子供の頃から雑誌が好きで、編集者・ライターとして数々の雑誌の現場を見てきた新保信長さんが、昭和~平成のさまざまな雑誌について、個人的体験と時代の変遷を絡めて綴る連載エッセイ。一世を風靡した名雑誌から、「こんな雑誌があったのか!?」というユニーク雑誌まで、雑誌というメディアの面白さをたっぷりお届け!「体験的雑誌クロニクル」【17冊目】「『マルコポーロ』の旅路の果て」をどうぞ。
【17冊目】『マルコポーロ』の旅路の果て
まずは『DAYS JAPAN』の話から始めよう。講談社より1988年に創刊されたジャーナリスティックなビジュアル総合月刊誌。広瀬隆と広河隆一による「四番目の恐怖」で原発と放射能汚染の問題を追及するほか、フロンガスによるオゾン層破壊、薬害エイズ訴訟などの社会問題に斬り込む。政治・経済ネタはもちろん、海外要人へのインタビューや秘境ルポなどグローバルな記事もあり。89年10月号では幼女連続殺害事件の宮崎勤被告がパズル雑誌の常連投稿者だったという「新事実」をスクープしたりもした。
従来にない骨太な雑誌として注目され、一定の評価を得ていたように思う。ところが、1989年11月号の文化人の講演に関する特集で、アグネス・チャンの事務所から「重大な事実誤認」を指摘され、12月号に見開き全面を使った土屋右二編集長名の謝罪と訂正が掲載される事態に。それを受けて、「読者の信頼回復は難しい」との取締役会の判断により、1990年1月号をもっての廃刊が決定された。
それから約1年半後の1991年5月、「映像時代の国際マガジン」と銘打って登場したのが『マルコポーロ』である。文藝春秋の創立70周年記念企画として、熟年向け雑誌『ノーサイド』、エンタメ情報誌『サンタクロース』と立て続け(というかほぼ同時)に、鳴り物入りで創刊された。
〈「マルコポーロ」は、時代の変化をリアルにキャッチ。未来へのキーを発見する、ヴィジュアル月刊誌です。
新年早々に打たれた創刊予告には、そんな熱いメッセージが躍っていた。判型こそ『DAYS JAPAN』より一回り小さいが、コンセプトとしては同じ路線を狙ったものと考えていいだろう。創刊号(1991年6月号)の特集は「勝者と敗者 アメリカの二つの顔」。表紙は当時のブッシュ大統領が苦虫を噛み潰したような顔のイラストで、「湾岸戦争を見つめたベトナムの『勇者』たち」「コメ戦争 影の演出者スティーブン・ギャバートという男」「WASP的価値観の復活-ブッシュを知るための6つのキーワード」といった記事が並ぶ。

「スクープ!」として「東條英機の『育児日記』を見つけた!」という記事もあれば、アフリカ大陸の大自然の驚異を捉えたビジュアル企画もある。硬派な企画ばかりではなく、連載陣は弘兼憲史と柴門ふみの夫婦対談、泉麻人、綱島理友のルポものなど、やわらかめ。グルメや旅、映画評や書評コーナーももちろんある。
雑誌としてそれなりにまとまってはいたと思う。が、個人的には今ひとつ垢抜けない印象があり、創刊号だけ買って以降はスルーしていた。
判型もタイトルロゴもデザインも変更し、表紙に「マルコは変わります。」と大きく謳う。キャッチフレーズは「ニューエイジ文藝春秋」とした。〈“団塊の世代”よりいい奴。“新人類”よりちゃんとしている。「仕事だけの人生なんてイヤだ」といいながら、ハードに働いている30代のビジネス・ピープル。マルコはあなたたちに味方します。〉と宣言し、読者対象をはっきり30代の会社員に絞り込んだのだ。
メイン特集は「サーティーズは、『多数決がキライだ。
この編集長交代に伴い、スタッフも大幅入れ替えとなった。そこで新たに編集部に加わったうちの一人が、勝谷誠彦氏だった。花田紀凱編集長時代の『週刊文春』でカメラマンの「不肖・宮嶋」こと宮嶋茂樹氏とのコンビで名を馳せたのをご記憶の方も多いだろう。
