中居正広とフジテレビの問題は石橋貴明に及び、石橋が出演したバラエティー番組内の芸の批判も活発化した。時が経ち話題性は薄れたが、元芸人の作家、松野大介氏は総括として「マスコミは犯罪性のあることと過去の番組はセパレートしなければフェアじゃない」と警鐘を鳴らす。

加えて「ネットの書き込みの正義感は本物か」とズバリ問う。ネットでのバラエテイー叩きは今後続くのか、その先に何があるのか?





■犯罪性やセクハラパワハラと、芸風や番組内容はセパレートしないと



 先月、某週刊誌から「全盛期のフジテレビについてコメントが欲しい。いや、叩くんじゃなくて」と依頼がきた。叩く気が満々な言い方で、コメントをどう切り取られて使われるかわかったもんじゃないので2つ返事で断ったが、オレのところにも依頼するほどだから各方面に聞き回って叩く材料を探していたようだ。それほど記事で需要があったわけだ。
 石橋貴明さんのバラエテイーでの女性イジリや芸風がネット記事とその書き込みで批判されたが、「犯罪性のあること」と、番組やタレント・芸人の過去の番組内の仕事ぶりをセパレートしないのはフェアじゃない。
 私がこう書いたものが仮にネットニュースで切り取られたら「80年代にデビューした元芸人が石橋を擁護」とか年代のカテゴリーを使った論点ズラシが出そうだから先に言っておくと「犯罪性のある事案」と「仕事場でのセクハラ、パワハラ」の2つを「番組内の芸風」とごちゃ混ぜにしてバッシングする風潮は間違いだし、オレは石橋さんなんかどうだっていいよ。過去に悪いことをしたならバッシングされるのも世の常だ。でもそこにかこつけて過去の番組コンテンツからいくつかピックアップしてその芸人の仕事ぶりを否定するのはフェアじゃないという話。
「石橋は女性アナに飲み会で性的ないやがらせ(犯罪として成立するかは現時点ではわかりませんが)をしたし、仕事場でも態度が悪いような記事があるから、そんな人間性が出ていた芸風や番組と結びつけていいんだ」「セパレートしたらセクハラやフジの問題が矮小化される」という理屈があるかもしれないが、それは逆じゃないかな。犯罪性のあること・セクハラが、芸風や番組内容などと合せ技になったバッシング内容になり、犯罪性が矮小化されることもあるよ。叩く内容が分散するわけだから。


 で、芸風で叩き出したら長く活躍している50代以上の芸人はほとんど「今のコンプライアンスに反するひどい内容」と断罪できることになる。ビッグ3もそうだし、ネット民に好きな人が多くて今現在スターの有吉なんて女性タレントやAKB48の見た目に強烈なツッコミ入れたりして売れたんだろう。バブル期よりはるかに最近の話じゃないか。番組なら「オレたちひょうきん族」はじめ多くのバラエティーがアウト判定しなきゃならない。
 マスコミとネット民が「今のところ」は笑いの神と崇めている志村けんさんは真っ先に批判しないと辻褄が合わないだろ。好みのグラドル(巨乳が多いよね)をキャスティングしてコントの設定で抱きついたり抱っこしたりして、打ち上げ的な飲み会もあるんだから。
 話は少しズレるが志村さんが女と別れる時に数千万円を渡したとか話があるのに、なぜかネット上は「太っ腹」「やさしい」なんて声が多数だ。同じことを別の独身芸人がやれば「女を物として扱っている」「金で買われた女性の人権は?」とか非難されるだろう。まさにバッシングの本質とは「内容ではなく、人を叩く」。生贄というか叩くための餌食が欲しいだけだろう。
 もしかしたらネット民は、一人の元グラドルが「コントの設定で志村さんに抱っこされるのが嫌だった」とマスコミに打ち明けた話が記事になったら急に「昔から不快だった」と書き込み始めるのかね。マスコミの「号令待ち」か? これは犯罪性がある、なしにかかわらず不倫や素行や仕事ぶりでターゲットを決めて叩かせる、マスコミ風に名付けるならマスコミからネット民への「バッシング餌食上納システム」と言える。



■書き込みの正義感は本物か?



