湯女は、現代のセックスワーカーでは、ソープ嬢に相当するであろう。
さて、昭和三十三年(1958)に売春防止法が完全施行されるのにともない、赤線地帯(公認の売春街)だった吉原の貸座敷(妓楼《ぎろう》)は、すべて廃業した。
なかにはトルコ風呂に転業する貸座敷もあり、やがて吉原はわが国有数のトルコ風呂地帯に変貌した。
なお、昭和五十九年(1984)に、トルコ風呂はソープランドと改称された。
つまり、昭和三十三年以降、それまで娼婦と呼ばれたセックスワーカーはトルコ(ソープ)嬢に転身したわけである。
いっぽう、江戸時代初期、湯女と呼ばれるセックスワーカーがいた。
ところが、幕府が吉原(元吉原)遊廓の営業を認めるのにともない、湯女は禁止された。
そのため、湯女のなかには、吉原の遊女に転身する者もいた。
つまり、セックスワーカーとして、
江戸 湯女→遊廓の遊女
昭和 遊廓の娼婦→ソープ嬢(湯女)
と、まったく逆の変身をしたことになろう。
図1は、風呂屋の、湯女と客が描かれている。図中の「湯娜」は、湯女のこと。男と女が図1のような状況に置かれれば、男あるいは女から、
「どう?」
と、打診し、勧誘し、性的な行為に移行するのは、ごく自然な成り行きではあるまいか。
ただし、春本『好色訓蒙図彙(こうしょくきんもうずい)』が刊行された貞享三年(1686)は、五代将軍綱吉の時代である。また、絵師の吉田半兵衛は大坂で活躍した。
つまり、図1は、上方が経済・文化的に江戸よりもはるかに優位に立っていたころの、大坂の湯女の風俗といえよう。
戯作『好色一代男』(井原西鶴著、天和二年)から、当時の湯女の生態がわかる。
主人公の世之介は舟で兵庫(兵庫県神戸市)に着いたあと、近くの風呂屋に行った。
湯女のひとりに、
「あとで、どうかね」
と声をかけたところ、掛かり湯を汲んでくれるなど、俄然、もてなしがよくなった。
風呂屋から出て、世之介が宿屋に戻ると、しばらくしてさきほどの湯女がやってきた。しかし、いざ床入りとなると、世之介は湯女の粗野と下品さにがっかりした。
港町の湯女だったせいもあるのか、セックスワーカーとしての質は低かったようだ。
なお、このとき、世之介はわずか十二歳である。

湯女の仕事は、表向きは図2でわかるように、客の垢(あか)すりなどだった。男から声がかかると、あとで宿泊先などに出向いたのである。
なお、図2から、江戸時代初期の湯屋は蒸し風呂だったのがわかろう。
天井から石榴口(ざくろぐち)と呼ばれる仕切り板がさがっていて、小さな隙間をくぐるわけだが、向こう側に湯船はない。
では、江戸の湯女の生態はどうだったのだろうか。
(続く)