名門中学の入試問題をひもときながら、江戸の町の武家・庶民の真実の姿をあきらかにしよう。歴史を学び直したい大人、必読!東京・お茶の水女子大学附属中学校の入試問題から江戸野菜と脚気をひもとく。
2009年 お茶の水女子大学附属中学校 東京都・国公立・偏差値68※四谷大塚データ
社会科目入試問題より
 

問題:江戸時代、江戸の周辺でも野菜や果実がつくられました。
   江戸の周辺でつくられた特産物として、あてはまるものを次の
   アからエまでの中から一つ選び、その記号を書きなさい。
   ア、だいこん イ、はくさい ウ、りんご エ、みかん

「答え」:ア、だいこん

■江戸野菜から江戸の健康事情、食事情をひもとく

 いわゆる「江戸野菜」に関する問題ですね。

 江戸の町は100万人の人々が暮らしていました。

 ということはその胃袋を満たすのに、八百屋や振り売りだけではとてもじゃないけど無理です。

 そこで役立ったのが、江戸近郊(当時の江戸近郊は、現在は都内であること
も多い)の農村です。この農村たちから野菜などを仕入れることができたこと
により、江戸の人たちは飢えずにいられました。

 その「江戸・江戸近郊の農村で生産された野菜など」を、今は「江戸野菜」と呼び、「ブランド野菜」として地元も奨励。消費者や観光客にも人気があります。

 では、答えの「だいこん」から「当時の江戸の食材・江戸野菜事情」を見て
いきましょう!

■大根が江戸患いの特効薬に
世にも恐ろしい「脚気」に苦しんだ江戸の人々を救った“ある野菜...の画像はこちら >>
 

〈そもそも、江戸っ子は「だいこん」とは言わない〉

 のっけから「え~!?」と思われかるかもしれませんが、事実です。

 じゃあ何て言ってたのかというと、「だいこ、でぇこ、でーこ(でへこ)」です。

 現代の私たちが「だいこん」と言ってるのを聞いたら、「野暮だ」と笑うか、上方の人間だと思うでしょう。

(上方は「だいこん」と言っていた)

 東海道中膝栗毛や他の文献などを見ても一般的には「だいこ」が多かったようですが、大根売りは必ず「だいこ、でーこ」の二声セットで売り声としていました。

〈大根は“ある病”によく効きます〉

 もちろん大根だけの効果で治るわけではありません。

 他にも色々な食べ物の栄養や成分との融合の結果「治る」のです。

 しかし、特に当時のように現在のような医薬品がまだ無い状況においては、その薬効は明らかだったようです。

 ではその「ある病」とはいったい何でしょう?

 答えは「江戸患(わずら)い」です。

 何のこっちゃ? と思うかもしれませんが、「脚気(かっけ)」のことです。

 なぜ大根が脚気に効くのか気になるところですよね。

 それには脚気がどういう病なのか知ったほうがわかりやすいと思いますので、説明したいと思います。

■「江戸わずらい」の脚気が流行した背景

 脚気とはビタミンB1の不足によって起こる病気で、簡単に言うと字の如く
「腿(もも)など主に足が痺れ、やがて歩けなくなり、重病になると死に至る
」というものです。

 江戸時代中期、元禄から享保にかけて江戸の町で広まるようになります。
そしてなぜか田舎に帰ると治るのです。

 それゆえ「江戸の(町の)病」ということで、「江戸わずらい」と言いました(元禄は5代将軍・綱吉、享保は8代将軍・吉宗の時代を代表する年号ですので、なんとなくイメージしやすいかと思います。

 元禄時代は浮世絵や料理など、庶民文化が開花した「元禄文化」に代表され
ます。

 それまで文化・生活は大名など武家が主役でしたが、例えば食事は1日2食だったのが3食に増えるなど、経済的に豊かになっていった庶民が主役に交代した時代です。よって商人たちは更に豊かになっていったわけで、彼らのような裕福な町人(庶民)たちが芸術・経済・生活など文化の様々な面で、出資したり自ら提案して作らせるなどして、当時の最先端を牽引していきました。

 そうなるとやがて、今度はその弊害や歪み(ひずみ)なども当然出てきます。

 その代表的なものの1つがこの「脚気」と言えるでしょう。

 なぜ元禄時代から広まるようになったのか? それ以前はどうだったのか?という疑問が沸きますが、その答えこそ、この「経済的に庶民が豊かになっていったこと」、つまり元禄時代そのものとも言えるものです。

