今月8日、松本人志が週刊文春に対する名誉毀損訴訟を取り下げ、約10カ月に及んだ法的争いに一区切りがついた。しかし、かつて同誌から「セクハラ教授」と報じられ、7年に及ぶ法廷闘争の末に完全勝訴を勝ち取った元同志社大学教授でジャーナリストの浅野健一氏の論考を読めば、これは決して一過性の問題でないことがわかる。
■文春の人権侵害報道との闘いと報復
文春の「ロス疑惑」の「疑惑の銃弾」が連載された84年、これを真っ先に批判したのが私だった。『犯罪報道の犯罪』(学陽書房)を出版したばかりだった。同書をきっかけに85年、「人権と報道・連絡会」(代表世話人・奥平康弘東京大学教授)が誕生した。私は文春の「不倶戴天の敵」ともいうべき存在だった。その「敵」を叩く好機とばかり、同志社大内外の「反浅野グループ」と結託して強行したのが、「セクハラ疑惑」捏造報道だったと私は思っている。
私の活動の中で、たびたび「報道加害者」として登場したのが文春だ。文春は、警察情報や悪意の伝聞情報のみで犯人扱いしたり、事件関係者のプライバシーを勝手に商品にしたり、少年事件の被疑者の実名を掲載したりするなど「新聞が書かない記事」を売り物に、数十万部を売り上げ、大きな利益を上げてきた。もし記事が訴えられ、裁判で負けても数十万払えばいい、とばかりに。
私たちは、こうした文春の人権侵害報道と闘い、報道被害者を支援してきた。その文春がついに、闘いの先頭にいた私に対する攻撃を始めた。文春報道は私への一種の「報復攻撃」でもあったと私は考えた。
私は元朝日新聞編集委員の本多勝一氏らが1993年に創立した「週刊金曜日」に創刊時から書いてきて、故山口正紀、中嶋啓明両氏とリレー連載もしていたが、2017年に突然排除された。元編集長が2023年7月、私に明らかにしたところによると、小林和子編集長が「浅野切り」の急先鋒で、その役を井田浩之・副編集長に振る時に「植村隆社長からの業務命令」という形をとったという。小林氏は、副編集長が「セクハラは事実無根で、連載を続けるべきだ」と抵抗したが、小林氏はセクハラ加害者だと断言していたという。
愛媛県松山市で2019年に起きた〝農業アイドル〞の女性(当時16)の自死を巡り、遺族や代理人弁護士が「所属事務所の過重労働やパワハラが原因」などと虚偽の記者会見をしたため名誉を傷つけられたとして、所属事務所と佐々木貴浩社長が、弁護士5人らに計3740万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が2023年2月28日、東京地裁であり勝訴した。東京高裁は7月に被告側の控訴を棄却し、一審判決を維持した。
遺族が原告になった損害賠償訴訟は、一・二審と敗訴。上告しなかったため、2023年1月、原告の敗訴が確定している。
野村裁判長は判決で、名誉毀損の成立を認め、遺族と「芸能人の権利を守る日本エンターテイナー協会」(ERA、代理人の弁護士5人が代表理事)などに計567万円の賠償を命じた。
遺族代理人の佐藤大和氏(レイ法律事務所代表)、河西邦剛氏(同事務所)、望月宣武氏(日本羅針盤法律事務所代表)、安井飛鳥氏、向原栄太郎氏の5名は2018年10月11日に提訴に先立ち開いた会見で、佐々木氏が「(グループを)辞めるなら1億円払え」などと発言し、高校入学金の貸与を取り止めるなどしたことが原因で自死したという印象を与えた。テレビなどが会見での弁護士らの発言を垂れ流し、佐々木氏は「悪徳社長」のように非難されたため、会社の信用は地に落とされ、10人いた従業員は2人になり、農業アイドルは解散に追い込まれた。
