世の中には順調にエリート街道を進んでいる人物がいる。プロレス界でいえば、「方舟の天才」と呼ばれた丸藤正道がその一人であろう。
しかしその丸藤にも苦しい時期があった。その苦悩を人に明かすことなく悩み続けていたのかもしれない。
天才と呼ばれたレスラーは、2024年早々に大きな舞台が待っている。丸藤同様、天才と呼ばれている飯伏幸太とのシングルマッチが1月2日有明アリーナで決まった。団体の看板タイトルであるGHCヘビー級選手権を差し置いてのメインイベントはファンから賛否両論を呼んだ。
大きな舞台が間近に迫っている中、ロスジェネ世代でもある丸藤選手にレスラー人生について詳しく話を聞いてきた。

■丸藤少年がプロレスラーを目指すきっかけはあのレジェンドレスラー
幼い頃は外で駆け回るのが大好きでやんちゃ坊主だったという。4兄弟の末っ子(兄の一人は著名なアニメーター丸藤広貴)で、兄弟同士でプロレスごっこもしていたそうだ。そんな活発な少年がプロレスラーになるきっかけとはなんだったのだろう。
「子供の頃、兄が持っていたプロレス雑誌の表紙にロードウォリアーズ(日米で大ブームを博したタッグチーム)という外国人選手がいたんです。顔にペイントをして、頭はモヒカン、筋肉ムキムキで、初めてプロレスラーというものを見たんです。
ただ、僕はめちゃくちゃ大きいわけじゃないし、今でもそうなんですけど体の線も細い。だからなのか、中学の進路相談のとき、学校の先生に『プロレスラーになりたいからレスリング部のある高校へ行く』と言ったら、『お前なんかになれるわけないだろう』みたいなことを言われたんです」
その一言は丸藤少年の心に火をつけた。
「刺激になりましたね。絶対プロレスラーになってやるって思いましたよ」
それからプロレスラーになるために高校もレスリング部があるところを自分で探し出し、見事入学をしたのだった。
入ったのは埼玉県でレスリングの強豪校である埼玉栄高校。レスリング部へ入部し、インターハイに出場するほどの活躍を見せる。部活動の他に、初代タイガーマスクだった佐山聡が主宰するタイガージム大宮へ入門し、格闘技も学んでいる。高校2年のときに、UWFインターの後継団体キングダムの入門テストに合格をするほどであった。丸藤が入門する前にキングダムは崩壊。
1998年8月に全日本プロレスでデビュー。入門から5ヶ月後でのデビューは丸藤に大きな影響を与える三沢光晴並みの早さであった。なぜなら当時、全日本プロレスはスクワットや腕立て伏せ、受け身に多くの時間を取り、プロレスラーとしての基礎をしっかりと身に付けてからデビューさせていたからである。丸藤がどれだけ期待されていたのかがうかがえる。
デビュー後も期待の若手選手として多くの先輩レスラーと試合が組まれた。特に注目されたのがプロレス界を象徴するレスラーの一人、ジャイアント馬場とのタッグである。丸藤は馬場が存命していた頃にデビューしており、「ジャイアント馬場最後の弟子」とも呼ばれていた。その馬場とのタッグでは、身長2m9cmある馬場の肩から丸藤がミサイルキックを繰り出して、ファンから多くの歓声を浴びたこともある。

■師匠・三沢光晴から教わったこと
プロレスは大相撲と慣習が被っていることが多い。若手レスラーは先輩レスラーの付き人として身の回りの世話をするのもその一つだ。もちろん丸藤も付き人を経験している。
「(三沢さんの)付き人を3年間していたんですけども、三沢さんは、ああしなさいこうしない」と言う人ではなかったですね。試合会場以外、プライベートの部分ではプロレスの話はほぼありませんでした。だた『言葉には責任を持ちなさい』とは言っていましたよ。プライベートでも結構ご一緒させていただいたんですけど、世間がイメージするプロレスラーと違って、本当に仲がいい人といつも過ごしているような人だったんです。
もちろん試合会場では、三沢光晴という人間の背中を見て僕も学んできましたけども、その付き人をしている時間っていうのは、その人間性みたいなものを学ばせてもらった感じですかね。言葉で語るというより背中で語るというか」
丸藤は、2000年に三沢が設立した「プロレスリング・ノア」へと移籍をする。三沢は当時社長を務めていた全日本プロレスを退団。理想のプロレスを目指してノアを旗揚げしたが、馬場の死去後、未亡人である馬場元子との対立が原因とも囁かれていた。三沢と行動を共にしたレスラーは丸藤を含めて25名。全日本プロレスの社員も多くが三沢に同調した。
