なぜ人を傷つけてはいけないのかがわからない少年。自傷行為がやめられない少年。

いつも流し台の狭い縁に“止まっている”おじさん。50年以上入院しているおじさん。「うるさいから」と薬を投与されて眠る青年。泥のようなコーヒー。監視される中で浴びるシャワー。葛藤する看護師。向き合ってくれた主治医。「あなたはありのままでいいんですよ」と語ってきた牧師がありのまま生きられない人たちと過ごした閉鎖病棟での2ヶ月を綴った著書『牧師、閉鎖病棟に入る。』が話題の著者・沼田和也氏。沼田牧師がいる小さな教会にやってくる人たちはどんな悩みをもっているのだろう? 今まさに怒りに満ちあふれ、冷静さを欠いた人も来るのだろうか。憎しみと復讐心をずっと抱きつづけている人も来るのかもしれない。そんな怒りや憎悪とどう向き合ったらいいのだろう? 沼田牧師の話に耳を傾けてみたい———。



 



  あなたには赦せない相手がいるだろうか。わたしにはいる。想いだそうと思えばいつでも想いだし怒りができる(したくはないが)、そんな憎らしい相手が。しかし同時に、その人を手放している感じもある。へんな表現になってしまうが、わたしはその相手を、赦せないままに赦している。



  ディズニーの2015年の映画、『シンデレラ』を観たことがおありだろうか。観たことがないかもしれない人のために、以下、ネタバレ的な言及が少しあるが、ご容赦願いたい。大雑把なストーリーは、たぶん誰でも知っている、あのシンデレラの話である。ただ、わたしは本作品に描かれている、終盤のある一場面に目を見張った。誰かを赦すという行為の本質的な部分を、見事に描き切っていると感じたのである。



  シンデレラがガラスの靴の持ち主だと分かり、王子は彼女を連れていく。ふとシンデレラが振り返ると、彼女をさんざん虐待してきたトレメイン夫人(いわゆる「継母」)が独り階段に立ち、こちらを見ている。

するとシンデレラも彼女を見つめ返し、絞り出すように言い放つのだ。「あなたを赦します」(I forgive you.)。そしてシンデレラは少し微笑み、再び前を向くと、王子と共に去っていく。



  わたしはこの場面を観て、聖書の言葉を連想していた。



 



 「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」ヨハネによる福音書 20:23 新共同訳



 



 この聖書の言葉のなかには「赦す」と「赦さない」が出てくる。日本語だと赦すも赦さないも、どちらも「赦」という言葉を使っている。しかし原文のギリシャ語においては事情が異なる。「赦す」はἀφίημιであり、「赦さない」は κρατέωである。言葉がぜんぜん違うのだ。つまり赦すのと赦さないのとでは、そもそもまったく異なる態度を表しており、等価なYESかNOかのどちらかを選ぶというようなものではないのである。これはどういうことか。



  「赦す」ἀφίημιはlet goである。let goの目的語がhim(彼)だったりher(彼女)だったり、人間でないこと(つらい記憶など)ならitだろう。あなたは数年前、let it goというフレーズが大流行したのを覚えてはおられないだろうか。レリゴーというあれである。「ありのままに」という意味ももちろんあるだろうが、いろいろなことを「手放す」という意味あいが、そこにはある。『アナと雪の女王』序盤においてエルサは、これまでの自分のこだわりを手放す宣言を、あの歌でしているのだ。そして手放す対象が物事ではなく人であるとき、その人を手放すことが「赦す」ことなのである。



 





 



 一方で「赦さない」κρατέωはどうか。こちらは、強い力で対象を捕まえて離さないことである。もともとは「強い力を持っている」という意味があったそうだ。しかし、もしも強い力を持っていない弱い人が、それでも強い力で対象を捕らえ続けなければならないのだとしたら───無理をし続けたその人は、消耗してしまうだろう。誰かを赦さないことや、つらい記憶をめぐってあれこれ考え続けることは、よほど強靭な精神力がない限り、疲れ果ててしまうことなのである。



  だったら、相手を赦せばいいのか。つらい記憶を手放せば、つまり忘れてしまえたら、それで万事が解決するのか。だが、ここで「怒るな、忘れてしまえ」と結論するなら、あまりにも人間の現実を軽視し過ぎている。聖書によれば、人間は神に似せて創られた存在であるという。ところが、その神自身が聖書のなかで何度も怒る。それも、キレるといってもいいレベルで激怒する。その神に似せて創られた人間であるのなら、怒りもまた自然な、神からの贈りものであるにちがいない。だったら、赦しというのは怒りを強引に抑え込んで、こめかみをピクピクさせながら「「いやぁ~いいんですよあのことは!気にしないでください」と作り笑顔をすることではないはずだ。



