なぜ人を傷つけてはいけないのかがわからない少年。自傷行為がやめられない少年。
抽象的な話は前回までで置いておくことにして、今回からは読者の皆さんの日常に関係がありそうな話をしたい。とはいっても、わたしの性格上、またしても抽象的な語り口になってしまうであろうことをご寛恕願いたい。
わたしは今でも精神衛生上の理由から、臨床心理士に月一度のカウンセリングを受けている。今となってはことさら深刻な話をすることも滅多にないが、妻以外に自分の心境を話すことができる誰かを確保しておくことは、心の健康上とても大切なことだと思っている。
ところで、臨床心理士がふと話してくれたことであるが、最近は不倫や、それにともなう離婚に関する相談もずいぶんと増えたそうである。コロナ離婚という言葉がまことしやかに語られたこともあったが、その真偽はともかくとして、ストレスフルな状況下に置かれた夫婦が多いことは間違いなさそうである。
わたしは今まで、小さな教会で牧師をしてきた。だから、自分が働いている教会で結婚式の司式をした経験はほとんどない。一方で、ホテルのアルバイトで結婚式の牧師役(役といってもわたしは本物の牧師ではあるが)をしたり、知り合ったカップルに頼まれて、小さなバーで何組かの司式をしたりはしてきた。そのうちのある夫婦は今でも仲良く暮らしているし、別のカップルは別れた。別れることもまた、人生の決断の一つである。別れた人々に対して「別れてかわいそう」だとか「無駄な結婚生活だった」というような考え方をわたしはしないし、そういう考え方を好まない。人にはそれぞれ事情があるものだ。
それはそれとして、別れた理由が不倫であった場合。不倫というからには「倫理的ではない」という価値判断があるのは間違いない。結婚生活をしていながら、別の人と関係を持つ。それもパートナーには隠して。たしかに、それはお世辞にも倫理的な行為とはいえないだろう。ただ、不倫をした人/してしまう人を一方的に断罪しても仕方がないと、わたしは思う。なぜ、その人は不倫をしてしまったのか。その人が今なお不倫をやめられないのはどうしてなのか。わたしはそのあたりの消息に想いを馳せたいのである。
人間にはさまざまな欲望があることは、古代から知られていたことだった。聖書には十戒という、信仰の十の戒めがある。神がモーセに授け、モーセが人々にそれを伝えた。
隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。 出エジプト記 20:17(新共同訳)
ここで気を付けないといけないのは、わざわざ禁じているということはすなわち、人間がそれをしょっちゅうやらかしていたということである。聖書では、あの伝説的な王ダビデでさえ他人の妻を欲しがり、彼はなんと彼女の夫を意図的に激戦地に送り込んで戦死させ、彼女を自分のものにしてしまったのだ。まさに十戒違反である。他人の妻あるいは夫を羨ましがり、そのパートナーを妬む。羨ましいのが先か、妬むのが先かは鶏と卵である。いずれにせよそれは、「他人のところにいる」から欲しいのである。三角関係は二人では成立しない。「あいつが愛しているあの人を」欲しいと思う。
他人の芝生は青いどころではない。
一夫一妻の結婚史に、その原初から不倫の歴史もこびりついてきたのかもしれない。だとすれば、たまたま不倫をしてしまった人を、これみよがしに断罪しても不毛ではないか。あなたが既婚者であったとして、あるいはこれから結婚を考えているとして、古代から不倫は続いてきたのに、あなただけは絶対に不倫などしないという保証は、どこにあるだろうか。
不倫は、パートナーとの関係に強いストレスを感じているときにこそ起こる。わたしはさまざまな相談を受けるなかで不倫の相談を受けることもある。だが一人として「不倫が楽しくて仕方がない」という人はいない。
そもそも現代において、夫婦関係が冷めてしまったり、新しい相手に欲望を持ってしまったりする問題を、夫婦だけで解決しようとすること自体に無理があるのだと思う。かつて夫婦は社会に対してある程度公的な存在であった。だから結婚は社会への宣言という性格を持ち、結婚式には友人だけでなく親族や会社の人々も呼ばれたのである。
しかし時代は変わった。たしかに、会社の上司や親族一同を集めて結婚式を挙行することは、手間もかかるしわずらわしい。今はカップル同士とわずかな友人を集めての簡素な結婚式も増えた。
こうして今や夫婦は夫婦「だけ」の関係、親族とも会社の上司とも無関係な、とてもクローズドな関係になっている。当人同士が自分たちだけの自由意志によって一緒に暮らすのである。夫婦以外の他人がその関係に対して、おいそれと口出しできるものではない。あえてそんなことをすれば、一つ間違えれば余計なお世話どころかハラスメントである。他人の愛情関係はそっとしておくことが基本であり、仮に相談を受けたとしても「まあそんなこともあるよね」と、無難に済ませて話題を変えるのがせいぜいのところだろう。今や夫婦とは他人たちから見て、どこまでもプライベートな関係だからである。
だが上述のとおり、どのような形式であれ、結婚式には公的な性格があったはずである。
なぜ、かつてはめんどうくさくても親族一同や職場の同僚が集まっていたのか。それは、そうした関係者のなかにも世話好きな人々が多かったからである。これら世話好きな人々が結婚式の準備を手伝い、あるいは祝儀を出したりして、これから結婚する者たちとの信頼関係を培った。そして新郎新婦が夫婦喧嘩などで行き詰まった際には、夫婦はこれらの人々のなかの誰かには泣きつくことができたのである。彼ら彼女らが喧嘩の仲裁をしてくれたりと、なにかと世話を焼いてくれたのだ。
そして、他の宗教の場合もおそらくそういう性格はあると思うが、教会での結婚式の場合、牧師や神父は新郎新婦の結婚前後の相談役も務める。夫婦だけの閉じた関係では解決できない困難に、親族よりさらに利害関係のない宗教者が寄り添うのである。上述のような人づきあいが希薄になり、ことさら夫婦関係の問題は親しい友人にさえ相談しにくい今、宗教者が裏方としてカップルを支えるニーズも増している。わたしも幾組かのカップルの相談を受けてきたし、今も受けている。
彼ら彼女らが無事付きあい続けるか、それとも別れるのか。最終的な結果はすべて神にお任せしつつ、わたしは無理のない範囲で、若い人々と向きあっている。
文:沼田和也