「もうこれ以上は無理です…」この一言を、親しい人にさえ伝えることができない。弱音をはくことが赦されない環境にいる人、弱音なんてはいちゃいけないと思っている人、弱音をはく気力すらなくなってしまった人…悩みを抱えながら今を懸命に生きる人たちに伝えたい。

「自分がどうやって弱っているのか。どんな苦しみを抱えているのか。人に話してみて、初めて分かることもあるんですよ」そう語るのは沼田和也氏。小さな教会の「街の牧師」の著書がいま注目を集めている。最新刊『弱音をはく練習~悩みをため込まない生き方のすすめ』から一部抜粋して送る。



牧師が見つめた性的な悩みの世界。公では語られない性的な場に「...の画像はこちら >>



■格好いい罪と格好わるい罪



 人間は性がすべてとは言えないにせよ、それは無視できないものである。

しかし公の場で性を語ることはとても難しいし、勇気も要る。教会で「わたしは罪を犯しました」とは言っても、「わたしはこっそり女性の着替えを覗きました」とは言わない。じっさいにそれをしてしまった人がいたとして、たぶん言えないだろう、教会でさえ。罪を犯すにも格好いい罪と格好わるい罪があるというわけだ。涙をさそう文学的な罪と、嫌悪をもよおす醜悪な罪が。



 ある「性的な」映画の字幕に、以下の聖書の言葉が出てきた。





 しかし、もしあなたがあなたの神、主の声に聞き従わず、私があなたに今日命じる戒めと掟のすべてを守り行わないならば、これらのすべての呪いがあなたに臨み、あなたに及ぶ。あなたは町にいても呪われ、野にいても呪われる。あなたの籠もこね鉢も呪われる。(申命記 28章15~17節)





 その映画とはムン・シング監督による『赤い原罪』。監督が牧師の資格も持っているという惹句に釣られ、どんな映画なのか、前情報もほとんど知らずに観た。結果的には、自分が最近ひそかに感じていたことをずばり言い当てられたような、強烈な印象が残った。

物語のあらすじを、簡単に追ってみる。



 白髪の女性が40年前を振り返る。韓国のどこかの漁師町だろう。米軍の基地も近くにあるらしい。当時まだ若かった彼女は、信仰的使命に献身するシスターとして町に赴任する。この町に来る道中のバスで、彼女はある男と出遭う。

その男は、彼女が着任する教会の教会員であった。男には中学生になる娘がいる。彼は足が不自由で働くことができないし、働く気力もない。そのため娘は学校に行かず、漁港で荷役などの重労働をしては父親に金を渡している。娘はてんかんと思われる痙攣発作が起こることを恥ずかしく思っており、発作のたび転職する。



 シスターはこの父娘を救おうとする。

彼女なりに医療や福祉につなげようとするのだ。ところが父も娘も教会からの支援を拒絶する。その際、父であるこの男がたびたび自己言及するのが、最初に引用した聖書の言葉なのである。彼は、自分が神から呪われた者であると感じている。貧困のなか米兵相手に売春していた彼の妻は、兵士と駆け落ちしてしまった。それ以来、男は性的に屈折したものを抱えている。
娘は献身的に父親を支えるのだが、シスターはある日、彼女が父親の性処理を手伝っているのを目撃する。一方で男は自己を呪いながら、シスターを性的な目で見るようになり、つきまとい始める。



 シスターは葛藤する。信仰において自らを聖域に置いたまま、父娘を「憐れんで」いることは、神の御旨にかなっているのだろうか? そこで彼女はある決断をするのだが、その決断がどんなものであったのかは、ぜひひとりでも多くの方に本作を観て確かめてもらいたいところである。





■安心できるのが性的な場だとしたら



 わたしのところに、ときおり男性が訪れる。年の頃は50代も後半であろうか。堅い仕事をしており、妻と息子がいる。彼には秘かな愉しみがある。それは、風俗店に行ってアブノーマルな(本人いわく「教会で話すには憚られる」)プレイをすることである。



 この男性は、ひきこもりの息子や病弱な妻を支えることに重圧を感じている。だから自分が壊れないよう、これといった症状が出ないうちに、自衛手段として精神科に通っている。経済的にも困窮している様子はない。自分が置かれた厳しい状況に対して、ひとりで抱え込まず、とても冷静に対処している。歓談する彼の落ち着いた態度を鑑みても、これ以上の支援は必要ないように見える。



 しかし、彼は言うのだ。どんな医療や支援も、女性と肌を重ねることの、あの安心と取り替えることはできないと。彼は社会でいうところの変態プレイをしている。わたしは彼の話を聞きながら思った──この人が聴いてもらいたいのは言葉なんかじゃない。きれいに整えられ、穏便に言い換えられた言葉ではなく、コンドームを裏返すように自分を裏返し、おのれの粘膜や内臓や脂肪のすべてをさらけ出して、それらを受けとめ触ってもらいたいのだ。「これがほんとうのおれ、おれのナカミなんだよっ」家族にさえ見せたことのない、どろどろと温く湿ったものを誰かに見せつけて叫びたいのだ。



 彼と接しながらぼんやり感じていたなにかを、『赤い原罪』を観て明確に摑むことができた。あの男が求めていたのはシスターのやさしい言葉ではなく、彼女の肌であった。聖職者たちのやさしい言葉は、もはや彼には届かない。彼は自らを神に呪われた者とみなしていたのだから。彼がほんのいっときであれ安心できるのは、自らの臓腑をそこに開き出すことのできる、性的な場だけであった。