「当時は三沢さんの付き人でしたし、19歳20歳頃なんで会社の細かい事情というのは全くわかりませんでしたよ。でも、さっき言ったように、三沢さんが仲間たちと一緒にお酒を交わしているときとか、やっぱ心も体もすごい悩んでいるなっていうのは若い僕にでも伝わるくらいでした。
僕の選択肢としては、やっぱり三沢さんについていくっていうことしかなかったです。
もちろん馬場さんや先輩たち、お世話になった人にはご恩があるのはわかっています。でも、そこは迷いなく決めましたね」
こうして全日本プロレスからプロレスリング・ノアへと移籍をし、ジュニアヘビー級の選手として活躍。三沢が設立したGHCジュニアヘビー級のタイトルを全日本プロレス時代の先輩である金丸義信やノアの後輩である杉浦貴、KENTAらとで激しい戦いを見せてきた。
その姿はファンを熱狂させ、彼は一躍トップレスラーの仲間入りを果たすのである。2010年にはノア、新日本プロレス、全日本プロレスのジュニアヘビー級のシングル王座を全て戴冠した初のレスラーになった。ヘビー級でもノアのGHCヘビー級、タッグベルトを巻いた経験がある。

■天才と呼ばれてきた男の意外な感情
丸藤正道は、ファンから長年「方舟の天才」と呼ばれている。軽い身のこなしでリングのトップロープを軽々と越えたミサイルキックや、トップロープやコーナーポスト、エプロンサイドを使った技を得意としている。そのどれもが速くて高い。しかも正確である。また、ジュニアヘビーからヘビー級へ転向しても体格差をもろともしない戦いを見せてきた。
タッグパートナーとして隣にいたこともあれば、ライバルとして対角線上に立ったこともあるKENTAは丸藤をこう表現している。「本当に同じ時代に丸藤さんがいてくれてよかった」「あの人は天才である。動き、発想。閃き。本当にすごい」同時に他団体の選手や関係者、プロレス専門の記者・ライターも丸藤を絶賛する声は多い。自らが天才と呼ばれていることについてどう思っているのだろう。
「僕、自分のこと天才と思ったこと本当にないですよ」
出てきたのは意外な言葉であった。
「例えば僕より大きい人もいれば、動ける人もいれば、スピードの速い人もいれば、力ある人もいるし、感度が良い人もいれば、顔がいい人もいる。そのすべてを僕が持っていれば『俺もしかして天才かも』と思うかもしれません。でも、僕よりすごい人たくさんいるので」
ここで筆者は丸藤本人に実際に試合を見た感想を述べてみた。今でも覚えているのは速さと高さ。2m近くあるレスラーの顔面に蹴りを決めた姿。そして相手の意表をつく攻撃などを挙げてみた。
「そう見せるのも一つの技術であるんで。そういうのもプロレスの技術ですよね。長年の経験とか、練習を積み重ねて身につけたものもあります。でも、大きいのは全日本プロレスからNOAHという流れの中で周りに恵まれたからでしょうね。
先輩たちは、本当にプロレスのトップの技術を持った人たちばっかりだったんですよ。だから自然とそういう技術を教えてもらったり、試合で身に付けさせてもらったりしたんで。自分がすごいっていうより、やっぱり周りの人たちがすごいんじゃないですかね。
だって僕、普通のプロレス好き少年ですよ。周りの人がいなければ何もないです」
1990年代の全日本プロレスは、「四天王プロレス」と呼ばれていた。丸藤の師匠である三沢を筆頭に川田利明、小橋建太、田上明がリング上でお互いに死闘を繰り広げていた。
四天王プロレスは、両者リングアウトや反則といった不透明な決着がつく要素を排除し、ピンフォールによる決着のみを目指したのである。そうなると必然的にお互いの攻撃は激しくなる。追い込むために脳天から垂直に落下させる技や高角度でリングから場外に落とす技が増えていく。無事にリングから降りるためには、受け身も上達しないとならない。同時に攻撃もどんどん激しくなっていく。彼らのプロレスをファンは絶賛した。全日本プロレスでも、ノアでも、日本武道館や東京ドームといった大会場で超満員札止めを繰り返したのが答えである。
三沢が中心となって作り上げたプロレスは、今でも丸藤を通じてプロレスリング・ノアで受け継がれている。

■師匠・三沢光晴への思い
