「まさかオレが!? 脳梗塞に!」ある日突然人生が一変。衝撃の事態に見舞われ仕事現場も大混乱!現役出版局長が綴った「半身不随から社会復帰するまでのリアル奮闘日記」。

連載配信前から出版界ですでに話題に!



誰もが発症の可能性がである「脳卒中」。実際に経験したものでないと分からない〝過酷な現実と絶望〟。将来の不安を抱えながらも、立ち直るべくスタートした地獄のリハビリ生活を、持ち前の陽気さと前向きな性格でもって日々実直に書き留めていったのが、このユーモラスな実録体験記である!



リハビリで復活するまでの様子だけでなく、共に過ごしたセラピストや介護士たちとの交流、社会が抱える医療制度の問題、著者自身の生い立ちや仕事への関わり方まで。 克明に記された出来事の数々は、もしやそれって「明日は我が身!?」との声も!?  笑いあり涙ありの怒涛のリハビリ日記を連載で公開していく。



第1回は「脳梗塞になっちゃいました!」



50代働き盛りのオッサンは必読! 出版局長~~!明日はどっちだ!?



【新連載】脳梗塞で半身不随になった出版局長の「 社会復帰まで...の画像はこちら >>



第1回   脳梗塞になっちゃいました! 



◆前触れはこうして始まっていた・・・



◾️2025年1月1日水曜日

元日は紀伊國屋書店新宿本店へ年始の挨拶。
今年は高井(昌史)会長が9階に出来た新しいオフィスでお出迎え。
挨拶に訪れる版元各社や取次で、例年以上に訪れる関係者が多かった。
私は10年来の元日の訪問だから、並ぶことなく高井会長へご挨拶ができた。
藤則(幸男)社長や大野(繁治)副社長もおられ、年始の一番早いご挨拶は好印象だ。
ご挨拶を済ませたら、星(真一)新宿本店店長始め元日に出勤されている担当者さんたちへ年賀のお菓子を配る。10年続いている私の仕事始めなのだ。





◾️1月3日金曜日~

今年は会社の仕事始めが4日でなく6日。


まだまだ休みが続くと思いながら晩御飯を終えて風呂に入ると、なぜか動悸がして不安な気持ちに。
寝れば落ち着くかと思ったが、ますます酷くなるばかり。
あとで知ったが俗にいうヒートショック。
血圧爆上がりで呼吸困難になってしまい、救急車で運ばれたのだ。
病院で酸素を鼻から入れられ、点滴をして血圧は安定。
身体のどこも痛くないのに、そこから8日まで病院のベッドで寝て過ごす。



追記)この入院騒動が2025年の波乱の幕開けであったとは!



◾️6月8日日曜日

普段の平日と同じ5時に起床。
洗面所で歯磨きをすると、なんだか手に力が入らない。
頭の片隅で、なんかヤバイ?と思うが、日曜日に済ませることが気になりそのままに。



追記)これが長いリハビリ生活の前兆だった。



シャワーでスッキリしてから、朝食を作ってのんびりと食べる。
昨夜から帰宅している三男は爆睡中。


起こさずに9時から営業しているスーパーへ。
なんだか車の運転が下手になっているが安全運転で目的地へ。
それでも普段と違う感覚に早めに帰宅。
三男はまだ寝ている。
私も朝からアクビが止まらないので、横になって一眠り。
昼過ぎに起きて遅いランチ。
その前に三男から書類に署名を頼まれ書こうとするが、なぜかペンを握ってもまともに字が書けない。
痺れはないが、念のために明日は病院に行ってから会社へと思い社長へ連絡をすることに。
寝坊助の三男と妻と義母の4人でランチを済ませ、そろそろ帰るという三男を駅まで車で送っていく。
駅からの帰りの運転が午前中よりも下手だ!
いつもよりも慎重に車庫に入れ、ドアをロックしたら、当分運転したくない気分。



