■新たな難題が突き付けられた
トランプ大統領が仕掛けた日米関税交渉は、3カ月間にわたる閣僚級協議を6回も重ね、2回の首脳会談を経ても、なお決着していない。
そうした中、米国は新たな難題を突き付けてきた。
日本企業による医薬品や半導体分野での米国内工場建設を求めているのだ。
それだけではない。
米国側が関税に絡める日本の防衛費をめぐり、ゴールポストを途中で動かす形で要求を変えてきた。当初要請していた対国内総生産(GDP)比3%をはるかに上回る5%の引き上げを求めてきたのだ。
こうした中、特に日本にとって死活問題である25%の自動車関税については妥協点が見いだせておらず、予断を許さない。
加えてトランプ大統領は、6月22日のイラン攻撃に次いで、6月25日にはオランダで北大西洋条約機構(NATO)の首脳会議に出席、さらに米独立記念日(7月4日)までの「大きく美しい」税制・歳出法案成立など最優先課題の消化で手いっぱいであり、関税交渉は「五里霧中の状況」(交渉を担当する赤澤亮正経済再生担当相)だ。
■「交渉団はうまくやっている」のか
だが同時に、落としどころが見え始めている兆候もある。
関税交渉とも密接に関連する日本製鉄による米鉄鋼大手USスチール買収成立や、ロボットと人工知能(AI)の製造拠点となる米国内の複合施設建設へのソフトバンクグループによる巨額投資計画など、米国「も」得をするメガディールがすでに始動しているからだ。
今回の関税交渉で、長年の国際貿易ルールをいきなり「ちゃぶ台返し」でひっくり返してきたトランプ大統領。中国やカナダ、メキシコ、さらに欧州連合(EU)に対する理不尽さと強硬さの度合いと比較すれば、現時点で石破政権や大手日本企業は「猛獣」相手にうまくやっている、という見方もできよう。
その中で、日本製鉄やトヨタ自動車、任天堂やコマツ、ソフトバンクグループなどがトランプ関税下の日本企業の「勝ち組」になりそうだ。その理由を解説する。
■日本製鉄が支払う3.6兆円の本当の価値
輸出型日本企業の不利益となるはずの関税で、逆にもうけを出そうという逆転の発想を示した経営者がいる。
USスチールを買収して完全子会社化した日本製鉄の橋本英二会長だ。
トランプ大統領の懐深くに飛び込み、関税の壁の内側で保護を受けて利益を増大させる考えは、2017~2021年の第1次トランプ政権時に政府間交渉で安倍晋三元首相が用いて成功させた考えの応用でもある。
具体的には、時代遅れで老朽化の激しいUSスチールの製造施設に、日本製鉄が多額の投資を行って近代化と効率化を約束する。
その代わりに、トランプ政権が導入した50%の鉄鋼・アルミ関税により、日本製鉄の最先端技術移転でUSスチールが生産する高級鋼製品が、米市場において中国などからの輸入品との競争から守られるというディールである。
橋本氏は6月19日に、今回の取引が「良い(関税)交渉の後押しになると思うし、後押しをしなければいけないと思っている」と語り、トランプ大統領を満足させた今回の買収が、日米関税交渉のプロセスに一種のひな型を提供できると示唆した。
■保護主義化は「一時的な乱れ」ではない
橋本会長は、多国間主義や自由貿易で維持される国際経済秩序は終わったと割り切っているフシがある。
これは、「トランプ政権の一連の対応は個別特殊なものではなく、世界共通の新たな流れを背景にしたものではないか」(19日会見)という発言からも、うかがえる。
日米経済協議会会長の澤田純氏(NTT会長)も、「米国に合わせて欧州連合(EU)や中国の貿易政策の方向性も変化するため、世界経済秩序は自由貿易もあり、関税もありという形に変わる」との見通しを示している。
つまり、一部の日本の財界人は一連の出来事を「歴史の一時的な乱れ」ではなく、トランプ政権が終わっても、保護主義が必然的に世界各国で残ると考えている。
そのため日本製鉄は、「自国の得意とする生産に特化し、それ以外は貿易によって賄う」という比較優位の原則に基づく生産体制を見直し、思い切った転換を図ったのだ。
