森羅万象をよく観察し、深く思考すること。そこに新しい気づきを得たとき、日々の生活はより面白いものになる――。

森博嗣先生の新連載エッセィ「日常のフローチャート Daily Flowchart」がスタート。人生を豊かにする思考のツール&メソッドがここにあります。





第2回 人生はプログラミング



【プログラムとは何か?】



 コンピュータが一般的でなかった時代、つまり僕が大人になるまえには、「プログラム」というのは、「式次第」の意味だった。今でも、この意味で使う人がいるかもしれない。運動会とかイベントなどで、どのような順番で出し物があるのか、が書かれている。そういうものをプログラムと呼んでいた。

「式次第」という日本語の方が難しくて通じない人が多かったかもしれない。



 式次第というのは、時系列に何を実行するかが記されているものだ。だから、プログラムというのも、そういった手順を記述したものだと大勢が認識しているだろう。「コンピュータはプログラムどおりに動いている」と聞けば、所詮は機械なのだから、人間が命じたとおりのことを繰り返すだけの代物だ、と蔑んでいる。そもそも、そんな蔑むような物言いになるのは、相手を恐れているからであり、コンピュータが人間を支配するような未来になりはしないか、と心配している証拠でもある。



 プログラムというのは、あらかじめ予想される条件で場合分けをし、もしAならばBを実行し、AでないならCを実行する、というように道筋を定める。

これが無数に存在するため、上から下へ流れるように記述された一連の命令文であっても、どのような動作をするか、何が実行されるのかは、可能性が多数(ときには無限に)存在する。これがコンピュータの優れた点の1つである(最も優れているのは、滅多に間違えないことだが)。



 このようなプログラムの流れを、フローチャートと呼ばれる図で示すこともある。最近は、プログラム自体をフローチャートを描いて作成するシステムもある。菱形や矢印などで描かれる図だが、見たことがあるのでは?



 ミステリィで天才的な計画殺人の物語を書くと、読者から「たまたまこのような場面になったから成功したが、そんな偶然に頼るような計画を天才がするのか?」といった質問を受ける。



 探偵が謎の説明をするときには、流れるような一本道の計画として語られていても、計画された段階では、もしこれがなければ、もしこうなった場合には、というプログラムの分岐(これを「if文という」)が幾重にも練られて計画されているわけで、それこそ、天才的な完全犯罪ならば、それくらいのプログラミングが行われているはずだ。

実際には、それらの道筋の一部が実行される。天才ならば、当然微に入り細を穿って計画されていたでしょう、とお答えしている。





【すべてが想定内になる?】



 自分の将来に対する計画に、このような「もしこうなったら」という「if文」を加えて想定する人は、どれくらいいるだろうか? 皆さん、自分のことですから、それくらいは考えた方がよろしいのでは?



 たとえば、自然災害に対する備えなどは、もし最悪の事態になったら、と考えることからスタートする。そういう不吉なことは考えるだけで憂鬱になるものだが、いくら「絶対大丈夫」と願ったり信じたりしても、災いが防げるわけではない。危険の確率には、その人の願望は影響しない。しかし、危ないもの、危ないとき、危ない場所を避けることで、確率を下げることは簡単にできる。

さらに、万が一、その危険が現実のものとなった場合にどうするのか、と考えることで、実際に遭遇したときに焦ってパニックにならずに済むし、また、保険などのように、不運から抜け出すバックアップを用意しておくこともできる。



 ようは、まずは考えること。しかも、自分の都合の良いことを考えるのではなく、その逆で、自分に都合の悪い事態に対する方策を練っておくことが大事だ。



 起こりうる可能性をあらかじめ検討しておくことで、すべてが「想定内」になる。人間の想像力というのは、非常に優れていて、本気になって考えたら、ほぼ想定外のことを排除できるだろう。考えもしなかったことは起こらない。

それが起こるとしたら、考えなかったからにすぎない。



 未来は未知であるから、精確な予測が不可能な事象が多い。しかし、幅を持った予測は可能で、最高でこれくらい、最低でこの程度、という範囲を想定することができるだろう。台風の進路図と同じで、70%の確率でこの範囲、といったふうに。



 基本的に、最悪の事態を予測しておくこと、つまり、悲観的な将来を思い描くこと。さらに、最悪の場合でも、ここだけは免れるように、という部分を確保すること。

これは、工学の設計思想の一つ、「フェールセーフ」の考え方でもある。事故に遭って、自動車が大きなダメージを受けても、乗っている人間が死なないようなデザインをする。



 僕はよく、犬を乗せてドライブに出かける。クラシックカーに乗っているので、いつ故障するかわからない。だから、必ず犬のリードや糞の始末をする道具を持っていく。普段のドライブでは犬を車から降ろすことはない。実際に故障して立ち往生したことは一度もない。でも、必ず毎回持っていく。そういった心構えがあれば、おそらく、うっかり事故も幾分確率が下がるだろう。





【調子が良いのは今だけだ、と考える】



 なにか幸運が巡ってきたときに、これからも同じような事態が続く、と楽観する人が非常に多い。自分はラッキィな人間なのだ、と思い込むようだ。逆に、不幸な目に遭うと、これからもずっと悪いことしか起きない、と悲観する人もいる。どちらも、まったく根拠がない。そういう想像をすること自体が無意味だ。幸運も不運も、結果論でしかなく、未来の予測に影響する要因ではない。



 僕は30代後半に、小説家になった。たまたま出版してもらえることになって、多額の印税が振り込まれた。しかし、僕は生活を変えようとはまったく考えなかった。こんな幸運が続くはずがない。それまでの給料の10倍以上の印税をもらえるようになっても、どうせ一時的なことだろう、と考えていた。



 逆に、ちょっと儲けただけで、生活態度を変え、このさきはもっと大きな事業に発展していくと夢を見る人が多い。そういう話を何度か聞いたことがある。たいていは、その後、商売が立ち行かなくなって、借金をかかえる結果になる。



 つまり、一度の幸運で、将来に対する予測を変えることが間違っている。幸運が一度あっても、これから起こりうる確率に影響はない、と考えるのが順当だ。



 僕は、小説でデビューしたあとも、小説家という職業に対して懐疑的だったから、ずっと以前の勤務を続けていた。10年ほどそれが続いたが、結局、小説の仕事はどんどん増えていき、収入も増え続けた。もう一生働かなくても良い貯金ができたので、ようやく、仕事から身を引くことにし、勤めていた大学を辞めた。そして、同時に小説家としても引退することを決めた。



 一方で、大して当たらなかった処女作が、その後どんどん売れるようになり、20年近く経った頃に、TVの連続ドラマになり、アニメにもなった。最初よりも売れるようになったのだ。これなどは、「この程度なのか」という当初の観測が間違っていたことを示している。最初は駄目でも、時間が経ってから認められるものもある、ということだ。



 したがって、現在の状況から未来を予測することは、本当に難しい。ただ、希望的に予測しないこと。控えめな観測をしていれば、見誤っても、安全側。つまり、フェールセーフとなる。



 もちろん、人生には驚きも必要。すべてが想定内ではつまらない、とのご意見もあるだろう。しかし、できる限り広く深く想定しておいた上での驚きこそ、極上の楽しさでもある。しかも、悲観方向へ予測しているから、訪れる想定外は、嬉しいサプライズになる、という具合。このようなプログラミングをして、人生をエンジョイしましょう。







文:森博嗣