実は勝谷氏は中学・高校の先輩で、私が中1のときの高2だった。中高時代の4年の差は大きく部活でのからみもなかったので、在学中に話をしたことはない。初めて面と向かって話したのは、私が会社を辞めてフリーになった年の暮れ。
その数カ月後、『マルコポーロ』編集部に異動になった勝谷氏に声をかけられ、同誌の仕事をすることになる。最初はライターとして、特集「怖いもの見たさ決定版! ナルホド[秘境]コマッタ[聖域]」(1993年1月号)の中で、救命救急センターのリポートを書いた。緊迫した命の最前線で、邪魔にならないよう気をつけつつも、救急隊員の状況報告や医師と看護師の会話に耳をそばだてる。この機会に読み返してみたが、手前味噌ながら臨場感ある記事だと思う。
1993年5月号からは、契約スタッフとして編集部にデスクをもらい、企画会議にも参加するようになった。その号の特集が「進め!マンガ青年!」(表紙は江口寿史)で、目玉記事は500人アンケートによる「青年マンガ・ベスト50」の1位を獲得した『ナニワ金融道』作者・青木雄二のインタビュー。おそらくこれが初のメディア登場だ。
私が担当したのは、当時の有害コミック騒動をおちょくった企画。「こんなにエッチでケシカラン! 有害コミック[実用]ガイド」と題して、有害指定されたものの中から選りすぐりの作品をまじめにレビュー。「ちょっとアブない[有害4コマ]競作集」では、いしかわじゅん、山科けいすけ、唐沢なをき、いしいひさいち、西原理恵子、ひさうちみちお、よしもとよしとも、永野のりこの8人に、あえて「有害」な4コマを描き下ろしてもらった。

6月号は「やっぱし、TVが大好き。」。人気絶頂だった『進め!電波少年』の司会の二人、松村邦洋と松本明子が表紙を飾る。その舞台裏に何があったかは、特集冒頭のカーツ佐藤の「[進め!電波少年]にアポなし取材を敢行する」に詳しい。この取材後、電波少年側が逆に『マルコポーロ』編集部にアポなし取材に来るという顚末には笑った(実際にオンエアされた)。テレビも雑誌も元気だった時代ならではのグルーヴ感あふれる記事である。
同特集では、タレント学者などを辛口評論した「テレビ界[なんかヘン]な人物事典」、視聴者センターへの苦情電話について取材した「視聴者は[神サマ]か?」、根本敬×とり・みき対談「テレビの無法地帯[政見放送]の密かな愉しみ」を担当した。
文藝春秋で仕事をするようになって驚いたのは、予算の潤沢さだ。社員編集者時代、爪に火を点すようにしてやりくりしていた身からすると、「え、そんなにお金かけていいんスか!?」とビビる場面が多々あった。特集「連合赤軍なんて、知らないよ。」(1993年7月号)では、呉智英×大月隆寛×福田和也の鼎談の構成を担当したのだが、そこに速記者がついた。後にも先にも速記者のついた取材はそれだけだ。
拙著『食堂生まれ、外食育ち』にも書いたけれど、校了時期に編集部にいると取ってくれる弁当もすごかった。「え、料亭の仕出しですか?」と思うほど豪華なもので、「これ、本当にお金払わずに食べちゃっていいんですか?」と心配になったほどである。
特集テーマとしては、前述のマンガ、テレビのほか、「あやしい、女子高生。」(1993年8月号)、「読書狂い。」(12月号)、「食の奥の手」(1994年1月号)など身近なものだけでなく、「怪しい中国、成金ワンダーゾーン。」(1993年11月号)、「イザ、往カン、マボロシノ[満州]へ。」(1994年2月号)といった少々距離を感じるものもあった。出入りの業者としては決まったテーマの中で企画を出すだけだが、正直「これは売れるのだろうか」という懸念がなきにしもあらず。1994年3月号で「エロスはヘアに宿るにあらず! アンチ・ヘア」と題してエロ特集をやったときには危険な兆候を感じたりもした。
果たして、1994年5・6月合併号を最後に編集長交代とリニューアルが決定する。新たに編集長に就任したのは、前『週刊文春』編集長・花田紀凱氏であった。編集スタッフも半分くらい入れ替わり、私の業務委託契約も担当連載もそこで終わった。