 どういうことかと言うと、先程書いたように「食生活が変化し、豊かになっていったから」なんですね~。

 え? どこが脚気に関係あるのかって? 関係ありますよ。

 十分あるのでご心配なく。

 ここで先程の脚気の説明に戻ります。

 脚気は「ビタミンB1不足による病」でしたね。

 ということは、江戸時代前期まではビタミンB1は足りていたことになります。

そして当時の病名は何でしたっけ?「江戸(の町の)患い」でしたね。

 そうすると綱吉の時代以降、①江戸の町のみで不足するようになり②ビタミンB1が含まれている食べ物。この2つを満たすものがわかれば、それが病の原因ということになります。

 さて、その原因はなんと「お米」です。

 でもおかしいと思いませんか?

 元禄時代は1日朝夕だけだった食事に昼食が加わるようになったので、お米の消費量は「増えた」のですから。

 ではどんなお米なのでしょう?

 ヒントは「お米はお米でも、その種類による」です。

 お米でビタミンBが足りない種類で「江戸の町ならでは」のもの…

 もう皆さんお分かりですね。そう、答えは「白米」です。

■5代・綱吉の時代から江戸は白米が溢れる町に

 江戸前期まではまだ戦国の遺風も残り、生活もそこまで戦国時代と違うほど
ではありませんでした。ところが武断政治は3代・家光まで。4代・家綱から
は「文治政治」に大きく舵は切り替わり、以後「泰平の世」が幕末まで続きま
す。

 元禄時代は5代・綱吉の時代で、最初に書いたように「庶民(町人)の文化」が開花しました。

 当然ですが食生活も向上するわけで、ここで初めて「江戸の町は白米が溢れる稀有な町」となったのです。

 それまで庶民は戦国時代よろしく玄米や片搗米を食べていました。脚気は白米を食べられる富裕層の病であり、その患者数は人口から見れば少ないものでした。

 しかし経済的にも生活も豊かになるにつれ、庶民も米ぬか(この場合はビタミンB1)を取り除いた「白米」を常食するようになります。

 これが彼らの健康を奪うのですから微妙なのですが…。

 そもそも江戸の町は極めて特殊な町で、当時の日本でダントツに「米が溢れる町」でした。乞食でさえ、「米が食えなきゃ死んだほうがマシ」と。それぐらい「お米が氾濫している町」「お米が食べられないなんてありえない町」だったんですね。

 その理由は簡単です。お武家様が人口の半分を占める、武家の町。

 ということは、彼らのお給料たる「お米」が(換金のためもあり)江戸の町中のお米屋さんに満ち満ちているわけです。そして当時は米俵ですから、どうしても俵のそばにはお米が多少なりとも零れて落ちていたりするものです。

 こうして江戸の町は「日本唯一の白米の町」となったため、江戸在住者の
みビタミンBが常に欠乏→江戸の町で脚気が広まるようになったのです。

■脚気にかかるとどうなる?

 脚気になるとまず最初、指先やつま先が痺れます。そして下肢にむくみがでて、顔からお腹へとそれが広がっていきます。

 これはビタミンB1不足による「慢性的な心不全」「末梢神経の障害」(…書いているだけでオソロシイ…)の症状で、むくんだり痺れるわけです。

 最初は下半身なのに、次が顔とは…。

 手はうまく物が掴めなくなり、足もつまずいたり転んだりしやすくなります。

 手足の先が痺れているんだから当然と言えるでしょう。

 とりわけ「腿(もも)と脚にそれが強くあらわれる」といいます。

 だから「脚気」というほどなので、よほどそうなのだと伺い知れます。

 これが更に進むと「痺れは両手足腕の全体」に広がり、だるくなります。

 当然、歩くことは既にこの段階にして難しくなり、立っていることさえ困難になります。

 そして更に進むと血圧が低下し、急性心力衰弱(衝心)を起こして「心臓の機能が完全に停止」。

遂に、死に至ります。

 そしてこの衝心の経過はとても早いため、「三日坊」と呼んで恐れられました。

 僅か三日とは!!!…う~ん…想像するだにコワいわ…。

 当時はどんなに恐ろしい病気だったでしょう!

 …ちょっと怖ろしくなってきたので、今回はここまで。

 次回はこの続きで「江戸の町でも脚気にかかりにくい人々がいたが、それはどんな人々?」というテーマ、そして今回の入試問題の答えである『だいこん』『江戸野菜』について書きたいと思います。次回もお楽しみに~^^

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