東大理三に入学するも現代医学に疑問に抱き退学、文転し再び東大に入る。東大大学院博士課程退学後はフランス思想を研究しながら、禅の実践を始め、現在「てらてつ(お寺で哲学する)」を主宰する異色の哲学者・大竹稽氏。
新年度新学期の緊張が、いい感じに解けてきた頃合いでしょう。
「気持ちが弛んでるなぁ」とか「なんだか退屈だなぁ」とか、あるいは「集中力がないなぁ」とか。そんな自分を感じることもあるかもしれません。「そろそろやばい。集中力を取り戻さないと!」と、反省しているかもしれませんね。
そんなあなたに、質問です。
「ここに一錠の薬があります。この薬を飲めば、眠気が取れるだけではなく、あなたの集中力や認知機能が長時間持続し、複雑な課題を誰よりも早く処理できるようになります。
さて、あなたはこの薬を飲みますか?その理由も聞かせてください。」
わたしは飲みません。
そもそも、「眠気の解消」「集中力の持続」「課題の処理速度」が罠だからです。これらが共通して示唆するのは、「機械」。
あなたは機械になりますか?
「成果を、近日中に出さなければならない」、なんてプレッシャーの中では、こんな機械的な集中を求めてしまうかもしれません。しかし、「眠気の解消」「集中力の持続」「課題の処理速度」なんて問題にならないような集中こそ、わたしたち本来の、自然な集中ではないのでしょうか。
「機械的な力」は機械に任せて、もうそろそろわたしたちは、人間的な、健やかで自由な集中に切り替えましょう。
ということで「着込んでしまった力を脱いで集中」するコラムの開始です。
わたしの友人たちから聞いた、一人の伝説的な禅僧のエピソードを紹介しましょう。
禅宗の僧侶になるには、修行が不可欠。全国に点在している専門道場に入門し、世俗と交流を絶った上で、数年間の修行をしなければなりません。特に、臨済宗の修行はその厳しさ《過酷さ》で有名です。
さて、専門道場には、全国からさまざまな人が集まります。修行内容の衝撃度に負けず劣らず、その人物像もハンパじゃないそうです。優等生もいれば、「不良」と呼ばれた修行僧もいれば、さらにそれを超える型破りの修行僧もいるそうで。
■伝説の和尚が集中力を高めるためにやったこと
「夜行」という一種の「特例行為」があるそうです。
字が示しているように、夜行は「夜の行い」。徹夜の特訓のようなものです。でも、特訓といいながら、野球少年が一人黙々と公園で素振りをする、なんてストイックなものなんかではありません。
なんとまぁ、夜行とは、夜に道場を抜け出してお酒を飲みに行くことなのだそうです。とんでもなく不届き千万な行為です。もちろん、バレれば破門。
そんな夜行が、破格のバイタリティを持った修行僧たちによって脈々と受け継がれてきたそうなのです。
さて、夜行がバレないためには、翌朝のお勤めが勝負。修行僧たちは、毎朝4時に起床しなければなりません。そして、朝課(お経を詠むこと)や粥座(朝ごはんを作ること)や堂内掃除などのようなお勤めが義務づけられています。
「バレれば、即、破門」だけではありません。道場の不文律として、「問題があったら連帯責任」なんてのがあるそうなんです。「問題」といっても、進んでやった不届きな行為だけではありません。雑な掃除や、手配のミスなども、連帯責任。もちろん、問題の大きさとしては、夜行は他とは比べものになりません。「バレれば、修行仲間全員が破門になるかもしれない」、こんなプレッシャーの中で、この和尚は毎晩、夜行を続けていたそうです。
さて、どれほど人間離れした精神力とバイタリティを持っていたとしても、当然、身体は人間のそれ。疲れは溜まります。ただでさえ、厳しい修行です。毎晩、夜行なんかすれば、眠気の攻撃も、どんどん激烈になっていきますよね。
そこで和尚は、一計を案じました。なんと、カフェイン剤を飲み始めたそうなのです。
カフェイン剤は気持ちを高揚させます。だから、まさかのことに、朝昼のパフォーマンスが、夜行前よりも上がってしまったそうなのです。自ら崖っぷちに追い込んだ責任と後ろめたさもプラスされて、毎朝の集中力がハンパないモノになりました。