新装刊の『マルコポーロ』7月号は、表紙イメージも一新。タイトル以外に見出しなどの文字はなく、内田有紀がカバーガールを務める。いわゆる「特集」はナシ。もくじで一番大きい扱いは「検事総長、吉永祐介独占インタヴュー。」で、ほかにも「独占スクープ 北朝鮮=ロシア「核」秘密協定をスッパ抜く。」「政界激震スクープ 内藤前通産省局長はなぜ証言をやめたか。」「美容師バラバラ殺人をめぐる『奇っ怪な噂』。」といった見出しが並ぶ。特集主義からスクープ主義への転換は明らかだ。

一方で、文化欄や連載などの読み物ページは拡充。「私の読書日記」「マイ・ベスト・ミステリー」「これが大好物」など、毎回いろんな人が登場するコーナーのほか、小山薫堂、大竹まこと、伴田良輔、高橋春男、みうらじゅん、西原理恵子らの新連載もスタートする。スクープ記事と連載で客を呼ぶというのは、つまりビジュアル版『週刊文春』だ。
契約終了した私も、そのままサヨナラではなく、文化欄で「編集部美女図鑑」「名物コラムの研究」「今月の廃刊録」という小さなコーナーの取材・執筆を担当することになった。「編集部美女図鑑」は毎回美女に会えてよかったが、問題は「名物コラムの研究」である。初回こそ自分が好きだった『ぴあ』連載の大川豊「金なら返せん!」を取り上げたものの、以後は花田氏セレクトの古色蒼然としたコラムについて書かされることが多かった。それでも担当編集者へのコメント取材も込みだったので、いろんな編集部とつながりができるのはありがたく、原稿料も悪くなかった気がする。
しかし、1995年2月号をもって、同誌は強制終了となる。ある年齢以上の方ならご存じのとおり、その号に掲載された「ナチ『ガス室』はなかった。」の記事にユダヤ人団体が反発(当たり前だ)。文藝春秋の雑誌に広告を掲載する企業に出広停止を求めたほか、日本政府にも公式の非難を求めた。この要請を受けて、多くの企業が広告出稿を停止。文藝春秋は同誌の廃刊と当該号の回収、花田編集長の解任を決めた。
実はこの号の表紙には問題の記事の見出しはなく、もくじでの扱いも小さい。あまり大々的にやるとマズいという自覚はあったのだろう。一番目立つ見出しは「総力特集 このまま野放しでいいのか。外人犯罪白書。」であるが、これはこれで今の排外主義を先取りしたかのよう。この一件で文春を退社した花田氏が、いくつかの雑誌を経て『WiLL』『月刊Hanada』へと至ったのもむべなるかな、と思ってしまう。

ちなみに『マルコポーロ』が創刊された1991年には、同じく国際ビジュアルニュース誌として6月に『Bart』(集英社)、11月に『VIEWS』(講談社)が創刊されている。どちらも創刊当初は『マルコポーロ』同様のイラスト表紙(創刊号は『Bart』がゴルバチョフ、『VIEWS』がエリツィン)で、その後ビジネスマン向けの情報誌にリニューアルした点も共通だ。
また、91年6月には飲食文化情報誌だった『バッカス』(TBSブリタニカ)が、やはり男性向けビジュアル誌としてリニューアル。その編集長が、元『DAYS JAPAN』の土屋右二氏で、新装刊の抱負として「いわば『ヤング・デイズ・ジャパン』みたいな形の雑誌を作りたい」(『SPY』1991年8月号)と語っている。ここで冒頭とつながるわけだ。
『DAYS JAPAN』の志を継いだかのような『マルコポーロ』が、最終的に同じく記事のトラブルで廃刊となったのには因縁を感じる。新生『バッカス』も1年持たず1992年2月号で休刊。『VIES』と『Bart』も、それぞれ1997年、1998年に休刊となった。『DAYS JAPAN』の関係者が2004年に同名のフォトジャーナリズム誌を創刊したが、それも発行人だった広河隆一氏の性加害問題がらみで休刊。ビジュアルニュース誌というジャンル自体が、何かの呪いにかかっているのかもしれない。
文:新保信長