東京地裁判決で厳しく批判された弁護士5人は、普通なら恥ずかしくて街を歩けないと思うが、2024年1月に始まった松本氏に関する、女性に性行為を強要したなどとする「週刊文春」の報道に関し、河西弁護士が「芸能界の訴訟に詳しい弁護士」「エンタメ弁護士」として日本テレビ、TBS、テレビ朝日などに度々出演している。松本氏側が5億5000万円の損害賠償などを求め提訴したことで、河西氏は「第1回口頭弁論は早くて3月初旬か、和解せず徹底抗戦になる場合、一審の判決までに1年半から2年、最高裁までいけば3年以上かかる可能性がある」などと見通しを語ってきた。「女性の出廷の有無にかかわらず、当事者尋問は行われる」などと予言し、スポーツ紙やネットメディアが河西氏のテレビでのコメントや解説を引用して報じている。
河西氏は〈日本エンターテイナーライツ協会(ERA)共同代表理事。「清く楽しく美しい推し活~推しから愛される術(東京法令出版)」著者〉などと紹介されている。
遺族と弁護士が大々的に行った記者会見に虚偽の内容があったと裁判所が認定したのに、「タレント弁護士」と彼らに丸乗りしたワイドショーは沈黙。弁護士はテレビで専門家としてお喋りする。キー局は河西氏が佐々木氏の名誉を毀損したことを知った上で、公共の電波に乗せている。万死に値する。
■「週刊文春」は報道加害常習犯
文春は、多数の名誉毀損訴訟で敗訴しているが、杜撰な取材により虚偽の記事を掲載し、〝報道という名の暴力〞を行い続けた結果であると言える。これは、文藝春秋社内において、報道機関が持つべき最低限の社会的常識、倫理観が欠如していると言わざるを得ない。
文春は1959年、出版社系の週刊誌としてスタートし、「週刊新潮」とともに「新聞が書かない」記事を売り物にして、大きく部数を伸ばしてきた。その主要な柱が「疑惑」報道とプライバシー「暴露」報道だ。
最近は、〝文春砲〞と称され、モリ・カケ・サクラ・カワイ問題、ジャニーズ事務所事件、自民党裏金疑獄など有力政治家・官僚の不適切な行為を暴くなど評価されているが、その本質は変わっていない。
文春はまず、「新聞が書かない」記事の見出しを新聞やネット(かつては電車の中吊り広告)で宣伝する。「新聞が書かない」こととは、まさに関係者のプライバシー。その口実として、「公人である」「事件に関係した」といった逃げ口上を用意する。
2004年3月の田中真紀子衆院議員の家族に関する記事は、出版差し止め仮処分申請で問題になった。差し止め請求は棄却されたが、それが話題になり、ふだん読まない読者も「週刊文春」を購入、文春は大きな利益を上げた。記事は議員の政治活動とは無関係で、公共性も公益性もなかった。
推知報道(氏名、年齢、容貌などにより本人と推知できる記事、写真の掲載)が禁止されていた少年事件の報道も悪質だ。
それ以上に、「週刊文春」が売り上げを増やす常套手段としてきたのが、「ロス疑惑」に代表される「疑惑報道」だ。新聞・テレビは警察が警察記者クラブで広報(公表ではなくあくまでキシャクラブメディア=加盟の新聞・通信社テレビ19社=限定の便宜供与)した情報(夜討ち朝駆けの漏洩情報も含まれる)に依存し、逮捕段階で実名・犯人視報道を繰り広げる。文春はそうした「警察情報依存」報道に加え、警察が捜査に着手していない「事件」も「疑惑」として報じ、「事件化」させる手法を「開発」した。
「ロス疑惑」報道、「大分・聖嶽遺跡捏造疑惑」報道などで駆使されたこの手法は、私に対する「セクハラ疑惑」捏造記事でも全面的に「活用」された。
①私を実名で「告発」した登場人物は全員匿名、記事に書かれた「セクハラ」被害なるものの大半は「伝聞」情報だった。
②それを権威づけるため、大学セクハラ委員会の「申立人」に対する不用意な経過報告を「大学がセクハラを認定した正式文書」であるかのように歪曲・捏造した。
③私に「敵意」を抱く渡辺武達・同大学教授及びその指導・影響下にある大学院生(男女2名)らの一方的な話を鵜呑みにし、裏付け取材もせず、記述。
④アリバイ的に電話・メールで取材を申し込み、私が、それを拒否すると「取材に応じなかった」と、記事で一方的に非難した。
文春の体質はずっと変わっていない。
■悪意ある報道による被害者の声を聞け!
