4月1日、東京都新宿区の早稲田大学では、2年ぶりに入学式が行われ、卒業生である作家の村上春樹氏が祝辞を述べた。そのなかで村上氏は小説の役割を語った。
「なぜかくも日本人は小粒なってしまったのか」
■甘えというよりは人間の質の劣化にほかならない
「治に居て乱を忘れず」という易経の訓おしえもまた永遠の真理です。
「乱を忘れず」というのは備えを怠らないという意味を超えて、精神のあり方、気構えの持ち方を語っているといってよいでしょう。
平和な時代においても「覚悟」を持ち続けているということ。
けれども、こうした気構えを今日の日本人はまったくなくしてしまった。
身を賭して外敵と戦うというような事態を荒唐無稽な夢物語としてしか捉らえられなくなってしまった。
その点でも、やはり、日本人は小さくなったのではないでしょうか。
そうした事態に思いを及ぼす事、その時自分はいかに振る舞うのか、怯えるのではないか、逃げるのではないか、卑怯なふるまいをしてしまうのではないか。
失敗をして味方を不利に陥れてしまうのではないか。
そうした恐怖、想像力を働かせないですむ日本人は、たしかに幸せなのでしょうが、幸せな分だけ小さいこともまた否めません。
もちろん、小さくたって、稚なくたって、平和で幸せならばいいじゃないか、という意見もあるでしょう。
でも、それは本当の「幸せ」なのか。どうなのか。
「ささやかな幸せ」というけれど、それはそれで苛烈なものです。小さい所帯だって、きちんと支えていくのは容易なことではない。
その容易ではないことをなり立たせていく厳しさも、実は私たちは忘れてしまったのではないか。
自分がしなくても、誰かが、政府が、国が、社会がやってくれると思っているのではないか。
それは甘えというよりは人間の質の劣化にほかならないでしょう。
平和な時代であっても、人は必ずしも劣化するわけではありません
江戸時代も平和な時代でした。
徳川時代も将軍三代目までは、多少の争乱もあったけれど、二百数十年間、戦らしい戦もなしに泰平を謳歌しました。
その点で、徳川家康と、そのスタッフたちの制度計画は、端倪すべからざるものだ、と云ってよいでしょう。
家康は、織田信長、豊臣秀吉で頂点に達した、戦国時代の大量動員を前提とした戦争システムを徹底的に破壊して、国内平和の礎を築きました。
徳川政権の凄みは、平和を定着させた事だけではありません。
むしろ、かくも長き平和にもかかわらず、国民の資質が低下しなかったことに、徳川時代の面白さ、凄さがあります。
特に、平時には無用であるはずの武士階級が、旺盛果敢な闘志を維持し続けたのみならず、学問をすら身につけたことは、日本の歴史的蓄積として大きな意味がありました。
徳川幕府は、直接統治を行わず、全国各地を諸侯の統治に委ねましたが、その一方で、武家諸法度などによる厳しい管理体制を築きあげ、その施政に過失、遺漏があれば、容赦なく罰し、時には国替え、取りつぶしといった過激な罰則を加えていました。
そのため諸大名もまた、武士官僚の質の向上に力を入れないわけにはいかなくなり、文武双方を藩士たちに叩き込んだのです。
となれば、当然、出来不出来がでてくるわけで、そこで血統を基準とする封建身分体制とはやや異質な、実力主義の論理が出てくるわけです。
■大隈重信は、江戸の統治が生んだ、典型的な秀才
前述した大隈重信などは、江戸の統治が生んだ、典型的な秀才といっていいでしょう。
彼を生んだ佐賀鍋島藩は、もともと藩士教育について熱心でした。
熱心な余り、成績不良な学生の家禄を半分にする、といった罰則まで設けていました。
受験地獄というのは、いまや、やや懐かしい言葉になりましたが、いくら厳しい試験だとはいえ、失敗すると親の給料まで半分にされてしまうというような事はありません。
それほど、当時の藩の経営は厳しく、また武士たるものの責任は重かったのです。
ご存じの通り大隈は、後に早稲田大学を作るのですが、鍋島藩の教育方針への強い反発から自由闊達な学問の府を作ろうとしたといわれています。早稲田の自由な気風が、その後、一人の大隈を生んだか、というと意地が悪いですが。慶應義塾とて、一人の福沢を生んだわけではないので、偉そうな事は云えませんけれど。
いずれにしろ、こうした厳しい鍋島藩の教育から、幕末から明治にかけて活躍した大隈重信、江藤新平といった俊英が生まれました。
大隈重信という人は、おそらく官僚としては近代以降では一番優秀な人だったのではないでしょうか。外交が出来て、経済がわかって、財政を弁えて、産業振興にも一家言ある。今日ではお目にかかることが望めない、きわめて大柄な官僚でした。
スーパー官僚中のスーパー官僚、と云ってよい存在です。
驚くべきは、二百五十年の泰平をへて、このような大器を徳川の統治は、明治に残せたということです。
それは、やはり、ある種の奇跡としか云い様がありません。