何度も名前が上がった丸藤の師匠・三沢光晴。彼は2009年にリング上の事故で帰らぬ人となった。2021年には13回忌を迎え、ノアではコロナ禍で観客を入れられなかったが配信メモリアルマッチを行った。
「いろいろな思いがあるんですけど、そこは普段あえて出さないようにしてるんで。13回忌ということで、自分の中で大切なものはしまうところはしまって、出すところは出して。お客さんが何か感じられるものを表現できればいい。三沢さんも重苦しいものは好きじゃなかったですし。明るくいきたいと思います」
丸藤は、記者会見でこのように語った。師匠超えを果たすためにあえて別行動を取るようになった。ジュニアヘビー級で「ヘビー級よりもジュニアの方が面白い」と言われ、ノアで旋風を巻き起こす。その後、ヘビー級へ転向し、団体の象徴であるGHCヘビー級ベルトへの挑戦権も得た。王者は師匠・三沢光晴。師匠との対戦直前の心境はどんなものだったのか。
「今僕44歳なんですけど、あのときの三沢さんも44なんですよね。そうやって考えると、自分の中で非常に感慨深いものがあります。あの試合に関しては、思いというものに厚みが出てくるんですけど、今比べられるじゃないですか。そう考えていると、三沢さんって、やっぱりすごかったんだな。実際すごかったし、苦労していたんだなっていうふうになんか試合よりもそっちが強いですかね。
僕は初めてシングルマッチやったのはディファ有明だったんです。そのとき最後ランニングエルボー受けたんですけど、その夜、もう頭ガンガンしちゃってご飯食べられなかったですね」
三沢は当時社長とトップレスラーを兼任。コンディションは良くなかった。それでも丸藤を自身のオリジナル技・変形エメラルドフロウジョンで沈めた。丸藤は三沢超えを果たせなかったのである。
今年(2022年)5月、外敵王者からの指名でGHCヘビー級戦の前に丸藤はこんなことを語っていた。
「1回も勝てずに三沢さんはいなくなってしまった。多分あの時の三沢さんは今の俺よりもコンディションが悪かったと思うんだよね。三沢さんがもうひと踏ん張りっていう形でやっていたのを思うと、自分も負けてられない」
今でも三沢の魂を受け継いでいる。

■「できなかったことばかり」と述懐するほど苦悩した時期
三沢が事故で亡くなってからノアは混乱を極めた。三沢亡き後、田上明が二代目の社長に就任。丸藤も副社長となった。しかしながら新体制発足後は苦難の連続であったといえる。
まずは取締役相談役に就任した百田光雄が自らの人事案を受け入れられなかったことを理由に退団。続いては、三沢が存命中からノアをフロントで支えていた仲田龍氏(故人)がスキャンダルにより失脚。一社員へ降格となった。しかも観客動員も落ち込み、日本テレビの地上波中継も終了(日テレG+へ移行)し、収益も下がっていった。
そのためリストラを敢行し、6名の選手とレフリーがノアを去ることになった。
そんな中、副社長の丸藤はどんな思いでいたのだろう。
「俺がしっかりできなかったことが後悔です」
それまで自分のことを「僕」と呼んでいた男が、初めて「俺」と言った。偽りなき本音が垣間見えた瞬間だった。
「GMをやっていた(仲田)龍さんの期待に応えられなかった。それが大きな後悔です。もう少し会社とレスラーであったり、現場とのパイプ役だったりをしっかりやるべきだったことができてなかった。
経営を学んだことがあるわけでもなかったし、会社の状況や、まだまだ先輩もたくさんいて、どうしていいかわかんなくなっちゃったのが正直なところです」
丸藤が副社長に就任したのは、彼が30歳ころのこと。プロレスラーとして脂が乗ってくる時期であったが、リングでは小橋建太と秋山準がおり、大先輩を差し置いて意見をするのが難しい状況だったに違いない。
それでも先輩へ厳しいことを言わなくてはならない状況もあっただろう。しかし丸藤はこう振り返った。
「結果できていなかったってことですよね」
そんな苦しい経験をした後、何か得たものはあったのだろうか。
「会社側と選手側の考えとかは違うことが多々あったんです。そういうものを一つにしていかなくちゃいけないっていうふうにも思いましたね。それと会社の中がごちゃごちゃしてると表にもそういう雰囲気とか出ちゃうじゃないですか。
そこで、みんなを一つにするっていうのが責任ある人間がやることだと思っているんです。当時はできていなかった。今なら後輩が多いからコミュニケーション取れると思います。
