「食堂生まれ、外食育ち」の編集者・新保信長さんが、外食にまつわるアレコレを綴っていく好評の連載エッセイ。ただし、いわゆるグルメエッセイとは違って「味には基本的に言及しない」というのがミソ。

外食ならではの出来事や人間模様について、実家の食堂の思い出も含めて語られるささやかなドラマの数々。いつかあの時の〝外食〟の時空間へ、あなたをタイムスリップさせるかも。それでは【9品目】「日本一大きいビアガーデン」をどうぞ!





【9品目】日本一大きいビアガーデン

 



 今シーズンの我らが阪神タイガースは、開幕9連敗という最悪のスタートを切った。10試合目でようやく勝って、そこからまた引き分けを挟んで6連敗。17試合を終わって1勝15敗1分、勝率0割6分7厘という未曽有の大記録を樹立した。ファンとしては当然ストレスの溜まる日々であったが、あそこまでいくと逆にちょっと面白くなってきたりもする。

何でも一番になるというのは立派なことだ。球史に残る記録をリアルタイムで目撃したと思えば、むしろ喜んでもいいぐらい。何ならロッテの18連敗も抜いちゃえ、という邪な気持ちがちらっとよぎったのも事実である。



 とはいえ、負けるより勝ったほうがいいことは言うまでもない。徐々に戦う形が整ってきた我らが阪神タイガースは、パ・リーグとの交流戦で6つの勝ち越し。最大16あった借金を6まで減らし、最下位からも脱出した。

こうなると、久しぶりに甲子園球場に行きたくなってくる。【4品目】にも書いたとおり、毎年2回ぐらいは夫婦で現地観戦していたが、ここ2年は新型コロナのおかげで行けなかった。そもそも無観客開催だった時期もある。神宮や東京ドームなら行けなくもなかったが、気分的にイマイチ行く気がしなかった。



 ただ野球を見るだけなら、テレビやネット配信のほうがリプレイやスローもあるし、選手の表情やベンチリポートなど細かい情報を得られる。それでも球場に行く理由は何かといえば、第一に現場の雰囲気を味わうため。

そして、それに優るとも劣らず重要なのが、スタンドで飲むビールである。コロナ禍で酒類販売自粛の状況では(少なくとも私にとっては)わざわざ球場まで足を運ぶ意味がない。それぐらい球場で飲むビールは格別なのだ。それもドーム球場ではダメ。やはり、遮るもののない空の下で飲みたい。



 その点、甲子園は最高だ。

通路からスタンドに出たときの開放感。周りに高い建物がないので空が広い。甲子園名物の浜風に吹かれながら、少しずつ暮れていく空と対照的に明るさを増していく照明灯の下で飲むビールの味は何物にも代えがたい。つまみは、これまた甲子園名物のジャンボ焼鳥。甘辛いタレで味付けられたやわらかい鶏肉はビールとの相性バツグンだ。それと豚串、イカ下足串の3本が我々夫婦の定番晩酌セット。
売店では、焼きたてを大きな紙コップに入れて渡してくれる。



 まさに“日本一大きいビアガーデン”。生ビールのタンクを背負ったおねえさんが、わざわざ席まで売りに来てくれるのもうれしい。しかも、グラウンドでは我らが阪神タイガースの選手たちによる勇壮なアトラクションが展開されているのだから、こんな楽しい場所はほかにない。そのうえ、面白い試合で勝ってくれれば言うことなしだ。 



 ただし、このビアガーデンには難点もある。

基本的に座席間隔が狭いので、真ん中のほうの席だとトイレに行くのが一苦労。通路までの間の席の人に立ってもらわないといけなくて気を遣う。トイレにたどり着いたら着いたで結構並んでいることも多い。調子に乗って何杯もビールを飲んで何度もトイレに行くのはなるべく避けたい。 



 もうひとつの問題は、試合に熱中するあまり、ビールや食べ物をこぼしてしまう危険があるということ。我らが阪神タイガースの選手が逆転タイムリーヒットを放った瞬間に、思わずバンザイして持ってたビールをぶちまけた――なんてのは、よくある(?)話。ビールならまだいいが、私の場合、もっと悲惨な事案を発生させたことがある。



 あれは2003年7月18日。この年、我らが阪神タイガースは、18年ぶりの優勝に向けて快進撃を続けていた。開幕戦こそ敗れたものの、その後は驚異的なペースで勝ち進み、すでに7月9日にマジック49が点灯していた。オールスター戦明けの初戦となったこの日の試合前の時点で57勝22敗1分(M46)。今年とはえらい違いである。



 たまたま取材で関西に来ていただけで、もともと観戦予定があったわけではない。午後4時頃に取材が終わり、そのまま帰ろうかと思ったが、ふと「今日、甲子園で試合あるじゃん!」と気がついたのだ。チケットがあるかどうかわからなかったが、とりあえず行ってみたら、アルプススタンドの上のほうの席が取れた。優勝が近づいてくると、連日ほぼ満員札止めだった記憶があるが、このときはまだ当日券があったのだ。



 席に着いたら、まずビール。うー、五臓六腑に染み渡るとは、このことだ。阪神の先発は藪恵壹。対する広島は長谷川昌幸の先発で試合が始まった。初回、広島の四番・シーツのタイムリーでいきなり失点。が、その裏、今岡誠(現・真訪)の先頭打者ホームランですぐさま同点に追いつく。さらに2回裏には矢野輝弘(現・燿大)のツーランで2点勝ち越し。今年(2003年)の阪神は本当に強い。と思いきや、直後の3回表にシーツにソロホームランを打たれて1点差に迫られる。そして事件は5回表に起こった。 



 二死無走者から、なんとまたしてもシーツにホームランを打たれたのだ。打球の行方を追った私は思わず腰を浮かす。その瞬間、太ももに何やら熱いものを感じた。「熱っ!」と下を向いた私の目に映ったのは、ズボンの上に滴り落ちた茶色い液体……。そう、中腰になった際に、手に持っていた甲子園名物のカレーの器を傾けてしまい、ルーを自分の太ももにぶちまけてしまったのだった。



 前の席の人にぶっかけなかっただけまだマシだが、何しろカレーである。あわててトイレに駆け込んで濡らしたハンカチで拭き取ったものの、ズボンに茶色い染みは残っている。その状態でトイレから出てきた私は、完全に“ウンコ漏らした人”にしか見えなかっただろう。味方のホームランならまだしも相手のホームランでこんなことになってしまうとは、情けなさ倍増。真夏のことゆえわりとすぐに乾いたが、終電の時間もあったので、試合終了を待たずに球場を出た。染みの付いたズボンで新幹線に乗って東京に帰る道のりの長かったことといったらない。 



 試合は結局、8回裏の桧山進次郎のホームランで4対3の勝利、マジックを45とした。その後、8月に少々足踏みしたものの、9月15日の甲子園のデーゲームで劇的なサヨナラ勝ちを収め、マジック1とする。それから約2時間後、マジック対象のヤクルトが負けて、我らが阪神タイガースの優勝が決定した。甲子園に居残った大勢のタイガースファンの歓喜の渦の中に私もいた。あの日、“セ界一”のビアガーデンで飲んだビールほどうまいビールは、後にも先にもない。



 



 文:新保信長