こうして1年半にわたった難交渉を経て日鉄傘下となったUSスチールは米政府に対し、経営上の重要事項について通常より強い拒否権を持つ「黄金株」を1株発行した。同時に、日本製鉄は完全子会社としてのUSスチールに対し、十分な経営の自由度を確保したと考えている。
この取引は合理的だ。なぜなら、既存の生産施設を持つUSスチールの生産能力に対し買収額は1トン当たり約9万円であるのに対し、大型製鉄所を米国に新設する場合1トンあたり約40万円のコストがかかり、商業運転の開始に10年近くを要するからだ。また、製鉄所の新設に1トン当たり20万円以上かかるインドでの投資と比べても安価である。
日本製鉄は141億ドル(約2兆円)での買収に加え、2028年末までに約110億ドル(約1兆6000億円)を追加投資する計画だ。
米格付け企業のムーディーズは6月19日、「日本製鉄の買収資金の借り入れは信用力に明確にネガティブだが、米市場での事業拡大の戦略的恩恵により相殺される」との見方を示した。
巨額化した買収費用や日本よりも高い人件費の問題を、50%のトランプ関税の保護による売り上げ増でカバーできれば、投資回収は意外に速く進む可能性がある。
■追加関税25%が「自動車産業」にもたらすもの
トランプ関税は、鉄鋼分野においては日本の利益になる可能性がある。
だが、最も気になるのが、日本の死活問題である25%の自動車への追加関税だ。米国は日本の自動車産業における最大の貿易相手国だ。対米輸出額全体に占める自動車のシェアは3割、その額は国内総生産の2.9%にのぼる。
一方、自動車産業は、国内の全就業人口の約1割にあたる558万人を雇用し、国内総生産の10%を叩き出す裾野が広い産業だ。たとえ関税をかけられても、安易に米国への生産移転はできないのだ。
逆風の中、トランプ大統領は、自動車関税を引き下げるどころか、「上げれば上げるほど(自動車メーカーは)ここ(米国)に工場を建てる可能性が高くなる」と述べている。6月17日の日米首脳会談でトランプ氏は、「交渉妥結の可能性はある」と含みを残しながらも、引き下げないとの立場を崩さなかった。
■1時間に約1億4500万円の損が発生している
日本メーカーは米国で自動車関税分を値上げしないのだろうか。
米コンサルティング大手のアリックスパートナーズは、自動車メーカーが関税コストの80%を消費者に価格転嫁すると予想。その結果、新車価格が1台当たり平均1760ドル(約25万6500円)上昇すると試算している。
ところが、日本製自動車については、少なくとも現時点では関税コストのほぼすべてを日本側が吸収している。5月の日本の対米自動車輸出の数量はほとんど減っていないにもかかわらず、額が3634億円と前年同月比で24.7%も減少していることからも見てとれる。
赤澤経済再生担当相は、「自動車メーカーのトップに聞くと、1時間に100万ドル(約1億4500万円)ずつ損をしている状況だ」と危機感を隠さない。事実、トヨタ自動車は、追加関税の影響について、4~5月の2カ月間のみで営業利益の1800億円マイナスを見込んでいる。
その一方、同社の佐藤恒治社長は、「足元の収益・事業構造上、ジタバタしなくてはならない状態にはない」として、「場当たり的な価格転嫁は行わない」という方針を明らかにしている。
事実、ハイブリッド車など「消費者の欲しがるいいクルマ」を作っている同社の5月の米市場における売り上げは、前年同月比で11%増と好調だった。好調な業績や円安による恩恵で15兆円の内部留保を持つトヨタは、関税交渉が進行する現時点では赤字を受け入れ、販売台数を確保する戦術だ。
■米新車市場で「日本車が勝つ」と言えるワケ
トヨタは7月から、米国で販売する「トヨタ」ブランド車の価格を平均270ドル(約3万9000円)引き上げる。消費者の景況感がトランプ関税により悪化しているこの時期の値上げは、クルマの売り上げに響きかねないとの専門家の見解もある。
一方で、ディーラーにおける客足と収益など実績が引き続き伸び、堅調な米自動車市場の状況(米自動車調査企業コックス・オートモーティブ)からして、トヨタの売り上げは落ちないだろう。
それどころか、最終的に関税分を価格に転嫁してもトヨタの米国事業はなお伸びると思われる。