今日は安田記念。
のんびりとテレビ観戦。


なんと!
単複買ったガイアフォースが二着に来て、馬連ワイド一点買いに、二頭軸5頭流しの三連単三連複も当たり!
惜しくも単勝だけハズレたが、あとは総取り!
2500円の投資で11万円以上の払い戻し。
3月のチューリップ賞は単複馬連ワイド三連単三連複完全的中の3000円が約25万円になったのには及ばないが、それに次ぐ配当金。



追記)そしてこの11万円が、これから始まるリハビリ生活での貴重な馬券の軍資金となったのである。



競馬で大儲けもしたことだし、まずは社長へ電話。
簡単に手がこんな感じですと伝えると、温厚な社長が「いますぐ救急車を呼びなさい!」と声を荒げ、その勢いにただならぬものを感じて119番に。
身体の状態や心臓で正月に入院したことを伝え、着替えて待つと、近所に消防署があることもあってか、早々に救急車が到着。
正月に心臓で入院した病院へ行くと、自ら歩いて診察台に。
自分で着替えて、医師の指示どおり手をグッパッしたり指を折り曲げたり。
その後にMRIやCTで検査され医師から告げられたのは、
「脳梗塞です。まずは二週間ほど入院してもらいます」
とのこと。
身体は動くし、なんなら手も足もスムーズに動かせる。
なんだか実感がわかないまま病室に連れていかれた。


すでに脳梗塞の後遺症なのか、心は不安や恐怖を感じることなく、ただトホホとなっただけであった。
ベッドに寝かされHCU(緊急)の病室へ運ばれ、点滴を3つつけられ、そのまま睡魔に勝てず爆睡。
朝、目覚めると身体の右半身がまったく動かない。
言葉もうまく出てこなくなっている。
けれど頭の中は、意識はしっかりとしている。
身体の左側以外はピクとも反応しないことで、本当に脳梗塞になっている!
不思議と冷静に考えている自分に気づく。



【新連載】脳梗塞で半身不随になった出版局長の「 社会復帰までの陽気なリハビリ日記」163日間【真柄弘継】第1回
リハビリテーション病院の看護師さんが作ってくれたオリジナル折り紙作品



◆我慢できずにパンツを濡らしてしまった…



◾️6月9日月曜日~24日火曜日午前



朝、目が覚めて身体が動かないと人は何を考えるのだろう?
私は意識だけは人生これまで経験したことがないくらいクリアだ。
これが脳梗塞の半身不随か、なんて呑気に考えていた。
脳梗塞だと告げられたのに、一度も怖いとか不安な感情は湧いてこない。
ただ、自らの不摂生を反省するばかりである。
それでも現実は厳しい。
朝食を出されても食欲はなく、一口味噌汁を口にしただけ。


昼ご飯も同様で、心配した看護師さんがフルーツをつけてくれ、そのフルーツだけ口にしていた。
腹に何も入っていないからか、便意は感じないが尿意はある。
ナースコールで看護師さんを呼び、車椅子に抱き抱えられるように移される。
もちろん自分も左手や左足を使って車椅子に乗り換えてた。
トイレに行くと、スボンを看護師さんに下ろしてもらい小用を足す。
トイレは二回目にいったとき、我慢できずにパンツを濡らしてしまった。
看護師さんから、
「トレーニングパンツを履きます?」
と言われ黙り込んでしまった。
「早めに早めに呼んでくれればいいですよ」
と優しく言われ、以降一度も粗相はしていない。
翌日、ナースコールしたら違う看護師さんが尿瓶使いますかと言ったけど、トイレで済ます。
安易な方法は絶対に選択しないと思っている。
身体障害者となり不自由な身体で生きていくのに誰も手助けはしてくれない。
どんなに大変でも自分でするしかない。