冤罪を作り上げるような報道や犯罪被害者の苦しみをさらに増幅させるような悪意ある報道により、報道される側が、家族、生活を破壊されるという場面を私も数多く目撃してきた。犯罪被害者などはその典型例だが、誰が見てもひどい取材を受けながら泣き寝入りをせざるを得ない状況がある。「報道加害」は突発的に起き、被害は、一時的、局地的で、他の公害と違って横に連帯することが難しい。週刊誌を含むマスコミ業界も一つの権力であり、権力による人権侵害については、厳しく責任を追及する必要がある。「犯罪やスキャンダルに関する報道は、慎重な裏付け取材をしてほしいと改めて強調したい。とにかく真実を報道してほしい」というのが、私が取材した被害者の声でもある。
文春で人生を狂わされた人は多数いるが、文春の「大分・聖嶽遺跡捏造疑惑」記事を苦にして父親が自死した東京都の会社役員、賀川真氏(2021年5月死去)が原告となった「週刊文春」裁判で、2007年7月、京都地方裁判所第6民事部に提出した陳述書から以下、引用する。この記事では、1961年から1962年頃に大分県の聖嶽洞穴遺跡から採取された石器が捏造であり、同遺跡の発掘調査の責任者であった賀川光夫別府大学名誉教授があたかもその捏造に関与した疑いがあるかのように書かれた。
■個人の人格権と表現の自由を調整する仕組みとは2001年に週刊文春によって引き起こされました、いわゆる「聖嶽遺跡捏造疑惑報道」によりまして、私の父であった別府大学名誉教授賀川光夫が甚大な名誉毀損を被り、週刊文春に対する抗議の自死を決行した後に、提起しました「週刊文春聖嶽報道に対する謝罪広告等請求事件」の原告の一人です。
裁判の結論は以下の通りです。
平成15年5月15日に大分地裁で判決がありました。
件名は「大分地方裁判所民事第1部 平成13年(ワ)第610号謝罪広告等請求事件」となります。こちらでは慰謝料総額660万円、及び謝罪広告の掲載が認められた。その後、原告被告双方控訴の結果、平成16年2月26日「福岡高等裁判所 平成15年(ネ)第534号 謝罪広告等請求控訴事件」において、慰謝料が、920万円に増額され、謝罪広告の場所を指定した画期的な判決を戴きました。最終的には被告上告により最高裁に移されましたが、平成16年7月15日「最高裁判所第一小法廷判決 平成16年(オ)第911号 謝罪広告等請求事件」におきまして、上告棄却となり、私たち原告の完全な勝訴として確定しました。2004年9月2日号に待望の謝罪広告が掲載されました。私は、これでやっと闘いが終わったと、ある種清々しい思いと寛恕の念を持ってこの文春を手にしました。ところが、その感情は数秒後には怒りの感情へと変化しました。その号には確かに裁判所が命じた通り、謝罪広告は掲載されていました。しかし、その同じ号で、数ページにわたって、「謝罪広告掲載命令 先進国では日本だけ」なる記事が掲載されておりました。記事の内容は謝罪広告の掲載が如何に不当なものなのかを綴ったものでした。平たく言うと「裁判所に言われたから、しょうがなく謝罪広告を掲載するが、悪かったとは思っていない」と、表明したもので、私たち遺族や関係者の感情に対する配慮などは、かけらもありませんでした。また、このことは、裁判という制度に対するあからさまな対決でもあります。更に、これは、今後もこうした報道を改めることなく、繰り返していくことを宣言したようなものです。