ところで、臨済宗の僧堂には、「摂心」という、これまた過酷な修行が定期的にあります。その間、朝から晩まで、老師や仲間たちと不眠不休で坐禅三昧。当然、夜行なんてできるわけありません。カフェイン剤が抜ければ、パフォーマンスは落ちます。一方で、身体への負担が減ります。一般的な修行僧なら、この摂心がとても厳しく辛いものになるそうなのですが、こちらの和尚は、普段の夜行ができなくなってしまったために、あにはからんや、身体の調子が良くなってしまったそうです。
そして、摂心が終われば、夜行の再開。もちろん、カフェイン剤付きです。
結局、バレないまま、無事に修行を終えたそうなのですが、ではいったい、なにがきっかけで夜行をやめたのでしょうか。
■伝説の和尚の挫折はこうしてやってきた
まぁ、身体は正直ですよね。
ある時から、午後夕方のパフォーマンスがガクッと落ち始めたそうなのです。それでも夜行を続けたこの和尚も和尚ですが、自分の思い描いたようにはいかないのが身体です。ある時、40度の熱が出て倒れてしまいました。「鉄分不足による貧血」と診断されたそうだが、原因は、間違いなくカフェイン剤。「夜行やってるな?」なんて診断が出されなくてよかったですね。
こうして和尚は、夜行という「特例行事」を自主的に終えました。やめ時を、周りにバレる前に身体がちゃんと教えてくれたのは、不幸中の幸い。もし、身体への負担が隠れたまま夜行を続けていたら、さてさて、どうなったでしょう。
一般的に「集中」は、「ブレない」「持続する」ことが「理想」とされます。そうなれば、「処理速度」も上がり、「生産量」も上がる。だから、いろいろなものが気になってキョロキョロしてしまう人には、処理速度と生産量が平均以下になるから、「集中力のないダメなヤツ」なんて烙印が押されてしまいます。
一方で、機械は余所見なんかしません。だって、そもそも、身体がないから感覚もありません。だからカレーの匂いがしてきたからってそれを感じないし、笑い声も聞こえない。頭痛にも眠気にも無縁です。
でも、わたしたちの感覚はそれらをちゃんと受け取ってしまうのです。
ところで、この伝説の和尚が身を以て教えてくれたことがあります。薬によって得た集中は、確かに強力です。処理速度が上がり、テンションも上がる。イノシシのようにゴールまでまっしぐら。だが弱点があります。
「与えられた課題しかクリアーできない」のです。
やるべきことを与えられないと、この集中力は無駄になります。イノシシに喩えましたが、イノシシに申し訳なかった。実際には「機械」になっているから、誰かにミッションをインプットしてもらわないと動けません。
機械は、文句も疲れもなく、弛まず、与えられた課題を黙々とクリアーする。しかし、目標を与えられなければ動けません。人間は、与えられなくても動く。関心や好奇心が導いてくれます。しかし、疲れるし眠くなるし、文句も言いたくなるし、退屈になります。集中が乱れないほうが奇跡でしょう。
「機械か人間か?」なんて二択にはなっていますが、実質、一択でしかありません。わたしたちは「人間のままでいる」しかありません。
機械になっちゃダメ!
理想とは程遠い集中では、残念な結果になるかもしれません。上司や師匠に叱られるかもしれません。自分の不甲斐なさに落胆することもあるかもしれません。
でも、「機械になる」ということは、感覚を捨てることです。それは好奇心や関心も捨ててしまうことになるのです。
そうなったら、世界はどうなるでしょう? 感動も驚きもなくなってしまいます。
失敗や挫折もあるけど、驚嘆や共感もあるのが、人間の世界。集中していても、世界を遮断してはいけません。「世界と触れ合いながら集中する」、ここが肝になります。「処理速度」とか「生産量」が基準となるような仕事なんて、いずれ機械がやってくれるでしょう。こんな問題が「問題にならない」ような集中、それがわたしたち本来の集中なのです。
■集中力が途切れブレることは悪いこと?