この思いがあるからだ。
食事も左手が器用に箸を使え、左足も器用に動く。
今は右側は眠ってるだけ、起きたらきっと元通りになるはずだという気持ちがある。



リハビリは身体が動かなくなったその日から始まった。
頭(言語聴覚)、手&腕(作業)、脚(理学)をそれぞれ20分から30分行った。
ただ他の何か、例えば検査など入るとリハビリはなくなってしまう。
毎日三度必ずリハビリがあることはなかった。
この病院では新しくリハビリテーション科を新設したそうだ。
それでなのかセラピストさんたちはキャリア3年以内の若者ばかり。
私の頭と脚の担当になった方は二年目、手は新卒という布陣。
彼らとはプライベートなことを話しつつリハビリを行った。
脳梗塞の大変さを忘れる楽しい時間だった。
手の担当Hさんは福島の出身。
10年位経験を積んだら、地元に帰って訪問リハビリをしたいと目標を持った好青年。



追記)余談だが、リハビリテーション病院へ転院してから1ヵ月半後。
脳梗塞前に元々予約していた循環器科の検査に訪れたとき、待合室で偶然Hさんと会えた。
動かなかった腕もこんなに動きますと報告。
とても嬉しそうな笑顔が印象的だった。



脚の担当Kさんはキャリア二年目のやっぱり好青年。
私が会合(飲み会)の幹事をよくすると話すと、
「同期会の幹事を引き受けたが店を取ってない」と言いだした。
日にちが明後日と迫っており、尚且つ人数が20人程いる規模。
早く店だけでも確保しないととアドバイス。
会費や仕切りについて簡単に助言して感謝される。
Kさんとのリハビリで歩く練習は一番楽しく、そのお陰か食欲も出た。
三日目のお昼ごはんからは残すことなく完食。
身体に必要な栄養分が摂れるようになったのである。
脚のリハビリで長い装具を着け、後ろから支えられながら歩く。
病院の廊下を往復することも出来るようになった。
確実に動くようになってる実感が沸き上がってきた。
手は握りしめてグーのまま。
5回目の手のリハビリの時にほんの微かだが、中指がピクッと動いた!
セラピストさんが動きましたねと喜んでくれて、あっ、ホントに動くんだ!
私は感動に包まれたのである。
手を握り締めることは出来るようになった。
三角錐の小さなコーンを掴むことが出来るようにもなった。
脚同様に確実に動くようになる感触を得られた。
言語聴覚のリハビリは検査中心。
読み上げられた数字を聞いて覚えてる。
読み上げられた順番の反対順に答える。
いろいろな形の中から同じものを選ぶ。
一枚の絵の中に描かれているものを答える。
こういった内容である。
他に発声練習や口まわりの筋トレなど。
こもって話しずらかった喋り方も、なんとか聞き取ってもらえるようになった。



【新連載】脳梗塞で半身不随になった出版局長の「 社会復帰までの陽気なリハビリ日記」163日間【真柄弘継】第1回
現役出版局長の真柄弘継氏



◆脳梗塞で壊れた脳は感情をコントロールできない!?

リハビリ以外の時間は本を読んでいた。
脳梗塞で壊れた脳は感情をコントロールできない。
私の場合は怒りや恐怖と不安という感情は嘘のようになくなった。
感情をコントロールしなくてはならなかった健康な時が遠い過去の出来事となった。
けれど悲しいや感極まる感情は増幅されてしまい、少しの感動で涙が溢れた。
セラピストさんたちとの会話で感極まって涙が出たりもした。
小説は2~3頁で眠くなってしまうが、コミックは1日2~3冊は読んでいた。
溜まっていたコミックが読めたことで、積ん読が解消したのはよかった。
電話で友人や会社の人と話をした。
右半分動かない以外は健康なことなどを伝えた。
この時点では後遺症の有無がわからず、記憶障害や言語障害はわからない。
けど私が元気で会話を出来る様子に安心されたようだ。
会社の人とは月刊誌の発売の進行や、書籍の注文書を作成してメールやラインで確認。
大口の注文に対しての処理の仕方を指示したりもしていた。



