「人は死んでも、誰かのなかで生き続け、その生き方を変えたりする。それもまた、人に与えられた幸せかもしれない。」と語るのは、『平成の死 ~追悼は生きる糧』を上梓した著述家・宝泉薫氏だ。

 平成の終わりに亡くなった著名人たちの死は、令和の時代を生きるにあたって私たちが考える
死生観に大きな影響を与えているのではないだろうか?■常に世間を驚かせ続けた奇妙な夫婦

 令和が始まって、1ヶ月以上が過ぎた。平成はすでにひと時代前となったが、その終盤に亡くなった人たちはまだ鮮烈な印象を残している。そのいくつかを振り返ってみよう。

 まずは、樹木希林。平成25年、日本アカデミー賞の授賞式で、
「冗談じゃなく全身ガンなので、来年の仕事、約束できないんですよ」

 と語り、衝撃を与えた。しかし、そこから5年半生きて映画『万引き家族』をはじめとする、いくつもの作品に出演。

これが遺作になるかもしれないという、本人及びスタッフの思いによってそれらは充実度を増した。さらにドラマやCMのほか、亡くなる4ヶ月前にはテレビ番組『直撃!シンソウ坂上』の西城秀樹追悼回でナレーションを務め、前年6月からNHKの長期密着取材にも応じていた。

 その密着は、死の11日後に『”樹木希林”を生きる』として放送されたが、なるべく赤裸々に撮りたいということなのか、制作側の意図が見えづらく、樹木が苛立つ場面も。仕上がりに不安を感じた彼女は自分のPET(陽電子放射断層撮影)検査の画像を使うよう、サービスしたりもする。ネット上ではディレクターへの批判も出た。とはいえ、結果として、ガンに苦しみながらも作品に情熱を燃やす75歳の老女優の業や底力といったものはしっかりと刻印されていたように思う。

こうして彼女は「ギリギリまで働く幸せ」を極めたのだ。

 半年後の平成31年3月には、彼女のあとを追うように、夫だった内田裕也が他界。その11日後には、萩原健一が世を去った。この3者の訃報は、昭和から受け継がれてきた豪放で無頼なものの黄昏を感じさせるようでもあった。

 樹木以上に、ギリギリまで仕事をしていたのが大杉漣だ。主役のひとりを務めていた『バイプレイヤーズ ~もしも名脇役がテレ東朝ドラで無人島生活したら~』のロケ後、共演者たちと食事をとり、ホテルの部屋に戻ったあと、心不全で急死した。

 収録済みだった番組はテロップつきで放送され、なかでも『アナザースカイ』はしみじみとする内容だった。来し方行く末に思いを馳せ「死にたくないとも思わないし、と言って死にたいとも思わない。死ぬっていうことがわかってるってだけであって、死ぬまでの間に俳優としてどれだけできるかっていうことはわからない」としたうえで、

「申し訳ないけど、もうちょっと生きたいなって思ってます。っていうか、僕はもうちょっとやりたいこともあるので、66歳でも希望がいっぱいありますよ」

 と、明るく語っていたのである。それでいて糟糠の妻について「私の子供をふたりも生んでくださって」と感謝を示すなど、死の予感もどことなく漂っていた。

■昭和、平成。
時代をまたいで主役であり続けた“古くて新しい”落語家

 桂歌丸の最期も、記憶に残る。もともと頑健な体質ではなかったが、平成21年に肺気腫を患ってからは病魔と闘いながらの噺家活動となった。最後は酸素チューブまでつけて高座にあがり、81年の生涯を生き抜いた。

 その晩年は、新たな地平も切り拓いた。病気や入院、不健康な痩身といった負の要素を笑いに変え、お茶の間に持ち込んだことだ。高齢化が進めば、当然、不健康な老人も増える。

そういう世の中にあって、歌丸の姿はヒントや希望にもなったのではないか。

 また、高齢化には介護の問題もつきまとう。朝丘雪路が82歳で亡くなったとき、夫の津川雅彦は、

「先に死んでくれたことも含めて感謝だらけです」

 と、ホッとした表情を見せた。朝丘が重度のアルツハイマー病(死因もこれだった)で、自分のあとに残していくのはしのびなかったのだ。津川は妻の死から約百日後、心不全であとを追うことになる(享年78)。「お別れの会」は夫婦合同のかたちで営まれ、死後もおしどりぶりを示した。

