早稲田大学在学中にAV女優「渡辺まお」としてデビュー。人気を一世風靡するも、大学卒業とともに現役を引退。

その後、文筆家・タレント「神野藍」として活動し、注目されている。AV女優「渡辺まお」時代の「私」を、神野藍がしずかにほどきはじめる。「どうか私から目をそらさないでいてほしい・・・」連載第6回。





私にとってセックスはすごく簡単なことだった。なのに撮影中に心...の画像はこちら >>





【「給料なんていらないから、今すぐ帰宅させてほしい」】



 季節は一巡し、気がつくと女優になって二度目の夏がやってきた。撮影場所がホテルなどでない限り、うだるような暑さに苦しめられていた。ただでさえ、何もしてなくて暑さでもじりじりと体力が奪われるのに、外でのロケが多い日なんかは本当に最悪であった。でも、そんな状況でも仕事は迫ってきて、休む暇を与えてくれなかった。



 大学生としての最後の夏休みは寝て起きて仕事の繰り返しで、「卒論、進めないとなあ」と漠然とした思いを抱えながら、埋まっているスケジュールを淡々とこなしていく日々であった。



 七月六日、乳白色のどろっとした液体にほんのわずかな赤が混じっていて、よく見るとベッドシーツにもぽつんぽつんと同じような色のシミが付着していた。生理のような量ではないし、確認しても外側が切れているわけでもなかった。その程度のことならば撮影の妨げにならなかったので、私を含め、その場にいる誰もが気に留めていなかった。



 八月三日、お昼に出たお弁当を食べている最中におえっとなる感覚があった。

感覚があるだけで実際に吐くまでは至らなかったが、お弁当は半分以上残してしまった。あんなにお腹がすいて、「今日のお昼ご飯何だろうな」なんて心を躍らせて待ち望んでいたのに。心配させたくないから「夏バテかな」なんて現場ではごまかしてみせたけど、撮影を終えて帰宅してみると、何の問題もなくすんなりご飯を食べることができた。



 八月十二日、「給料なんていらないから、今すぐこの場から帰宅させてほしい」と思うことがあった。これまで「辛いけど何とか終わらせよう」と思うことは何度かあったが、撮影中に心がポッキリ折れたのは初めてだ。私を含めて現場にいる人間に細かく指示を出す割に、自分に対してはかなりルーズな監督に、その監督の指示をまったくもって聞かずに動く男優という組み合わせで、現場のムードは険悪なものになっていた。(その二人以外のプロデューサ―やメイクさん、技術さんは本当に良い人たちで、私側の立場になって励ましてくれていた。)





【その日のセックスの全てが悲惨だった・・・】



 その日のセックスの全てが悲惨だった。大したことないサイズなので、本来ならば問題なく挿入できるはずなのになかなか入らない。入ったとしてもただただ感じるのは、痛みだけであった。何とか鈍痛を乗り切ってカットがかかると、身体に纏わりつく不快感を一刻も早く拭い去りたくて、一目散にシャワーにかけこんだ。シャワーの温度を上げている最中、親しい人に一通だけメッセージを残した。

「もうこんな現場、はやくかえりたい。もう、むりかも。」とだけ。





 私にとってセックスはすごく簡単なことだった。元々そこまで貞操観念が強いわけでもなかったし、「セックスは心の底から好きな相手としないといけない」なんて考えたことがなかった。好きじゃない相手、もっと言うならばその日初めて会ったよく知らない人でも、仕事ならば無防備な身体を明け渡すことができた。それに加えて、自分を役に落とし込むのも得意な方で、役によりけりだが、どんな相手でも「好き」と思って接することができた。だからこそ、AV女優という職業に向いていた。しかし裏を返せば、それができなくなったら女優としての人生は終わりだと分かっていた。



 ここ二ヶ月、自身の身体が発するサインによって、もう自分が女優に適していないことは薄々感じていたし、何よりもこのまま続けたところで、お金以外の対価を得られる未来は見えなくなっていた。そして徐々に「引退」を現実のものとして意識するようになっていった。AV女優を辞めることは簡単だ。契約上辞めることに対して何か制約がついているわけでもないので、私が「辞めたいです」と一言伝えさえすれば良い。

しかし、その一言がなかなか言えなかった。その理由は現場に愛着があるとか、ファンが恋しいとかの可愛いものではない。



 私が「渡辺まお」でなくなること、ただの「私」に戻ることがたまらなく怖く、受け入れることができなかったからだ。「渡辺まお」になることは「私」にとって大きな決断で、そしてこれまでの人生との決別を意味していた。それ以前までの人生とは違い、水を得た魚のように生きている気がしていたし、ここからが自分の人生の始まりであるとも思っていた。これまでに色々なものを捨てた。様々なことに苦しみ、あがき、乗り越えて、手に入れてきた。そうやって作り上げてきたものを易々と手放せるほど、大人ではなかった。でももうそれと同時に、「渡辺まお」に対して澄み切った前向きな思いもなく、今抱えているものが執着のみであること、それが何よりも愚かであること、それは誰よりも私が理解していた。



 だからこそ、少しだけずるい選択をとることにした。





【女優になって三度目の春、引退を決意した】



 夏の終わりに「写真集のクラウドファンディングが終わったら、休業してもいいかな」と社長に伝えた。もちろん引き留められもしたが、最終的に納得をしてくれた。

次の春には「私」に戻る。それが一時的になるか、永久的なものになるかはそのときの決断次第だ。事態を先延ばしにしただけと思われるかもしれないが、全ての思考を放棄して何もしないよりはましだと考えていた。それからの日々は楽しかった。果てしもない道よりも明確なゴールが設定されている道の方が全力を注ぐことができた。



 時は流れ、女優になって三度目の春がやってきた。その春に私は休業し、「渡辺まお」と距離を置くことで、女優であった二年間についてまだ十分ではないものの、冷静に客観視できるようになった。そしてその結果、引退することを決意した。その決断は今でも後悔していない。



 デビューする直前、女優になったらこれまでの私の人生につきまとうしがらみから逃れて、もっと自由になれると思っていた。しかし無我夢中で取り組む間に「事務所のために頑張ろう」「応援してくれるファンの期待に応えたい」「AV堕ちといってきた人たちを見返したい」―― 色んな感情が渦巻き、藻掻いているうちに、無意識にも私は、自分で自分を泥沼の中に突き落としていたのだ。



 ただ、そこで諦めるのではなく、その苦しみから自分で這い上がろうと行動できるようになったことに対して「大人になったんだな」と感じている。

だって、昔の私ならば、そうすればよいことを分かっていても、そうしなかったのだから。





 もう少しだけどこにも話していない、過去と未来について辿っていくつもりだ。読者の皆さんには一緒に見届けていただきたい。





(第7回へつづく)





文:神野藍



※毎週金曜日、午前8時に配信予定

編集部おすすめ