しかし、なによりしていたのは競馬予想である。
安田記念の11万円と、社長から頂いた見舞金から2万円を地方競馬専用口座にいれ、総額13万円で毎日予想して馬券を買っていた。
馬柱は読めても手が使えない。
頭の中で数字を覚えるしかなく、戦績も一頭一頭覚えて比較。
最終的に単複とワイド3点買いを基本に馬券勝負をしていた。
地方競馬は、大井、船橋、浦和、川崎の南関、時には門別、金沢、園田と1日数レースを予想。
結果は、地方競馬の専用口座は8月8日の軍資金が尽きるまで楽しめた!
惜しむらくは、中央のPATで購入した船橋の第1レースで単勝万馬券を当てたこと。
地方競馬の口座に移すことが叶わず(アナログ爺でネットバンキングが出来ない)。
地方競馬は2ヶ月で馬券を買うことが出来なくなってしまった。
中央はというと11万円は確実に減ってはいるものの、健康な生活なら早々に底を尽いたであろう軍資金。
8月17日の時点で8万5千円と、まだまだ楽しめる。
もしかしたら大きく増やす可能性すらあるのである。
闘病やリハビリ生活とは程遠い馬券ライフを満喫している次第だ。



そうこうしているうちに、HCU病棟は一週間で出ることができた。
三本のチューブの点滴もなくなり、身軽になって一般病棟に引っ越すことが出来た。



【新連載】脳梗塞で半身不随になった出版局長の「 社会復帰までの陽気なリハビリ日記」163日間【真柄弘継】第1回
イメージ写真:PIXTA



◆再発のリスクは最低半年は続くと告げられる

この時点で主治医から、峠は越えたが再発のリスクは最低半年は続くと告げられ、気を引き締めて治療に取り組む心構えができた。
入院して5日目で初めての入浴となった。
髭剃りが出来るかもしれないから嬉しかった。
結果を言えば、カミソリ負けで何ヵ所か血を流してしまったが、とてもスッキリとした顔になった。
服用している薬が血をサラサラにするもので、マスクに血がついたのは、ホンのご愛敬である。
トイレで下半身を晒したことで羞恥心はない。
病人だから当たり前と割り切った。
シャワーを浴びるため全裸になっても平気である。
左手が使えても座りながら身体を洗うのは難しい。
看護師さんに全面的に依存させてもらった。
久しぶりの温水に尿意を堪えきれず放尿。
けど看護師さんから、我慢しないで出していいですよと言われ、病気になって初めての解放感をしばし味わったのだ。



話しは少し戻り、入院二日目。
医師や看護師さん、セラピストさんたちから必ず治ると言われても半信半疑。
後で知るのだが、私の腕はしっかりと力が残っていた。
顔が歪むほど筋肉が弛緩しなかった。
触られたり動かされたりしたら全部感覚として分かる。
とにかく右側は動かないが、脳梗塞となるも要所要所の身体の機能が残されていたのである。
これは処置が早かったのもある。
社長へ電話せずにそのまま夜寝ていたら、動かない身体と喋れない状態で運びこまれ、そこから治療だった。
自ら救急車を呼び、症状など自ら伝え、まだ身体が動いている状態からの治療が良かったのであった。
今さら悔やむことはないが、朝起きて歯磨きの時の違和感で脳梗塞を疑っていたら?
という気持ちがないかと言えば嘘になる。
過ぎたことを考えても仕方ないので忘れることにした(笑)





◆再発のリスクは最低半年は続くと告げられる

一般病棟にきてからの最大の関心事は、いつリハビリテーション病院へ移れるかである。
急性期の病院から回復期のリハビリテーション病院へ、どんな病気も病状が安定しないと移してもらえない。
その意味で転院出来る時期は気になって仕方なかった。
希望するリハビリテーション病院の空き状況もある。
転院出来るような安定した状態になっても、こればかりはタイミングが合うかどうかであった。
一般病棟はHCU病棟と違い、看護師さんはHCUの患者3人に対して1人から、患者10人に対して1人となる。
その人的数字の補助なのか、介護士さんが数人いる。
外国から介護士の勉強で来日して働いている方も数人おり、ここでも人手不足が顕著なのであった。
患者も急性期から安定期になっている人ばかりだが、必ずしも見た目も安定期な人ばかりではなかった。