その奇跡は一体、どうして可能だったのか。
翻って、戦後七十六年の平和は、奇跡的経済成長を成し遂げた後、急速に翳りを増していきました。
その核心に人材の払底がある事は、疑いをいれないことでしょう。
なぜ、戦後七十六年の平和は、大隈重信を生めなかったのか。
この問いは、「時代が違う」といった安易な回答に陥ることなく、今一度、問いかけなおしてみる価値があると思います。
たしかに、佐賀藩は極端な例であるとしても、各藩の藩士教育は、厳しいものでした。
薩摩藩の「郷中」と呼ばれる六歳から二十四、五歳までの少年、青年たちの自治教育組織は、絶対に負けない、卑怯なことをしない、命をかけても名誉を守る、弱い者いじめをしない、という武士道を徹底的に実践させたのですが、そこから西郷隆盛、大久保利通ら英雄が澎湃(ほうはい)として現れてきたのは、御存じの通りです。
その教育ぶりは、厳しいうえにも厳しいものであり、目上の命令に背く事、仲間を裏切る事、弱い者苛めをする事、なによりも卑怯な振る舞いをすることは禁止され、違反したときは、子供であっても腹を切らされました。
■国家の柱石となる人物をいかに作るか
鹿児島出身の作家の海音寺潮五郎は、当時の薩摩藩士が、死を軽く見る事は異常なほどだったと書いています。
島津の殿様が、大規模な巻き狩りを行った時、命令を下す前に鉄砲を撃った者がいたといいます。
発砲音のために獲物を逃がしたので、「勝手に発砲したものは、切腹申しつける」と殿様が命じると、次々に発砲する者が出た。
流石に激怒して、発砲した者らを引き立てて、「なぜ、余の命に背いた」と問うと、みな口々に「切腹が怖くて、撃たんと思われるのは名折れです」と答えたといいます。
ここまで来ると冗談じみていますが、殿様ももて余すほどの猪武者(いのししむしゃ)を、薩摩藩が泰平の間育て続けてきたことには、感嘆せざるをえません。
特段の宗教的な強制があるのでもないのに、不名誉よりも死を選ぶことについて、何の疑いももたない人材を輩出しつづけた事については、研究してみる価値があるのではないでしょうか。
陋屋(ろうおく)に、十人ほどの若者が集まって車座になり、点火した火縄銃を天井から吊し、ぐるぐる回す、という肝だめしも行われたといいます。まさしく命がけですが、そうまでして死を怖れない人間を作りだすという気風は、やはり得難いものです。
しかも、輩出したのは、猪武者ばかりではありません。
まぎれもない、明治日本の設計者である大久保利通をはじめとして、高橋是清と並ぶ近代日本随一の財政家である松方正義や、帝国海軍の実質的建設者である山本権兵衛ーー花街から女郎を誘拐して妻にしたといいますから、若い頃はかなりの乱暴者だったのでしょうがーーも、このくんずほぐれつから出てきたのです。
陸軍が長州、なかんずく奇兵隊の影響を強く受けているのにたいして、帝国海軍は、薩摩藩の気風を強く受け継いでいます。
その幹部を養成する海軍兵学校は、往時、日本で一番の難関校でした。
学業においても、体育においても、最優秀の一握りの学生しか、入学を許されない。
しかも、その学業、訓練は、厳しいといった水準を超えるものでした。
毎年、何人もが病気で退学するだけでなく、在学中死亡する学生も数多かった。
大戦前、兵学校で英語教師をしていたセシル・ブロックは、その回想のなかで、モデルである英国のダートマス海軍兵学校よりも遥かに厳しい教育を行っている、と記しています。
兵学校の仮借無い教育は、郷中の厳しさを受け継いだものなのでしょうか。
いずれにしろ、国家の柱石となる人物をいかに作るか、という意識において当時の日本が今とはかなり違う考え方を抱いていたことは確かでしょう。
■国家民族の命運のためには、一個人の生命などは何ほどの意味ももたない
国家民族の命運のためには、一個人の生命などは何ほどの意味ももたない、というような考え方が、問い返すまでもない常識として浸透していました。みずからの身の上を含めて、国のため、名誉のためには、一命を投げ出すという覚悟が、覚悟ともいえないほどの当たり前として徹底されていたのです。
平気で生徒を殺せる教育。
もちろん、教師たるもの、学生を死なせて平気であるわけがありません。
しかし、その厳しさがなければ、極東の小国はなりたっていかない。
だから、止むを得ず厳しくせざるをえない。
それは、教える側にも、強烈な負担と気構えを迫るものであることは間違いありません。
一時期、こうしたスパルタ教育は、画一化された人間しか生まなかったと批判されました。
けれども、今、思い返してみれば、現在とは比較にならない、多彩な人物を生んでいると思うのですけれども。
鈴木貫太郎や野村吉三郎、山梨勝之進、山口多聞、大西瀧治郎、小沢治三郎のような人物を、戦後日本は、生んだでしょうか。
(続く)
(『福田和也コレクション1:本を読む、乱世を生きる』より本文一部抜粋)