 でもオレは、ネットの書き込みはテーマによっては参考になる論旨や知識があるので否定はしない。集団化した批判で政治をいい方向に変える可能性もある。その一方で、集団でのネットリンチになる危険もある。諸刃の剣だ。よくテレビや自身のSNSで「誹謗中傷を書き込むなんて信じられない」と怒るタレントがいるが、匿名で好きに書ける以上はそういう書き込みを内包した装置なわけで、システムやルール(処罰などの法改正含む)を変えない限りはなくならない。だから、その人は悪口を書き込む人を批判しているつもりで本当は匿名で好きに書き込めるシステム自体を批判していることになるのだが、そのことに気づいていない。
 今回の件で言えば「当時から石橋のイジリは不快だった」「見ていて傷ついた」「あの笑いはいじめだ。でも言えない空気だった」とか書き込む人がいる。「こういう番組がなくなり、いい世の中になってほしい」というのも見られる。本当に不快だったのか、本当の正義感なのかは確かめようがない。嘘ばかりだと言いたいわけじゃない。匿名の不特定多数である限り、本物である確率は約1割から9割だし、嘘の確率も同じだ(細かく言うと1~99%)。

どちらもゼロか10割とは言えないから、書き込みの真実性は1から9割まで幅の弾力があり、それは記事により変化する。「世の中(またはテレビ業界)をよくしたい」と考える人も、コンプライアンスを大義名分にタレントをブッ叩いきたい人もそれぞれ1割から9割。ちょっとおもしろがって書き込む人も「いいね! が欲しい」という人も「自分の体験と重ねて書き込みたい」という人も、いろんな思惑が入り組んだ人もいる。



 ここで2つ言いたい。
 オレも80~90年代のバラエティーが嫌だったよ。やりがいのある番組もあったが、乗り物が苦手なのに遊園地のフリーフォールに「1回だけだから」と言いつつ3回連続で(安全ベルトで括られたまま休憩もなく)乗せられたり、アポ無しで民家に押しかけ、貧しくて腹が減っているふりしてご飯を食べさせてもらえとか。オレは笑いに憧れて芸人になったが「これってコメディじゃないだろう」とガッカリして、仕事が嫌になったこともあって90年代半ばに引退した。(その頃の葛藤は私小説「芸人失格」にある)
 ついでに言うと大物タレントやスタッフにゴマすったりの番組の打ち上げや飲み会もイヤで仕方なかったが、すぐに帰ると「仕事なくなるよ」とか今では完全なパワハラを言われてたよ。だから今の時代は良くなっていると思う。
 で、オレは引退して作家に転身後か10年間はバラエティーを一切観なくなった。観たら、体を張った仕事がフラッシュバックして苦しいし、「あの女性タレントは辛いけど、耐えてがんばっているんだな」と観ていてわかるのも苦しいわけよ。
 一人の視聴者としても、グルメ番組でタレントがでかい口を開けて食っている様子は不快だったし、すぐ裸になる芸人とそれを笑う共演者も不快だし、意外と思われそうだがやたらと人を殴るシーンがあるドラマも苦痛だった。