そんな中、日々のリハビリで脚は動かせており、手も少しずつ力が入るようになった。
HCU病棟は大きなフロアに20人ほどの患者。
一般病棟は5人部屋で壁際のベッドに移された。
脳疾患ばかりで、私のような右半分麻痺もいれば、左側が麻痺の人と様々。
高齢者ばかりで59歳の私が最年少という高齢化社会。
最高齢は80歳で、この方だけは挨拶するときちんと返事をしてくださった。
隣の60代は食べ物の飲み込みが困難で、水分にはトロミをつけてもらっていた。
HCU病棟も一般病棟も関わりの出来た方は名前を聞いて必ず名前で話しかけていた。
書き留めることが出来ないため、人生でこれ程までに記憶することはなかった。
他人は名前で呼ばれると、ちゃんと向き合ってくれるもの。
回らない舌とこもる発声でも、マシンガントークは健在であり、コミュニケーションを楽しんだのである。



外国からの研修生はネパール人のうら若き女性。
名前で呼び掛けるようにしたら、普段は勉強と仕事で忙殺されており、休みの日はネットでアニメ(この時は『薬屋のひとりごと』)を観て過ごしていることを教えてもらった。
男性介護士Iさんは年齢も近く、彼にシャワーの介助やトイレの介助をしてもらうときは、男同士分かり合えるものがあり、とてもリラックスさせてもらった。
看護師のHさんは北海道出身で、スラリとした女性。
本屋さんへもよく行くそうで、丸の内のオアゾもたまに行くと聞いて、何を読むのかとか話が盛り上がって、とても楽しかった。
そんな中、リハビリテーション病院を二つ紹介された。
一つは市内、もう一つは電車で小一時間の別の市の病院であった。
別の市の病院は、家族が面会に来るのが大変だ。
地の利もわからない土地よりはと、最初から市内の一択であった。
なんとタイミングよく空きもあり、急性期病院を17日で退院。
リハビリテーション病院へ転院することが出来たのである。
17日間の急性期病院を終えて、午後には介護タクシーでリハビリテーション病院へと来たのであった。





文:真柄弘継





◆第2回「リハビリテーション病院での生活が始まる!」へつづく…明後日(5日)配信





◆著者プロフィール

真柄弘継(まがら・ひろつぐ)

某有名中堅出版社 出版局長
1966年丙午(ひのえうま)の1月26日生まれ。1988年(昭和63年)に昭和最後の新卒として出版社に勤める。以来、5つの出版社で販売、販売促進、編集、製作、広告の職務に従事して現在に至る。出版一筋37年。業界の集まりでは様々な問題提起を行っている。中でも書店問題では、町の本屋さんを守るため雑誌やネットなどのメディアで、いかにして紙の本の読者を増やすのか発信している。



2025年6月8日に脳梗塞を発症して半身不随の寝たきりとなる。急性期病院16日間、回復期病院147日間、過酷なリハビリと自主トレーニング(103キロの体重が73キロに減量)で歩けるまで回復する。入院期間の163日間はセラピスト、介護士、看護師、入院患者たちとの交流を日記に書き留めてきた。



自分自身が身体障害者となったことで、年間196万人の脳卒中患者たちや、その家族に向けてリハビリテーション病院の存在意義とリハビリの重要性を日記に書き記す。
また「転ばぬ先の杖」として、健康に過ごしている人たちへも、予防の大切さといざ脳卒中を発症した際の対処法を、リアルなリハビリの現場から当事者として警鐘を鳴らしている。

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