「バカとは、自分をヘビだと勘違いしたミミズ」「人間はみなダメです。(中略)ダメなのは、何も知らないことではなく、知るべきことを知らないことです。
■第1回 リュウがカーナビと言い争って高速道路の星をめざすこと
その朝はいつもとちがった。
目が覚めたとき、今日はきっとなにかが起きる。
とんでもないことが自分の人生に起きるという妙な確信がリュウの胸をざわつかせた。
とくに、変わったことがあったわけではない。
いつもとちがった夢を見たわけでもないし――もともと夢はほとんど見ない――窓から見える風景もいつもと変わりなかった。
薄めた牛乳みたいなはっきりしない雲に覆われた空の下、マンションの前の狭い道には車が渋滞している。見慣れた光景だった。
カーナビはバカだ。そのバカなナビをみんなが使っている。そいつらはもっとバカだ。リュウは車のひしめく通りを見下ろしながら思った。
みんな自分がナビを使っていると思っている
でも、そうじゃない。
本当はみんながナビに使われているんだ。
ナビに使われる人生なんてまっぴらだ。
オレはナビなんか使わない。
昨夜はマンションの前で追突事故があった。リュウが、バイトから帰ってくると、バンパーのひしゃげた車が二台、歩道に乗り上げ、双方のドライバーが「そっちが悪い」「いやそっちだ」と罵り合っていた。
リュウは思った。
「いちばん悪いのはおまえらのアタマだ」
通りすがりに、リュウは心の中でつぶやいた、つもりだった。
ところが、二人はそろって、ものすごい形相でリュウをにらんでいる。
「おい、いま、なんていった?」
ひとりがリュウに詰め寄ってきた。
ちょうどそのときパトカーがやってきて、リュウはマンションに逃げ込んだ。
リュウは頭に浮かんだことを、そのまま口にしてしまう癖がある。
小さいときからそうだった。
小学生のとき担任になった女の先生が初めて教室に入ってきたとき、つい「うわあ、デブ!」といった。
先生がつかつかと近づいてきて、もう一回いってごらんなさいというので、もういちど「デブ!」といった。
読み聞かせの授業のとき、あまりにつまらなかったので「つまらない、つまらない、つまらない」といったら教室の外に出された。
「嘘をついてはいけません」とか「正直であることが大切です」とか説教するくせに、本当のことをいうと怒られるのだ。
あるときリュウは親に「あんたは病気かもしれない」といわれて病院に連れて行かれた。
医者は「これは病気ではなく親のしつけの問題です!」と言い放って、リュウは追い出された。
でも、リュウも内心、自分は病気でなのではないかと思っている。
リュウは黙読ができなかった。
声に出さないと本が読めない。
小さい頃、声を出して絵本を読んでいると、大人たちに、ほお、読むのが上手だねえとほめられた。でも、そのうちまわりの子どもは声を出さずに本を読むようになった。でも、リュウは相変わらず音読をつづけていた。すると、以前は感心していた大人たちが、うるさい、静かにしろというようになった。勝手なものだ、とリュウは思った。
いまは多少はましになった。それでも気がつくと目にとまった文字を読みあげていることがある。電車に乗るときには週刊誌の中吊り広告に目がとまらないよう気をつけていた。
でも、そんなしみったれた過去にも今日でおさらばだ。
今日から新しい日が始まる。
理由はわからないけれど、リュウにはそうなるにちがいない気がした。
人生は変るときには変わる。
理由などわからなくても、自分の意志とかかわりがなくても、変わるときには変わる。
そのとき空にひろがっていたはっきりしない雲がふいに切れた。
朝日が幾すじもの光の束となって斜めに差し、遠くに見える高速道路の高架のあたりを明るく浮かび上がらせた。
リュウはデイパックと車の鍵を手にして部屋を出た。
かけ足で階段を下りると、マンションの裏の駐車場で車に乗り込んだ。
ゼミの合宿に出かけるのに必要だからといって親から借りた車だ。
エンジンをかける。
カーナビが女の声で「おはようございます、今日は7月22日、火曜日です。ETCカードが挿入されていません」といった。抑揚のない声。
「行き先をいってください」ナビがいった。
はっ? ナビのくせに偉そうになにいってんだ。
リュウは無視して、車を出し、マンションの前の通りに出た。
すると、ふたたびナビが「行き先をいってください!」といった。前より音量がでかい。
なんてナビだ。オヤジ、こんなのを使っているのか。
「うるせー! 黙ってろ!」
リュウは思わず怒鳴りつけた。すると、ナビが突然男の声に変わり、「どこ行くんだって聞いてんだろうが!」と凄んだ。
ギョッとしてハンドルを離しそうになった。
ナビのモニターに目をやる。とくに変わりはない。デジタルの地図の上で車の位置を示すカーソルが動いている。
リュウはそのまま車を走らせた。
幻聴だったのか? だからナビなんていやなんだ。
「耳が聞こえないのか! それともおまえはバカなのか?」
またさっきの男の声がした。
リュウは思わずブレーキを踏んだ。
だれか乗っているのか。
後ろの席を覗き込んだ。
だれもいない。
「走るのか、走らないのか、どっちなんだ!」
男の声が車の中に響いた。
なにがどうなっているんだ。
「うるさい! オレの勝手だろう。ナビのくせにいちいちうるせーんだよ」