私たち以外の事例を見ても、黒川紀章氏が設計した豊田大橋に関する週刊文春の記事で、「この豊田大橋に関しては、地域住民の罵倒が殺到している」という報道に対する名誉毀損裁判では、「罵倒の対象は橋であって黒川氏個人ではない」と答弁したり、「大阪のある大学の副学長が北朝鮮のスパイである」との報道に対する裁判では、「スパイという表現は多義的な表現だ」との答弁をするなど、常に真摯な応訴態度とは思えない行動を繰り返してきました。このことは、憲法21条で認められた、出版、言論、表現の自由を自ら危うくしている行為だと考えます。日本国憲法は12条において、自由及び権利は国民の不断の努力によって保持しなくてはならないと定めています。これを21条に合わせて考えるならば、報道機関は、自由に報道をする権利を有するとともに、そこで起こった問題に対しては、不断の自浄作用を期待されています。よって、著しい人権侵害である、名誉毀損という不法行為を繰り返す文春は、自らの手で憲法21条を危うくするパラドックスの中に存在していると考えます。
杜撰な報道でこのような事件が繰り返されてはならないとともに、報道事件であるかぎり、先にも述べましたように、かかる事件を繰り返すことは憲法を自ら葬る行為になってしまうと思います。繰り返しになりますが、憲法で定められた権利は国民の不断の努力によって、保持されなくてはなりません。それには報道機関の自浄作用が必要不可欠だと思います。
私が文春裁判で知ったのは、自分の将来のために、男性に頼まれて「セクハラをされた」と平気で嘘をつく女性がいたことだ。三井愛子氏は裁判の証言で、私の弁護団から「どういうセクハラを受けたのか」と聞かれ、「何もされていない」と断言した。裁判官も「あなたは浅野教授から何もされていないのか」と確認の尋問を受けたが、「何もない。渡辺教授に言われて、被害の申し立てをした」と明言した。
三井氏は大学委員会への申し立てでは、私に身体を触られたとか、「君はスナックのママに向いている」「海外での異性との経験を聞かれた」などと訴えていた。
上司の異性に媚びるために〝被害者〞を装う人もいるのだ。男性のためにウソをつく女性もいるし、女性のためにウソをつく男性もいる。
群馬県草津町では、女性町議が男性町長に不同意性交を強要されたと訴えたが、後に、すべて虚言だと分かった。
米欧では教員による学生に対するセクハラは学内で対応しないことになったという。敵対する教職員を追い落とすために、ハラスメント被害を捏造するケースが後を絶たないからだ。セクハラ事案は、刑事事件ではないから、捜査権のない委員会の調査には限界がある。大学はすべて警察・検察、民事訴訟に委ねる原則にした。
大学、企業などでのセクハラ事案には、刑事裁判のような法手続きがない。嘘をついた人間にペナルティがない。三井氏は、大学から何のお咎めもなく、同志社大学社会学部メディア学科の渡辺グループの論功行賞人事によって、ずっと非常勤講師をしている。
三井氏は渡辺教授に取り入るためにウソをついた。今では、「あのオッサン」と渡辺氏を呼んでいるのを聞いたことがある。
今年4月4日、裁判官弾劾裁判所は岡口基一仙台高裁判事を罷免すると判決を言い渡した。岡口氏のSNS投稿やメディア取材での発言が殺人事件遺族らを傷つけたという理由での罷免で、岡口氏の法曹資格が剥奪された。判決の翌日、司法試験受験の伊藤塾の専門講師になった岡口氏は私の取材に、「論理が破綻した判決で不当だが、何かを表現すると傷つく人が必ず出るので、個人の名誉・プライバシーなどの人格権と、表現(報道)の自由をどう調整するかの基準作りの契機にしてほしいと思った。SNSにおけるガイドラインが必要だが、メディアにはそうした議論が全く起きていない」と指摘した。
企業メディアだけでなく、普通の市民がSNSなどで発信して、他人を傷つける時代になった。すべての市民が表現者になったわけで、他人の人権を守って表現することが求められる。もし、表現者の表現で被害者が出た場合に、個人の人格権と表現の自由について、審判する社会的仕組みが必要だ。表現の問題で、権力が介入するのをさけるためにも、社会的な統制、自律的な統制が欠かせない。