前に副社長をやっていたときは、先輩や後輩にこれ言っていいのかな? これ言ったら刺激しちゃうかも? あれこれ考えていたら逆に周りと話ができなくなっちゃったかもしれません」

■プロレスは楽しめる入り口がたくさんある競技
1月2日に開かれる有明アリーナ大会の宣伝にも余念がない。忙しい合間を縫って、インタビューを受けてくれた。そこでプロレスをよく知らない人へ向けて、プロレスの魅力とは何なのかを聞いてみた。
「プロレスの楽しみ方って一つじゃないんです。入口がたくさんある競技で、もしちらっと見かけたら、かっこいいなって思うかもしれない。動きがすごいなって思うかもしれない。怖いのかもしれない。強いのかもしれないし、もしかしたら弱いのかもしれない。
その入口となるものがたくさんあるのがプロレスリング・ノアだと思います。プロレスを見たことがない人にとっては、ちょっと野蛮なイメージがあるでしょう。でも見てもらえば、野蛮ではないし、面白いと感じることがありますよ。
例えば、悪い奴がいたとしても、その野蛮というイメージの中に、何か必ず物語があったりとか、技術があったりとかするんで、見てもらえばわかります。わかりやすいのがプロレスでもあるし、僕が守ってきたプロレスリング・ノアのリングだと思います。
試合はたくさんあるんで、第1試合から見てもらって、その中で自分のお気に入りの試合とか選手を見つけてもらえれば、どんどんどんどんはまってきます。ぜひとも会場に足を運んでみてほしいですね。
会場へ行くのはまだちょっとと思う人は、Abemaとかレッスルユニバースとかがありますので、ちょっと一歩足を踏み入れて欲しいなって思います」
1月2日の有明アリーナ大会は、従来のプロレスファン以外にも見に来てほしいという。そして丸藤は、旧Twitter(X)やInstagramで積極的に発信をしている。その理由はただ一つ、「プロレスリング・ノア」をもっと高いところへ持っていくためだ。
「SNSに関しても、Xのフォロワー数は多分団体の中では僕が一番だと思うんです。でも某大手(新日本プロレス)の選手となれば桁が違う。その違いの差というものをやっぱり埋めていきたいし、世界になればもっと桁が違う。だけど同じ世界にいるからには、俺たちはトップを目指していかなくちゃいけないし、どんどんどんどん発信してくんで、この記事を目にした人は、プロレスリング・ノアと丸藤正道をぜひともフォローしていただけると、めちゃくちゃありがたいです」
丸藤選手のSNSアカウントは以下である。
https://x.com/noah_marufuji_?s=20 (X)
https://www.instagram.com/marufuji_naomichi_/ (Instagram)
飯伏幸太との対戦が決まった後、現役生活も少ないと語った丸藤に対戦してみたいレスラーはいるかどうか聞いてみる。
「何人かはいます。ただ、自分から簡単に口にしたくないですね。意味合いを持たせるためにも、そのときに言いたいというのがあるんです。それくらい大事にしていきたいと思うし、あとはもう純粋に団体に所属している状態で、ちょっと海外とかで試合してみたいなと思いますね。
有り難いことにSNSのDMでオファーをいただくので、海外でちょいちょい試合をやっていきたいなと思っています。去年も何回か行ったんですけど、もうちょっと頻度を増やして丸藤とノアを知ってもらうことでマーケット広げていきたいですね」
最後に丸藤の同年代であるロスジェネ世代へ向けてメッセージを頼んでみた。
「40代くらいというと、上と下に挟まれるような状況で一歩踏み出しにくい世代なのかもしれません。でも、若い時の貯金が身体にも心にもあるし、年齢を重ねたことによる魅力も出てくる。僕は40代はいい世代だと思うので、物事を諦めずにどんどんチャレンジしてもいいのかな、と。僕キャリア25年になりましたけど、まだまだ気持ちは若いので。もし気持ちが落ち込んだり、沈んだりしたときはプロレスリング・ノアで僕の試合を見て、元気になってください」
「方舟の天才」と呼ばれている男は、自分だけではなく自分の居場所であるプロレスリング・ノアを頂点にするために動いている。今回の有明アリーナ大会の飯伏幸太戦もその一環であるだろう
文:篁五郎