  わたしは『シンデレラ』の、怒りのもっていきかたに感動したのだった。そう、シンデレラは怒っている。自分を虐待してきたトレメイン夫人に対して、復讐への燃え上がる想いを秘めている。だからこそ、シンデレラは自分自身を救うために、夫人に対して絞り出すようにと言うのだ、「あなたを赦します」と。

なぜ、この赦しがシンデレラ自身を救うことになるのか。それは、この赦し、すなわちトレメイン夫人を捕まえず解き放つことが、シンデレラ自身をも解放することになるからである。夫人への憎しみを手放し、心が軽くなった彼女は、今や夫人に対してではなく、自分自身に対して微笑することができるのだ。もはや彼女は、憎悪に焼き尽くされることは決してない。



  シンデレラのトレメイン夫人への赦しは「わたしはあなたにこだわらない。あなたにこだわって、疲れ果てることを選ばない。わたしはあなたに復讐しない。復讐して、さらに自分が傷つくことを選ばない。わたしは自分自身のために、あなたを手放す」との宣言なのである。そう宣言することによって過去の呪縛から解放されたシンデレラは、思わず微笑んだのであった。彼女を救い、解放したのは王子ではなく、彼女自身だったのである。



  一方でシンデレラによって解放された、すなわち彼女から赦され、復讐を免れたトレメイン夫人は、国を去ってゆく。

夫人は二度と、シンデレラの視界に入ってくることはない。それはシンデレラの人生に、今後トレメインが二度と介入してくることはないであろうことを暗示している。シンデレラは今後、実生活だけでなく記憶においても、虐待の過去に支配されることはないのである。



 





 ところで、寓話とは人間の現実を短くまとめたものだ。シンデレラがした赦しは、現実の人間が何年も、もしかしたら何十年もかけて行う赦し(赦しという言葉に抵抗がある読者には「受容」という言葉がよいかもしれない)の縮図である。話は聖書に戻るが、イエスが赦しについて弟子たちに伝えたとき、弟子たちがすぐに赦すことができるようになるとは想定していなかっただろう。むしろ、なんでもかんでもその場で笑って赦してしまうような軽薄な態度を、イエスは弟子たちに望んでいなかったはずだ。「だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」というイエスの言葉は、赦すことの大変さ、手放されることなく手元に残り続けるものの重さを物語っている。



  昨今、断捨離やマインドフルネスのブームもあり、「手放す」という生き方が注目されている。それらの生き方自体は尊いことだとわたしも思う。ただ、「手放す」という言葉を、それこそ手放しに用いるのは危険である。先にも述べたとおり、人間は心に深く刻み込まれた痛み、その傷痕を、そう簡単に手放すことはできないからである。また、手放せばよいともわたしには思えない。手放せないということ、そのこと自体もまた、その人の大切な一部をなしているからである。



  とはいえ、それでも、このように手放せないという現実を踏まえた上で、わたしは手放すこともまた、大切にしたいと思う。ただしそれは、今すぐそうするというのではなく、何年、何十年とかけて、気がついたら「あれ?いつのまにか手放せているぞ?」と、そんな手放しである。力技で手放そうとしても、それは怒りのエネルギーに逆らうことである。そんなことをすれば消耗も激しいし、いったん手放せたと思っても、怒りの逆流も起こりやすい。だったらいっそ、今は怒り、憎んでもぜんぜんかまわないではないか。こびりついた苦しい記憶から離れられず、深い絶望や悲しみ、憎しみに燃える自分を「まあいいや、レリゴーはまだまだ先だな」と眺める、もう一つの視点があればそれでじゅうぶんである。わたしやあなたがそうやっておのれ自身のことを見つめるとき、その視線は神と共にあると、わたしは思う。神だって怒るのだ。あなたと同じだ。



  肩に力を入れて「赦そう!」と無理するのでもなく、怒りがこみあげるたびに、むしろ「おっ、順調にこだわっているね」くらいの気持ちでいること。わたしはそうやって、怒りや憎しみを赦しへと発酵させていっている途中である。怒りが美味しく発酵する日がくるのを、わたしは楽しみにしている。



 



文:沼田和也



 

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