新型コロナのパンデミック、グローバリズムの弊害、ロシアのウクライナ侵攻、安倍元総理の暗殺・・・何が起きても不思議ではないと思える時代。だからこそ自分の足元を見つめ、よく観察し、静かに考えること。

森先生の日常は、私たちをはっとさせる思考の世界へと導いてくれる。連載第9回。





第9回 こんなふうに生きようと考えたことはない



【影響を受けたものを語りたがる人たち】



 SNSで散見されるのは、「私を作ったもの」「感動したもの」を過去に遡って語る人たちである。たとえば、読書家ならば、読んで面白かった本のタイトルを羅列している。まるで、自分が好きな食べ物を家の前に並べて展示しているような光景を連想させる。軒先を通りかかった人は、ちらりと見ていくだろう。そして、「何しているの、この家は」と訝しむのである。



 もちろん、「私はこれが好きなんです」と表示しておけば、わざわざ展示していることの意味は少し理解してもらえるかもしれない。しかし、通りすがりの人の感想は、「へえ……」に変わるだけで、なおも5cmくらい引いてしまうはずだ。



 意味は通じても、気持ちは通じない。「あなたが好きなものを見せてもらっても、それが私にどう関係するの?」と思う程度だ。実際に言葉の反応として出ないだろう。

逆に、過剰に反応されて「何なの? これをプレゼントしてくれってこと?」と問い詰められると厄介だ。



 自分はこういう人間です、という主張は比較的、そして技術的に難しい。どうしてかというと、それを一番よく知っている人(つまり本人)にとってさえ、まとめきれない複雑さと、そのときどきで大きく揺らぐ指向しか感じ取れないのが普通だからだ。ようするに、自分で自分がわからない。かえって、他者の方が、「ああ、あの人はね、こんな感じ」と簡単に言葉にしてくれるはず。



 抽象的に本質を捉えるには、プロ的な技術が必要である。それはたとえば、精神分析や占星術に技術援助を頼まなければならないかもしれない(一部の自己紹介に星座を取り上げる理由はこれだ)。



 一方、社会で多く観察されるのは、自分の成功例を列挙する人たちである。仕事でこのような業績を挙げた、といったいわゆる「履歴」である。おそらく、自身の能力をアピールするのが目的であり、たとえば就職の面接などには有効だろう。だが、人間の価値とは、少なからずずれている。友達を募集するときに、履歴書で審査するようなものだからだ。



 僕がここで書きたいのは、主張ではない。観察される傾向であって、なにかに反対したり、賛同を求めているのでもない。こんな人が多いですよね、というだけだ。





【現在抱えている問題を語る人は少ない】



 自分が影響を受けたものや、自分が成し遂げた仕事などは、いずれも過去の事柄である。つまり「今」の状況ではない、という点に僕は違和感を抱く。だから、過去を語る人たちには、「で、今は何をしているの?」と尋ねたくなってしまう。



 かつて研究者という仕事に就いていた。研究者というのは、なにがしかの問題を抱えている。課題で頭を悩ませている。そして、大きな問題、あるいは多数の問題を抱えている人ほど、研究者として優れているのだ。だから、人と話をするのは、いつも、「今考えていること」になる。過去の成功例を語る人などいないし、また、自分が影響を受けた研究者の話なんか聞いたこともない。

「ここが変だ」「どうしてわからないのだろう?」「解決がおぼつかない」と嬉しそうに話す。子供が、「ねえ、どうして?」「それは何?」と大人に向けて目を輝かせるのと似ている。



 どれくらい自分が困っているかが、その人の能力なのである。誰にも理由はわからない。今のところ解決策がない。そういう状況こそが、人間が能力を投じる対象であって、それこそが、毎日の楽しみでもある。頭を抱え、不機嫌そうに顔を顰めていても、楽しくてしかたがない。普通の人にはわからないだろうか? 「君の悩みは深そうだ。良いね。まったく羨ましいよ」といった感覚になる。



 問題を目前にして思考に没頭したため、二日ほど食事を忘れていたことがある。作ってもらった弁当をそのまま持って帰ったことが何度かある。

ようするに、生きることなど二の次になる。当時の僕はとても貧乏だったから、弁当を作ってくれた奥様には大きな借りを作った。でも、我を忘れるというのは、生活を忘れることなのである。



 おそらく、こんな話をすると不謹慎だといわれるだろうけれど、生活に悩んでいる人は、その悩みについて考えることができる。その問題を持っていないよりも、むしろ良い状態だし、人間の能力を発揮するチャンスだとも思えてしまう。





【この人の生き方に感銘を受けた、という経験はない】



 あまり過去を振り返らない人間なので、何が自分に影響を与えたのか、と考えることがない。考えてもしかたがない。たとえば、子供の頃に教えてもらった学校の先生で、名前を覚えている人は一人もいない(そもそも、人の名前を覚えられないからだが)。友達の名前もすぐに忘れてしまうので、5年も会わないと、顔は覚えていても、名前は確実に忘れている。



 師と仰ぐような、いわゆる親炙した人物は僕にはいないし、もちろん勝手に私淑した人物もいない。その人の業績に触れることで、影響を受けることは当然あるけれど、主として考え方であったり、発想である。そして、それと同じようにしよう、とは全然思わない。

むしろ、それはやめておこう、と思うだろう。ここが少し変わっている部分かもしれない。



 人の生き方に感化された、といった体験はない。立派だなとか、この人には敵わない、と感じることは多々あるし、その場合は尊敬に値する人物と位置づける。でも、だからといって、その人のライフスタイルは、まったく別の問題であって、僕には関係がない。



 人の生き方に影響を受けたことは、考えても思い浮かばない。そもそも、こんな生き方をしようなんて考えたことがないし、ただただ成り行きで生きてきたら、たまたま今のスタイルになったというだけの話である。今後もどうなるかわからない。



 作家になって、文章を書くようになった。ほかに書くことがあまりないので、つい、生きるとか死ぬという話をしてしまい、その結果、こんなふうに生きたい、といった文字が自然に現れることはままある。控えめにいっても、驚くべきことだと思う。普段は考えもしないことが、続々と言葉になるのだから。



 ただ、思ってもみなかったことではないはず。たぶん、頭のどこかで、あるいは過去のいつか、それらしいことを発想したのだろう。まあ、嘘を書いているわけではないし、他者に押しつける気もないから、責任は感じないが、あっさり評価するなら、気まぐれな、上の空の、いい加減な、何を考えているのかわかりにくい、そんな気持ちではある。



 本当にどうでも良いことだが、「どうでも良い」は、「こうであるべき」よりは幾分好ましいように感じている。







文:森博嗣

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