにある、滑稽であったり、奇怪な部分を発見した時に、それを指摘し、表現したいという欲望を抑えることが非常に難しいのです。
そういう意味では、悪口には一種の批評精神が欠かせません。三国時代の高名な文人陳琳は、また悪口の天才でもありました。一介の文人ながら魏の曹操を向こうに回して、その祖父が宦官(かんがん)であるという出生からその後の渡世までを徹底的に罵(ののし)り、曹操の面目を天下に失わせた故事は有名です。梟雄(きょうゆう)でありながら、深い文人趣味をもっていた曹操は、後に捉えた陳琳を罰することなく許しましたが、それは罵られた本人ですら認めざるを得なかったほど陳琳の悪口の文学性、芸術性が高かったためでしょう。
悪口の芸術性ということで云えば、何か漠然としたおかしさや不具合を見つけた時に、それを的確に表現した時の気持ちよさというのは、なかなかのもので、それを披露したいという欲求はきわめて強いものです。
(『福田和也コレクション1:本を読む、乱世を生きる』から本文一部抜粋)