ここから先は、読み飛ばしていいでしょう。哲学好きはご同行願います。
フランスの哲学者メルロ=ポンティは、「身体と世界の関わり」について教えてくれます。『知覚の現象学』で彼はこんなことを言っています。
「わたしが身体を持っており、その身体を通じて世界の中で行動している限り、空間と時間とは、わたしにとって並列された点の総計ではない。わたしは空間と時間の中に存在しているのではないし、空間と時間を思惟の対象としているのでもない。わたしの身体は空間と世界を包摂している」
時間は止まりません。流れています。しかし、なぜ「流れている」とわかるのでしょう? 大事なのは「時間に触れている人がいる」ということです。常に時間には、「触れる人にとって」という前提があります。ですから、「川の流れの」に喩えられるように、時間は一定でも一律でもありません。
空間も、同じように変化しています。デスクの上の物が動かないように見えても、実は動いています。音も空気も、時事刻々変化しています。
わたしたちの時間は、打刻された点が直線的に並んでいるわけではありません。人それぞれによって、感じ方は千差万別。同じ人間にとっても、時間は千変万化します。だから、この変化を拒絶するような集中は、身体本来のあり方をごまかすものなのです。
つまり、集中がブレたり揺らいだりするほうが、自然で健やかなのです。
世界と触れ合っているのですから。今、あなたの手は何に触れていますか? どんな感じがしますか? 手に馴染んでいますか? あるいは違和感? それとも親しみでしょうか?
『哲学者とその影』から引用します。
「もしわたしが他人の手を握りながら彼がそこにいることについての明証を持つのであれば、それは他人の手がわたしの手と入れかわるからである。わたしの手が『共に現前』し『共存』しているのは、それが一つの身体の手だからである。他人もこの共現前の延長によって現れてくるのであり、彼とわたしとは、いわば同じ間身体性の器官なのだ」
もしかしたら、あなたが触れているのは人の肌かもしれません。その人の肌は、あなたに触れられながらも、あなたに触れている。触れるとは常に「触れ合い」なのです。この触れ合いに、何も感じずブレないでいるほうが失礼ですよね。
触れる相手は人ではありません。ボールペンや本、服や靴、家具にパソコンに携帯電話。そして建物に道路。確かに無機質だけど、物との関係にも「触れ合い」があります。手に馴染んだ道具、目に馴染んだ街並みなどは、その好い例でしょう。馴染みのない街では、なんとなくドキドキしてしまいます。それが感覚の証拠です。機械だったら、どんな場所に置かれても、ブレもしませんし、揺らぎもしません。
■「アタマより身体感覚が頼りになる」とはどういうこと?
集中は、わたしたちの「身体性」から捉え直さなくてはなりません。アタマだけで妄想して機械を理想としてはダメ。集中は、たんなる「置かれた状態」じゃない。常に「身体を伴う状態」なのです。
アタマより身体の感覚が頼りになります。スピードや量など、点数勝負の集中は、機械に任せられるようになります。これからは、もっと感覚に素直になりましょう。わたしたちにできる最善の一手は、そんな環境を探りだし、そんな環境に主体的に身を置くことです。
「どんな環境が良いか」ですって?
そんなの、わたしにはわかりません。あなたの身体に聞いてみましょう。雑音だって人それぞれ。気に入る色だって人それぞれ。文房具だって、馴染めるのは人それぞれ。仕事に向かう服装だって、ゆったり好きもいれば、ピチピチ好きもいます。世界は、そもそも、身体と共存しているのです。
最悪の環境は、わたしたちの感覚を支配しようとするものです。そんな環境は断固拒否。それを強いてくる会社なら、逃げてしまえばいいでしょう。そこは、自動操縦や洗脳を是とするところです。
誰にでもきっと、自然とリラックスして集中できる環境があるはずです。崖っぷちに立たされて薬に手を出す前に、環境を見直してみましょう。そして、快適な環境を探り出しましょう。答えは身体が持っています。そこに身を置けば、自然に集中のスイッチが入るのです。
まずは身体の声に耳を傾けてみましょう。
文:大竹稽