子供の頃から雑誌が好きで、編集者・ライターとして数々の雑誌の現場を見てきた新保信長さんが、昭和~平成のさまざまな雑誌について、個人的体験と時代の変遷を絡めて綴る連載エッセイ。一世を風靡した名雑誌から、「こんな雑誌があったのか!?」というユニーク雑誌まで、雑誌というメディアの面白さをたっぷりお届け!「体験的雑誌クロニクル」【12冊目】「角川映画と薬師丸ひろ子と『バラエティ』」をどうぞ。





【12冊目】角川映画と薬師丸ひろ子と『バラエティ』

 



 いわゆるアイドルにハマった経験は、ほとんどない。子供の頃はフィンガー5とか麻丘めぐみとか好きだったし山口百恵にはグッときたけど、レコードやグッズを買ったことはない。そんなものを買えるほどの小遣いもなかった。



 モントリオール五輪の体操で10点を連発した“ルーマニアの妖精”ナディア・コマネチは、この世のものと思えぬ可憐さだったが、あまりにも別世界。ニューミュージック隆盛期の久保田早紀(現・久米小百合)や越美晴(現・コシミハル)はかなり好きでレコードも買ったが、アイドルとは違う。もちろん最近のアイドルなど、まるで知らない。



 そんな私が、唯一ちょっとだけハマったのが薬師丸ひろ子である。今や海千山千の貫禄すら漂う大女優だが、デビュー時は神秘的美少女のイメージだった。1978年10月公開の角川映画第3弾『野性の証明』(原作:森村誠一、監督:佐藤純彌)でデビューした薬師丸は、印象的な瞳と演技で注目を浴びる。しかもテレビにはあまり出ない“映画女優”的な売り出し方により特別感を醸し出す。いかにもアイドル的な芸名をつけるのではなく「薬師丸」という珍しい本名をそのまま使ったことも当時としては斬新だった。



 79年は高校受験もあって映画出演は『戦国自衛隊』のちょい役だけだったが、晴れて高校生となった80年、相米慎二監督の『翔んだカップル』で初主演。

翌81年公開の『ねらわれた学園』(原作:眉村卓、監督:大林宣彦)でも主演を務め、同年再び相米監督と組んだ『セーラー服と機関銃』(原作:赤川次郎)での体当たり演技が大きな話題となり、映画自体も大ヒット。セーラー服姿で機関銃を乱射するクライマックスでの決めゼリフ「カ・イ・カ・ン」は流行語となり、自ら歌った主題歌はオリコンチャート1位を獲得する。



 一種の社会現象にもなった薬師丸ひろ子のオーラに、私もやられてしまった。今思えばルックス的には正直そんなに好きなタイプではないのだが、当時は何らかの魔法にかかっていたようだ。『野性の証明』で初めて見たときのインパクトが強かったし、同い年の親近感もあったかもしれない。『セーラー服と機関銃』が大ヒットした際にはレコードも買ったし、うっかり写真集まで買ってしまった。



 とはいえ、テレビでの露出は限られていたので、主な情報源は雑誌である。なかでも、薬師丸ひろ子情報が圧倒的に充実していたのが『バラエティ』(角川書店)だった。もちろん『週刊明星』『週刊プレイボーイ』(ともに集英社)、『平凡パンチ』(平凡出版/のちにマガジンハウス)などのグラビア記事にもたまに出てはいたものの、『バラエティ』は別格だ。78年5月号の初登場(当初は薬師丸博子の表記)から大プッシュ。受験のため仕事をセーブしていた79年も『バラエティ』には「14歳のメモワール」と題したグラビア連載があり、毎号のように綴じ込みポスターが付いていた。







 それもそのはず、『バラエティ』は角川春樹の肝煎りで創刊された雑誌であり、薬師丸ひろ子は春樹自身が応募写真をひと目見た瞬間に「この子だ!」と惚れ込み、「将来のスター」をつくるため半ば強引に『野性の証明』のヒロインに抜擢したのだ。

そのへんの経緯は拙著『1979年の奇跡』(文春新書)でも触れたが、そりゃ誌面での扱いも大きいわけである。



 