リュウは思わず怒鳴った。
リュウはナビのスイッチを切ろうとした。しかしどこかスイッチかわからず、しかたなくエンジンを切った。静かになった。
頭が混乱していた。そのときうしろでクラクションが鳴った。リュウは道の真ん中で停まっていたことに気づいた。またエンジンをかけた。
「おはようございます、今日は7月22日、火曜日です」
ナビが何事もなかったかのように抑揚のない声でいった。女の声だ。
直ったのか? さっきのは突発的なエラーだったのか。
修理するようオヤジにいっとかないとな。
「行き先をいってください」ナビが女の声でいった。
リュウは無視して車を発進させた。ところが、ナビがふたたびさっきの男の声で「いてーな、いきなり切りやがってどういうつもりだ」と凄んだ。
ナビのくせに痛いんだ、とリュウは妙に感心し、すこし冷静さを取り戻していた。もちろんなにがどうなっているのかわからなかったがが、少なくとも、このナビ野郎と自分とはうまがあいそうにないことだけはわかった。
「どこ行くんだよ?」
「……」
「どこ行くかもわからないのか?」
「……」
「だから、おまえはダメなんだ」
「……」
リュウは無視してスピードを上げた。車の間をすり抜けるように左右に車線を変えながら走った。
「なんちゅう運転だ。危ねえだろ!」
かまわずアクセルを踏み込んだ。今朝起きたとき、なにかが起きると思ったのは、このことだったのか。
リュウは、内心、もっと強烈な、それこそ人生を一瞬にして根こそぎひっくり返してしまうようなものを予想していた。壮大なオープニングテーマにつづいて不良に襲われている美しいヒロインを助けたり、なにか大きなミッションを与えられたり、あるいは世界的に有名になったり。そこまではいかなくても、もうちょっとドラマチックな展開が待っていると思っていた。
「どこ行くんだよ? そんなことも答えられないなんて、おまえは幼稚園児か? あっ?」
柄の悪いナビだ。どういう親に育てられたんだ。いや、どんなやつがこんなプログラムを組んだんだ。
「おまえ、もういちど幼稚園からやり直したほうがいいな。連れて行ってやろう。このあたりの地理にはくわしいんだ。次の交差点を右へ曲がれ、その先150メートルで左方向だ」
「うるさい、うるさい、うるさい!」
ナビを切るスイッチはどこだ。リュウは左手の指でモニター上のボタンに片っ端からタッチするが反応しない。
「ちゃんと前見て走れ!」
「黙ってろ!」
ナビが左というとリュウは右へ行き、止まれというとスピードを上げた。後ろからクラクションがけたたましく浴びせられる。
「おい、どこへ行く!」
オレだってわからない。おまえがとやかくいうからだ。おまえのいうことは聞かない、リュウはナビにむかって怒鳴った。
車はゆるやかなスロープを登っていた。高速の入口らしい。
思い出した。この高速道路に朝の光がさしていた。それをマンションの窓から見て、オレはなにかを感じて飛び出したんだ。ちょうどいい。このまま高速に入って飛ばしてやろう。ハイウェイスターになってやる。リュウはアクセルを踏んだ。
「おいおい、なにやってんだよ!」
ナビのやつがあわてている。ざまあみやがれ。俺様はハイウェイスターだ。
さらにアクセルを踏む。背中がシートに押し付けられる。スロープを上がると本線に合流した。そのとき前方から車が突進してきた。危ねえ。左車線にハンドルを切って間一髪で避けた。なんなんだ、逆走車か?
ところが、あとからあとから車が猛スピードで逆走してくる。なんだ、この高速は? 逆走車だらけじゃねえか。
そのときリュウは事の重大さに気づいた。全身から汗が吹き出した。
「バカタレ! 幼稚園児だと思ったら、ボケ老人かおまえは!」
「そんなことより、どうすりゃいいんだよ?」
「ヘッドライトをつけろ、そしてクラクションを鳴らせ!」
リュウはビームを点灯し、ハザードランプをつけ、クラクションを鳴らしっぱなしにした。ナビのいいなりになるなんてしゃくだったが、それどころではなかった。
正面から突進してくる対抗車があわただしく車線変更する。すれ違いざま、向こうの運転手がぎょっとして、こちらを一瞥する。
「ちくしょう、あいつらのドライブレコーダーにオレが写っているんだろうな。ツイッターやインスタにその動画がさらされるんだろうな! ちくしょう、こんなかたちで有名になっちまうとは」
「くだらないこといっている場合か!」ナビが怒鳴った。
そのとおりだった。でも、どうすればいい。
「車が少なくなったときに、右端に寄って、そこで停車しろ」
でも、車はちっとも減らない。それどころか正面からでかいトラックがクラクションを鳴らしながら、ものすごい勢いで近づいてくる。
このままだと確実にぶつかる。こんなことで命を落とすなんて、なんちゅう人生だ。死ぬ前には過去の思い出が走馬灯のようによみがえると聞いたことがある。トラックがみるみる近づいてくる。でも、走馬灯のスイッチが入らない。
「ちくしょう、ナビだけでなく、走馬灯まで壊れているのかよ!」
リュウは一か八か左にハンドルを切った。中央分離帯に車体が乗り上げる激しい衝撃につづいて、視界がぐるぐるまわり、全身がいろんな所に叩きつけられ、ナビが断末魔のような悲鳴を上げたところまでは覚えているが、そのあとはなにも思い出せなかった。
(つづく)