理由は、日本車の信頼性と経済性である。
まず、自動車保険料は全米平均で2023年に前年比15%上昇した後、2024年にも10%上がっている。故障の修理代も、米労働統計局のデータによれば2021年から28%も上昇している。
米労働統計局によれば、米消費者の自動車年間保有コストは近年のインフレを受けて高騰しており、2024年には年間走行距離1万5000マイル(約2万4140キロメートル)で平均1万2296ドル(約179万円)にも上る。これは10年前より30%も高い。
さて、「新車価格上昇」に加え、「保険料上昇」「修理代上昇」などによる「保有コスト上昇」を受けて、米消費者の新車選びはどう変化するだろうか。
米電気自動車(EV)のテスラのようなキラキラさや、ゼネラルモーターズ(GM)・フォードなどアメ車メーカーの得意分野である大型SUV・ピックアップトラックのようなデカさでもなく、日本車の燃費や信頼性、そして実用性を重視する人が増えると、筆者は予想している。
たとえ一時的に自動車関税分で数千ドルの負担が増えても、長期的に見ればアメ車や欧州車、韓国車よりも、経済的で故障も少ない日本車がペイするからだ。また、米国や欧州・韓国のメーカーも製造や部品の多くを海外に依存しており、日本メーカーのみが不利ではないことも、日本車に有利に働く。
■売れるのは、やはりトヨタ車
ブルームバーグ・インテリジェンス(BI)の自動車担当シニアアナリストである吉田達生氏は、10%の関税率で年間2~3%程度の段階的な価格引き上げとモデルチェンジによる購買意欲の維持により、日本メーカーは時間をかけて対応可能だとする。
この試算は、「部品メーカー、自動車メーカー、消費者それぞれが関税コストの約3分の1ずつを負担」という分散シナリオに基づいたもので、前述したアリックスパートナーズの「関税コストの80%を消費者に価格転嫁する」とする試算よりも現実的だ。
また、トヨタやホンダ、日産がすでに米国内で現地生産を行っている分については、トランプ自動車関税の壁の内側で保護を受けていく分の米工場増強を行い、利益を増大させることは可能だろう。
その中で、最も魅力的な製品を揃え、人気なのがトヨタであることは言うまでもない。自動車メーカー各社が関税分を米国で値上げしても、賢い消費者は価値のあるクルマを見抜く。中東情勢が悪化し、関税も上がるほど、燃費が良く故障の少ないトヨタ車は売れる。
■「勝ち組」はトヨタ・日鉄だけではない
1.米ゲーマーから大きな支持を得る「任天堂」
トランプ関税の悪影響をはね返せる可能性が強い日本企業は、日本製鉄やトヨタだけではない。
任天堂は売り上げの37%近くを叩き出す最重要市場である米国において、ゲーム機の新製品「Switch 2」が売り切れ続出の絶好調だ。
トランプ関税への対応で周辺機器の価格を値上げしつつも、本体価格を449.99ドル(約6万4000円)に据え置いたことで、米ゲーマーから大きな支持を得ている。
現在、任天堂はスイッチの約66%を中国で、ほぼ30%をベトナムで生産しているとされるが、米国とベトナムの関税交渉の行方をにらみながら柔軟に対応し、米関税への耐性を強化するだろう。少なくとも市場はそう読んでおり、任天堂株は買われている。
2.145兆円プロジェクトを計画中の「ソフトバンクグループ(SBG)」
一方、孫正義社長率いるソフトバンクグループ(SBG)は、西部アリゾナ州に1兆ドル(約145兆円)を投じて、ロボットと人工知能(AI)の一大製造拠点となる複合施設の建設を目指す。それはトランプ関税と表裏一体の「製造業の米国回帰」「中国とのデカップリング」という大目標にも合致し得るものだ。
需要の高まりが予想されるAIロボットを、コスト面や品質面で製造に最も適した台湾や日本ではなくあえて米国で製造し、世界各国に輸出できれば、SBGはトランプ関税の保護でもうけを出す日本企業の成功例に数えられるようになろう。
■コマツは純利益3割減だが…
3.連結純利益3割ダウンの見通しも、需要が堅調な「コマツ」