 春樹の期待どおり、薬師丸ひろ子は角川映画のドル箱女優として83年『探偵物語』(原作:赤川次郎、監督:根岸吉太郎)、『里見八犬伝』(原作:鎌田敏夫、監督:深作欣二)、84年『メイン・テーマ』(原作:片岡義男、監督:森田芳光)、『Wの悲劇』(原作:夏木静子、監督:澤井信一郎)と立て続けに主演。新進女優役を演じた『Wの悲劇』では第9回日本アカデミー賞優秀主演女優賞、第27回ブルーリボン賞主演女優賞など多くの賞を受賞した。



 その薬師丸に、82年の「角川・東映大型女優一般募集」オーディションでグランプリを獲得した渡辺典子、特別賞の原田知世を加えた“角川三人娘”が、『バラエティ』の表紙やグラビアを飾る。渡辺典子、原田知世も他のメディアにはあまり出なかったので、この3人のファンにとって同誌は聖典のようなものだった。特に長女格の薬師丸ひろ子は出ずっぱりで、『バラエティ』=薬師丸ひろ子と言っても過言ではない(いや、『バラエティ』=原田知世だ、という派閥もあるとは思うけど)。



 しかし、『バラエティ』は単なるアイドル雑誌ではなかった。1977年10月創刊号の表紙には「新しいイベント・マガジン誕生!」とのキャッチコピーがある。誌面には公開間近の自社作品『人間の証明』の情報、同じく公開直前の『世界が燃えつきる日』、翌年公開の『スター・ウォーズ』といった海外SF大作の解説のほか、ロードショーや名画座、各種コンサート、演劇、美術展などのスケジュール、FMラジオの注目音楽番組ガイドまで掲載しており、当時全盛のイベント情報誌としてのスタートだったのだ。



 それは、五木寛之との巻頭対談における角川春樹の言葉にも表れている。



〈(『バラエティ』は)映画が中心ですけども、映画雑誌ではなく、文芸雑誌でもない。ニュー・マガジンとしか言いようがないんですけどね。

「ぴあ」とか「プレイガイド・ジャーナル」とか、情報誌の要素も盛りこんでしまう。情報の震源地が自らつくる映画+αの情報誌、鮮度も感度も十分です〉



 自社の映画の情報発信、つまり宣伝がメインと自分で言ってしまってるのがすごい。というか、社長自らが新雑誌の巻頭で作家と対談するというのも、さすが春樹というしかない。宣伝を主目的とした媒体であるからして、ボリュームの割に価格は安く190円だった(その後、250円、330円、390円と徐々に値上がり)。







 



 実際、角川映画の記事に多くの誌面が割かれていたが、それは読者にとって必ずしも悪い話ではなかった。角川映画は、旧来の暗くて重苦しい日本映画の世界に、新風を吹き込んだ。今と違って興行収入上位を洋画が占めていた時代に、メディアミックスでヒット作を連発。前出の薬師丸ひろ子主演作のほか、『蒲田行進曲』(原作:つかこうへい、監督:深作欣二)、『時をかける少女』(原作:筒井康隆、監督:大林宣彦)、『麻雀放浪記』(原作:阿佐田哲也、監督:和田誠)など、映画史に残る名作も生まれた。そうした映画の情報をいち早く、たっぷり得られるのが『バラエティ』だったのだ。



 もちろん角川以外の映画や音楽関連の記事も多かったし、インタビューや対談も豪華である。松田優作、水谷豊、細野晴臣、沢田研二、萩原健一、竹内まりや、松任谷由実、鈴木慶一、矢野顕子、桑田佳祐、荻野目慶子、真田広之、松坂慶子……と、名前を挙げればキリがない。



 もっとも、こうした芸能関係の人気者が雑誌に登場するのは、ある意味、当たり前だ。

それはそれでうれしいが、ほかの雑誌でも見ることはできる。私が『バラエティ』を買っていた大きな理由は(薬師丸ひろ子を別にすれば)、むしろ連載のほうにあった。





 まずは何といっても、『饅頭こわい』を挙げねばなるまい。かの大友克洋が、いろんなマンガをネタに解説というかパロディというか、遊びまくった伝説の怪作だ。つげ義春や松本零士、諸星大二郎といった、いかにも大友克洋が好きそうな作家の作品だけでなく、『ダッシュ勝平』(六田登)、『男大空』(原作:雁屋哲、作画:池上遼一)なんかも取り上げている。