 教会に来る男性が、映画の彼のような自己呪詛をしていたわけではない。米兵に妻を寝取られたわけでもない。けれども彼にもまた、性的な場でしか癒やすことのできない渇きがある。それは性に関わるがゆえに公的な場所で語ることができず、また、癒やすこともできない。だから彼は孤立する。そんな孤立へと突き放された彼が求めているものもまた、あれやこれやのやさしい言葉ではないし、傾聴ですらなかった。彼が渇望するものもあの男同様、肉のぶつかりあいなのであり、他人と共に自分が生きていることを確認できる匂い/臭いや温もりそのものなのである。







■傾聴はときに残酷な側面も



 女性たちからすれば、ずいぶん勝手なことを言っていると思われるかもしれない。だが、これは男性に限った問題ではない。男性とはまた異なるかたちで、わたしは女性の語り手たちにも出遭った。



 ある女性はホストに夢中になっていた。別の女性は何人もの男性と身体を重ねては「この男もだめか」と絶望に打ちひしがれていた。わたしは彼女たちもまた、言葉ではなく身体そのものを傾聴してもらいたかったのだと思っている。身体そのもの。自分がこの世に存在しているという事実そのものを、性を通して受け止めてもらいたい。やさしげな言葉だけでは一生満たすことのできないものを、彼女たちはおのが肉において渇き求めているのだ。



 このような現実を前にしたとき、シスターではないけれども、わたしは自分の限界を突きつけられる。傾聴はときに残酷な側面を持つ。わたしは相手の話を聴く。ひたすら聴く。しかし、わたしのことは話さない。相手は夢中で話すので、ときには自分のすべてをさらけ出そうとする。一方でわたしは自分を制御しており、話すことと、話さないこととを冷静に選択している。こうして、わたしと相手とのあいだに圧倒的な非対称が形成される。自身のことには一切言及しないわたしと、おのれの臓腑さえわたしに受け取ってもらいたい語り手と。





■いかなる福祉も教会も提供できないものがある



 本書にも書いたが、閉鎖病棟に入院したことのあるわたしは、今でも月に一度、カウンセリングを受けている。ところで、カウンセラーはただわたしの話を聴くだけでなく、意見を返してくれるのであるが、その聴くと返すとのタイミングが絶妙に心地よい。そして、その人は女性であり、その声もまた爽やかで清々しい。毎回話を聴いてもらううちに、わたしは彼女に対して、性的な欲望を覚えるようになった。



 あるとき、意を決したわたしはそれを彼女に話した。カウンセラーによれば、それは転移の一つであるとのことだった。「よく正直にお話しくださいましたね」と、彼女は静かに微笑む。ああこの距離感だな。わたしは了解したのであった。わたしは彼女にあらゆるプライベートなことを話すがゆえに、彼女を恋愛対象とみなし始める。しかし彼女はあくまで職務としてわたしと向きあっているのだ。それゆえ、わたしは彼女がどこに住み、どんな生活をしているのか、その一切を知ることはない。彼女が着ている、彼女自身を包み隠す白衣や、彼女とわたしとのあいだに横たわる大きな灰色の机は、乗り越えることが決して許されない、わたしと彼女との距離を象徴する道具なのである。



 福祉においても、困窮する人と支援する人とのあいだには、同じような欲望や悲哀が起こりえるかもしれない。現場では、たとえばソーシャルワーカーが彼ら彼女らの話にじっくり耳を傾け、誠実に対応策を模索する。最近では一方通行の支援を与えるのではなく、当事者と一緒に考え、最善の策を見つけだそうとする支援者も増えつつある。そういう場所で十分な支援を受けているはずの人が、教会に「つらい」と話しに来るのはなぜなのか。



 その理由を、彼ら彼女らははっきりとは言わない。そもそも理由を自覚しているかどうかも分からない。また、全員が同じ理由だとも思わない。ただ、そのなかのかなりの人たちは、支援者に誠実さややさしさを感じれば感じるほど、絶望してしまうから教会に来るのではないか。支援者が自分へと向けるやさしさや魅力は仕事のそれなのであって、プライベートで親密な関係に至ることは決してない。彼ら彼女らはこの事実に絶望しているのではないか。さらに残酷なことには、その絶望をなんとか埋めようとして教会に来てくれても、わたしもまた、そのような親密さを満たすことは決してできないのである。



 人を癒やし支えるのは人である。助けあうのも人どうしである。だが、公の場でこのように語られるとき、性的なものは語られない。



 だが人間は性的な存在でもある。性器で交合するセックスだけを言っているのではない。手をつないだり肌をくっつけたりすることは、傷つけられれば命取りになるような部分を、お互いが曝しあうことだ。そのような関係を結ぶには不安や焦燥もつきまとう。



 しかし、いかなる福祉も、そして教会さえも、提供することのできないものがそこにある。牧師であるわたしがこのようなことを語ってよいものか、葛藤もある。だが、この性的なものをしっかり認めたうえでないと、けっきょくはわたしの語る福音も、うわっつらをなぞるだけになるだろう。それは孤立する人には決して届かない以上、もはや福音ではない。



(『弱音をはく練習~悩みをため込まない生き方のすすめ』から一部抜粋)





文:沼田和也