世界50数か国で、報道界が取材と報道についての行動指針を自主的に策定し、そのガイドラインを順守しているかどうかの審判を下すメディア責任制度がある。同制度は国によって異なるが、(1)マスメディア界(特に活字媒体)全体で統一した報道倫理綱領を制定し、(2)ジャーナリストや編集者が取材・報道を行う際、その綱領を守っているかどうかを審査する報道評議会(スウェーデンでは報道評議会を補佐するプレスオンブズマンを設置)を設立している--という点では共通している。
報道評議会のメンバーの構成は国によって様々だが、法律家などが市民代表として参加しているところもあれば、メディア関係者だけで運営している国もある。
メディア責任制度は、報道の自由を守り、ジャーナリズムへの市民の信頼を維持、向上させるために、「報道加害」について取り組む。公的情報の自由な流れを促進し、法律や社会権力による取材報道の自由への侵害を阻止する。メディア責任制度を運営する主体はメディア業界自身で、「第三者機関」ではない。
日本にもテレビ、ラジオの放送界には、1996年に設立された「放送倫理・番組向上機構」(BPO)がある。しかし、新聞、雑誌などの活字媒体にはない。1999年末から日本の新聞・通信社が設置した新・苦情対応機関はメディア責任制度とは言えない。メーカーが70年代から設置した消費者相談窓口に過ぎない。
■ジャーナリズムも役割を勉強しなおせ!
ジャーナリズムの語源はラテン語のdiurna(日々の・英語ではdaily)で、日々の記録という意味がある。高橋哲哉東京大学名誉教授(哲学)によると、jourはフランス語で「一日一日」であり、「光」「近代の光」「啓蒙の光」を意味しており、日々の記録だけでなく、未来に光を与えるのが仕事だ。第3代米国大統領トーマス・ジェファーソンが「新聞なしの政府と政府なしの新聞、いずれかを選択しろと問われれば、私は少しも躊躇せずに後者を望むだろう」と述べたように、米国では新聞は民主主義にとって最も重要な機関とされている。
米国大学でのジャーナリズムの講義では、ジャーナリズムの役割を「市民の委託を受けて、権力を監視するのが主な任務である。当局、当局者に対して健全な懐疑的姿勢を常に持つこと。従って報道の自由は極めて政治的な権利と考えられる」「社会の中で起きている森羅万象の出来事から、人民が知るべき情報を取捨選択して取材し、できるだけ客観的に伝える」などと規定。「声なき声の代表となること。自分では社会に訴える手段や能力に欠ける障害者、少数者の声をすくい上げ、探し、伝える」「情報の自由な流れを促進する。しかも倫理的に伝達しなければならない」「一般市民の信頼と尊敬を獲得すること。市民の支持を得て活動すべきで、市民の権利を傷つけたり被害を与えたりしてはいけない」と定めている。[詳しくは浅野編『英雄から爆弾犯にされて』(三一書房、1998年)第9章を参照]。
私は、ジャーナリズムの最も大切な使命は、人民の知る権利にこたえ、人民の権益を擁護し、権力を監視するところにあると考えている。
しかしながら、日本においては、部数を伸ばすためとか、せいぜい好奇心を満たすという情緒的な姿勢が目立ち、情報を自分たちで吟味して、社会の前進のために伝えるジャーナリズムが根付いていない。
そして、表現(報道)の自由と個人(及び団体)の名誉・プライバシーなどの人格権はともに基本的人権なので、いずれも尊重されるべきだが、これを両立するために必要なことは「正確なジャーナリズム」だ。そのために、ジャーナリストは、報道に際しては当事者双方の言い分をよく聞き、間違っていれば、一生償うぐらいの覚悟で客観的証拠を検証して公益的観点から真相を明らかにすべきものだ。
これに対し、事件の一方の当事者の主張のみを報じ、その真実性を吟味することなく、読者の好奇心を満たすような見出しを付して、特定の個人や団体を断罪するようなストーリーを作っていくようなジャーナリズムは、人権侵害を行っているのに過ぎないものであり、その名に値しないものと考えている。
〈『ありがとう、松ちゃん』より構成〉