 吾妻ひでおと新井素子による『ひでおと素子の愛の交換日記』も毎号楽しみだった。吾妻ひでおのマンガ(イラスト)と新井素子のエッセイが絶妙のハーモニーを奏でる。絵と文のコンビ芸としては最上級の部類ではないか。







 絵と文といえば、呉智英の書評に高野文子や江口寿史がイラストを付ける「本の料理術」もシブい。南伸坊、鏡明、関三喜夫の3人にゲストを加えて、ひとつのテーマについて語り合う「シンボーズオフィスへようこそ」は、座談内容もさることながら、南伸坊のイラストがよかった。久住昌之が絵と文を担当する「人生読本」なる連載もあった。



 さらに、いしいひさいち『元気なき戦い』(原作:みねぜっと)、ささやななえ『井草絵日記』、寺島令子『がさつの日々』などのマンガ連載も見逃せない。

高野文子、吉田秋生、さべあのま、泉昌之らの作品もたまに載った。このへんは、『ひでおと素子の愛の交換日記』にも登場する編集者・秋山協一郎の手になるものだろう(秋山氏は高野文子の夫であり、大友克洋の初期単行本『GOOD WEATHER』なども手がけている)。



「インディペンデント教養講座」と題された連載では、「男の子が女の子のためにつくる料理入門」「俳優入門」「映画監督入門」「モデルガン入門」「似顔絵入門」「東京入門」「コメディアン入門」といった講座が並ぶ。講師陣も豪華で、「似顔絵入門」は南伸坊、「東京入門」は橋本治、「コメディアン入門」は内藤陳という顔ぶれ。特集記事「金使い名人のススメ」(82年12月号)には赤瀬川原平が登場し、美学校の考現学の宿題「1円玉で正しく買える物」を誌上で講評する。



 あくまでも角川映画の情報メインでありながら、その誌面は文字どおりバラエティに富んでいた。執筆陣を見れば、ニューウェーブ(当時マンガ界に沸き起こっていたムーブメント)とサブカルチャーの巣窟と言ってもいい。



 82年5月号「月刊マンガタイムス」のコーナーでは大友克洋が『アニメージュ』で連載が始まったばかりの宮崎駿『風の谷のナウシカ』について語り、同年12月号「立ち読み雑誌コーナー」では久住昌之が、ほかでもない『バラエティ』について綴っている。



〈この雑誌《バラエティ》(角川書店・390円)は「角川映画」と「薬師丸ひろ子」の雑誌だと思っていました。そしたら、意外にも、もっと幕の内弁当的で、他にも色々変わった連載や特集がひしめいているんです。/いや、その二本柱が絶対に強力だから、あとは何を入れたって《バラエティ》の形にゃなる、という強みは確かにあるんでしょうが〉



 自分も連載している雑誌をこんなふうに書くのは自虐か自賛かわからないが、それは「エロさえあれば、あとは何をやってもいい」という、かつてのエロ劇画誌や日活ロマンポルノと似た構造だ。『バラエティ』の場合も、その混沌とした誌面から放たれる熱が読者を煽り、時代の波にも乗っていた。



 しかし、その熱はやがて冷める。1985年に薬師丸ひろ子が角川春樹事務所を離れたのをきっかけとして、角川映画も勢いを失う。「二本柱」の一本を失い、もう一本もぐらつき始めた『バラエティ』は、1986年6月号にて休刊。最終号の表紙は原田知世だったが、知世もまたその年限りで角川春樹事務所から独立した。その後、1993年には春樹自身が角川書店を追われることになる。



 結局、『バラエティ』の刊行期間は10年に満たなかった。1~2年でつぶれてしまう雑誌も多いなか、決して短命とは言えないが、時代の徒花という感じはする。その花には、見た目の華やかさと裏腹に、ちょっとしたトゲもあったのだ(“バラ”エティだけに)。



 



 文:新保信長

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