また、建機大手のコマツでは、2026年3月期の関税によるコスト増が785億円、需要減少に伴う販売量減少が158億円の合計943億円としており、連結純利益は前期比で約30%減少する見通しだ。
だが、トランプ関税で辛酸を舐めるのは同社だけではない。
競合の米キャタピラーは4~6月の四半期だけで、関税コストが約370億~510億円に達すると見込まれる。
こうした中、トランプ関税がコマツの業績に与える影響について、当初の見込みより約2割小さくなるとの見方を、今吉琢也社長が示した。需要が堅調であるからだ。相対的に見れば、コマツはうまくやっていると言えるだろう。
予測不能のトランプ関税のため、日本企業が米国ビジネスに積極的に乗り出すことは難しい状況が続くとの見方も強い中、日本製鉄やトヨタ、任天堂、コマツ、SBGなどは、うまく虎穴に入って虎子を得るのではないだろうか。
■トランプ大統領は実を得ながら折れる
日米間の関税交渉に話を戻そう。
トランプ大統領の交渉術の極意は、最初に相手に対して吹っ掛けられるだけ吹っ掛けることだ。また、妥結しそうになったタイミングで新たな難題を突き付け、プロレスの悪役(ヒール)を演じることである。
現在日本側が懸念しているのは、米国による上乗せ関税の猶予措置が7月9日に期限を迎えることだ。これを過ぎると厳しい関税措置が発動される恐れがある。(ホワイトハウスのレビット報道官は6月26日の記者会見で、この期限について「重要でない。延長の可能性はあるかもしれないが、それは大統領が判断することだ」と語った。)
日本側が最重視する自動車関税減免への合意を得るために用意していたパッケージにはなかった要求を米国が次々繰り出してきたことで、切り札を見いだせない日本側は当惑している。
4月2日に発表された国・地域別の措置とは異なり、世界一律で製品全体を対象とするアプローチに近いからだ。関税交渉は日本だけでなく、世界各国で延長戦に入っている。
■トランプ関税、落としどころは…
だが、イランへの戦略爆撃により、その軍事的な攻撃性で各国との関税交渉に微妙な脅迫の心理的影響を与えた強面のトランプ大統領とて、世界中を相手にいつまでも関税戦争を戦うわけにはいかない。
国民からの支持率も考慮に入れながら、どこかの時点で交渉をまとめ上げなければならないわけで、日本の立場は決して悪くない。
事実、米国側が次々と突き付ける新たな要求やゴールポストの移動は、実はトランプ政権が交渉における自らの弱さを隠すために行っている挙動である可能性すらある。
TACO、すなわち「トランプはいつもビビって逃げる(Trump Always Chickens Out)」という新しい米国の「格言」にもあるように、この先1~2カ月でトランプ大統領は折れて、日本を含む相手国と妥結する腹づもりではないだろうか。対日自動車関税を10~15%あたりまで下げる可能性もあると筆者はみている。
そしてここが大事なのだが、たとえトランプ氏が負けたように見えても、すでに吹っ掛けられるだけ吹っ掛けているため、最後には米国側には大きな成果が残ることだ。そのプロセスは、日本製鉄のUSスチール買収で、トランプ氏が「米鉄鋼業復活」「良質な雇用の増大」「投資の大幅増額」という果実を得た様子に似ていなくもない。
トランプ関税という「長いモノ」に巻かれる日本の大手企業の多くは、日本製鉄やトヨタのように不利を有利に変える潜在的な強みを持ち、トランプ政権からうまく「譲歩」を引き出して「勝つ」チャンスが小さくない。
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岩田 太郎(いわた・たろう)
在米ジャーナリスト
米NBCニュースの東京総局、読売新聞の英字新聞部、日経国際ニュースセンターなどで金融・経済報道の基礎を学ぶ。米国の経済を広く深く分析した記事を『現代ビジネス』『新潮社フォーサイト』『JBpress』『ビジネス+IT』『週刊エコノミスト』『ダイヤモンド・チェーンストア』などさまざまなメディアに寄稿している。noteでも記事を執筆中。
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(在米ジャーナリスト 岩田 太郎)