新型コロナのパンデミック、グローバリズムの弊害、ロシアのウクライナ侵攻、安倍元総理の暗殺・・・何が起きても不思議ではないと思える時代。だからこそ自分の足元を見つめ、よく観察し、静かに考えること。
第8回 インプット過多の社会
【漫画だって読みますよ】
連載の第5回で、読者サービスで最近読んだ漫画のタイトルを書いたところ、予想どおり反響があった。みんな、このような具体的なことを知りたいのだな、と確認。森博嗣は漫画なんか読まない、と思っていた人も多かったようだ。僕は若い頃に漫画を描いていた。テキストではなくビジュアル志向で生きてきた。ただ、最近はそれほど漫画を読んでいなかった。
どうして読むことになったのかというと、10年ほど使っているKindleの反応が遅いと感じるようになったので、カラーモニタの新機種に買い替えた。モニタも大きいものにした。それで、漫画を読む気になった、という流れである。小さなスマホで漫画を読んでいる人たちは、きっと目が良いのだな、と感心する(僕は視力2.0だが近いものは苦手な遠視)。
書斎のデスクには24インチモニタが2つ並んでいて、映画はこれで見る。すべて日本以外の作品。吹替えのものは苦手で、字幕で見る。ただ、文字を読むのも不得意なので、半分は英語で頭に入る。
読書量も最近は多い。同時に数冊を読む。ただ、小説は一切読まない。読書には古いKindleをまだ使っている。ページを捲るだけだから、少々反応が遅くても我慢。
このようにインプットの時間が増えているのは、歳のせいだと思う。いろいろ億劫になったし、体調を考え、無理をしない。さらに、文章を書く仕事を順調に削減できたことも大きい。
小説を書こうと思ったら、このようなインプットは障害となる。何故かというと、面白い作品に出会うたびに、「こういうものは書けないな」と感じるから。世の中にもう存在しているものは、忌諱の対象となる。創作とは、まだ存在しないものを生み出す行為なので、もしなにも知らなければ、無限の可能性がある。インプットして既存のものを蓄積するほど、創作の自由度が縮小する。
【アウトプットをさせない現代】
僕は研究者として二十数年間勤務し、論文を沢山書いた。作家になってから書いた作品の倍以上の数にもなる。「小説家になるなら小説を沢山読むべきだ」とおっしゃる方がいるけれど、僕は子供の頃から研究論文を愛読していたわけではない。あるとき突然研究者になり、研究をして論文を書いた。小説もこれと同じで、自分が書く作品について研究(思考)さえすれば、いきなり書けるはず。他者の作品を参考にする必要はない。
ただ、どんな傾向のものがこの世に出回っているのかを知っていた方が良いので、そういった「既往文献の調査」は必要かもしれない、同じものをうっかり書かないために(論文では絶対に書いてはいけないが、小説はそうでもないらしい。
最近、体力が衰えたことと、仕事をほとんどしなくなったことで、僕の生活に占めるインプットの時間が増えた。漫画もそうだし、映画も毎日2本くらい見る。僕は、一度見たものを二度と見ないので、つまり自分にとっての新作ばかりなのだが、世の中には、膨大な数の作品が存在する。全然追いつかない(追いつこうと思っているわけではないが)。
僕は若い頃から沢山の漫画や映画を見てきた。このため、漫画や映画で仕事をするチャンスがなくなった、と感じている。良い作品に出会うほど、自分が進出する隙がない、と感じるからだ。幸い、小説はそこまで読んでいなかったし、研究者になってからは、ほとんどこの種のインプットがなくなった。作家になれたのは、この絶食期間が幸いしたのだろう。
ところで、世間を見回してみると、現代は容易にインプットができる環境が整っている。出かけていって探す必要もない。
【なにもかもがキットやパックになった】
僕は工作が大好きで、いつもなにかを作っている。常に新しいプロジェクトを計画し、そのための材料や情報を探している。完成するよりも、製作途中の方が面白いし、それ以前の構想も楽しい。考えを巡らすことも、手を使ってものを作る作業も、自分の躰を使ったアウトプットだ。疲労は伴うものの、スポーツなどと同様の爽やかさがある。
このような楽しさは、他者には普通では伝わらない。完成したものを人に見せる機会がたまにあるけれど、伝わるのはほんの一部だ。
けれど、どうすればそれができるのかわからない。プロセスは公開されないのが普通だった。このため、さまざまなハウツー本が出版され、その種の動画やブログが注目を集めるようになった。これらに触れた人たちは、こんなハウツー本を書いてみたい、こんな動画やブログを自分もやってみたい、と感じるらしい。実際に、どんどんアウトプット側へ回る人が増える。今の時代、一部にはその傾向が見られる。ただ、そのアウトプットはしだいに短くなり、どんどん下火になる。
ハウツーを人に伝えることが「楽しさ」の本質だと勘違いしたことが原因である。ハウツーを語る行為は、あくまでも自己満足のほんの一部が溢れ出た結果にすぎない。
そして、もっと大勢の人たちは、仕事、家庭環境、あるいは経済的理由などから、アウトプットできないでいる。そんな人たちの前に差し出されるのが、アウトプットのキット、あるいはパック(セット)である。
誰でも簡単に、しかも失敗なく完成させられるように、すべてが取り揃えられ、難しい部分は完成済みだ。なにも悩む必要がない。短時間で完成できて、アウトプットをしたつもりになれる。満足感もそこそこ得られるだろう。
その経験をきっかけに、本格的なアウトプットへシフトする人も、少数ながらいるので、入門としての価値がないわけでもない。現に、そう謳われている。
問題は、このようなキットやパックが、フルセットのアウトプットといえるのか、という点である。本来のアウトプットとの差が著しい。はっきりいえば、冒険とパック旅行くらい差がある。雲泥の差だ。しかも、楽しさや満足度では、さらに格差が生じる。本人は気づきにくいのだけれど、組立て説明書のとおりにものを作る行為は、むしろインプットに近いものだからである。
文:森博嗣