 思えば、津川の兄・長門裕之も妻・南田洋子が認知症になり、老老介護の晩年をすごした。平成21年に南田はクモ膜下出血で亡くなり(享年76)1年7ヶ月後、長門も肺炎で亡くなった(享年77)。このふた組、4人の死は「老い」と「夫婦」という問題を浮き彫りしたといえる。

 ギャップが印象的だったのは、有賀さつき(享年52)だ。女子アナからタレントへという華やかな人生を歩みながら、晩年、病気によるやつれをダイエットだとごまかし、最後の入院では肉親にも病状の深刻さを伝えることなく、ひとりでひっそり消えていった。

「実は、卵巣がんだったんです。さつき本人が知られたくないということで、私も隠していました。(略)亡くなる3年前に手術を受けました」(『週刊女性』)

 父親によって具体的な死因が明らかにされたのは、一周忌にあたる平成31年1月のことである。

■新世代の人気者も去る

 女子アナ同様、平成の人気職業であるユーチューバーのエイジが亡くなったのは、31年の元日。休暇滞在先のサイパンで高波にさらわれた。4月には「空ハート」の名で動画投稿をしていた女性が、撮影中のハプニングで窒息死。赤飯おにぎりの一気食いに失敗してしまった。同じく4月には、ボカロのミュージシャン・WOWAKAが心不全で急死。ツイッターでの最後のツイートは、新元号が発表された直後の「令和きれいだー。」だった。

 筆者の個人的なところでは、壮健だった義父が4月1日に突然倒れ、そのまま亡くなった。また、4月30日にはSNSで交流していた女子大生が「平成も終わりなんて嫌ね、もう一緒に心中でもしちゃおうかしら」とツイッターでつぶやき、命を絶った。時代の変わり目に訪れた永訣として、忘れることはないだろう。

 ほかにも「団塊の世代」の命名者で大阪万博などの実現に寄与した堺屋太一や『噂の真相』の編集長だった岡留安則、元・横綱双羽黒の北尾光司らが死去。『子連れ狼』の原作者・小池一夫と『ルパン3世』の漫画家、モンキー・パンチが相次いで亡くなったのにも驚かされた。あたかも、時代の電車に駆け込み乗車するような旅立ちだった。

 そんななか、痛ましかったのが元・演歌歌手の紫艶だ。平成28年、桂文枝との20年にもわたる愛人関係を告白して、真偽をめぐり対立したが、文枝が上方落語協会会長を退任するかわりに、彼女は引退。31年3月、風呂あがりに心不全を起こし、41年の生涯を閉じた。

 ただ、その訃報が伝えられたのは令和になってからだ。『週刊文春』で母親が語ったところによれば、娘は生前、

「苦しいこともあったけど、楽しいこともあったんだよ。でも一言、本当のことを言ってほしかった。お母さん、悔しい」

 と、話していたという。

樹木希林、大杉蓮、西部邁、さくらももこ……平成の終わりに示さ...の画像はこちら >>
写真を拡大 西部邁。

 最後に、対照的な死生観をうかがわせる言葉をふたつ紹介しよう。まずは、平成30年1月に自殺した評論家の西部邁が、亡くなる4ヶ月前の講演で語ったものだ。

「人間、生きてりゃいいってもんじゃないし、自分がこれ以上生きていたら、社会になんの貢献もできない。(略)死に方ぐらい自分で選ぶ」

 もうひとつは、同年8月、乳ガンで亡くなった漫画家のさくらももこが、死の13年前に出したエッセイ集のなかの一節だ。

「死は、誰にでもいつか訪れます。でも、死ぬまでの間は生きています。生きている間は生きている事を満喫しようじゃありませんか。生きていると、細かくちょこちょこ楽しい事や面白い事があります」

 対照的な死生観と書いたが、よりよく生き、よりよく死にたいという思いは共通するのではないか。平成から令和へ、人々の営みは変わることなく続いていく。せめて自分なりの死生観を見つけ、そこに誇りを持って、限りある日々をすごしていきたいものである。