そんな2つの理由から苦しくて、テレビのついているラーメン屋には絶対に入らないようにして、ショッピングモールのテレビ売り場も通らなかった。
 そんなオレがはっきり言うと、「出る側・見る側」の二重の傷や不快感を持つオレでも観ないようにして苦しみを克服していったんだから、「見ていて不快」な人も観ない努力をすれば克服できるんじゃないかな。 今更「当時は不快だった」と言うのは後出しジャンケンでしょう。
 もう1つは、当時に不快に感じた視聴者が多勢なら番組は打ち切られ、出ていた芸人は不人気になり、違う芸風の人が違う企画で始まっているはずだ。
「ひょうきん族」やドリフのコントや夫婦漫才で頭をひっぱたくのが今の時代と合わないし、作り方の基準が変わるのは当然なんだよ。でも今の人間たちが「アウトだ」と判定するのは、その時代に客席やテレビの前で笑っていた人たちも断罪することでしょ。そんな資格ある? 過去の人達がいて自分たちの時代の生活が築かれていったんだから、過去の人達の否定は今の自分を否定してるんだよ。過去を踏まえて未来を創るのが歴史なわけだから。



 ■これで世の中は良くなるか?



 結論を言えば、こんなバッシングで世の中が良くなるわけがない。
 なぜか。本当に世の中を良くしたいと考える1から9割と同じ程度に、叩きたいだけの人がいるから。多かれ少なかれネット上の集団リンチ化するわけで、世の中がよくなるわけないでしょ。

これは悪意を持った書き込みをする人が悪いという単純なことではなく、ネットがそういうシステムだから。
 もちろん間接的にテレビ業界はよくなるでしょう。でもそれは「ネットとか週刊誌がうるさいから、飲み会はよそう。スタッフやタレントが嫌がる仕事は無理強いさせないようにしよう」という理由も多い。つまり意識が大して変わってない場合がある。でもそんな声を嗅ぎつけるとマスコミやネット民が「ネットがうるさいから・・・という昭和的な意識の低さ」とか批判しそうだが、もともと「叩きたい」だけの書き込みが多いテーマ(記事)ほどネットの意識が低いんだから、受け手側(当事者)の意識が低くなるのも当然だろう。1割から9割のどの程度かはわからなくても、その割合をちゃんと反映するんだと思うよ。つまり、特定の誰かを貶めたり批判したいだけの人が多い問題(テーマ)は、変わらないんだよ。
 21年、安倍総理が逮捕を免れるためなのか検察のトップの定年を延長しようとした時にネットが大反対のうねりを見せたでしょ。オレは「書き込みも捨てたもんじゃないな」と期待を持ったが、あれもやっぱり安倍総理という個人叩きであり、幻想なんだね。それもあって自民党は変わらないし、閣僚の顔ぶれは選んだ国民の民度(ネット民度含む)を反映している。
 この先、何かのきっかけで芸人がまた過去の芸風や態度で叩かれ、やがて女芸人にも及び、デリケートな女芸人が「誰かを傷つけるつもりはまったくなかったんですが、過去に私の発言で傷ついた方がおられたことに申し訳なく思います。
ごめんなさい」と遺書を残すような事態になっても、誰も責任を取らない。それがネットというもので、そこに寄生して商売しているのがマスコミ。しかし80年代に女子アナのパンチラとか胸元ポロリの写真を平気で載せていた雑誌が「コンプライアンス」とかよく言うよね。



■広告争奪戦という視点



 最後に違う視点で見てみる。フジからスポンサーが撤退した際、オレは「これだけ一斉に降りるのは、前からテレビから手を引くきっかけを狙っていたんじゃないか」と考え、知人の業界人に伝えると「確かにそれもあるかも」という答えも多かった。(真相やいかに)
 年々ネットに広告が移動するご時世で、今回が一気に加速するきっかけになったなら、ネット、YouTube側のテレビ潰し、広告の奪い合いという図式にも取れる。
 テレビはさらに金がなくなり今まで以上に歌謡曲など昭和の懐かし映像で番組編成して、一方、広告費が増えているはずのネットやユーチューバー界隈はオリジナル作品を作る才のない人材が昭和のテレビを「コンプライアンス違反だ」と批判ネタを続けたら、オールドメディアもソーシャルメディアも昭和頼みがしばらく続くのかもしれないね。





文:松野大介

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