新選組(しんせんぐみ)の錦絵のなかで、最も有名な作品がこれではないだろうか。新選組は昔から、理想の武士像を追い求めるあまり、西洋化という時代の流れに対応できなかった集団という印象を持たれがちである。
まず、画面中央で凛々(りり)しく立っている男が近藤勇だ。その恰好(かっこう)は和装に刀姿という前時代的なものである。しかも、近藤の周りには、仲間とみられる和装の男の死体が横たわり、戦況は良くないことが強く印象付けられる。
さらに煙の向きなどから、逆風が吹いていることがわかり、近藤の行く末が危ういことを感じさせる。事実、近藤はこの戦い後、流山(ながれやま・千葉県)で捕らえられ板橋(いたばし)宿(東京都)にて斬首に処された。
反対に、画面の左側に描かれた新政府軍は、服装も洋装に統一され、隊長とおぼしき人物の指揮で、一斉に発砲している。その様子から、非常に統率のとれた部隊であることがみてとれる。
近藤の率いる甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)は、実際は後装ライフル銃や大砲など、最新鋭の武器を擁する部隊であったが、この錦絵の近藤隊は刀で近代装備の敵に立ち向かっている。
そもそも慶応4年(1868)3月に起こった甲州勝沼の戦いは、近藤が率いる甲陽鎮撫隊と、土佐(とさ)藩の板垣退助(いたがきたいすけ)が率いる迅衝隊(じんしょうたい)を中心とした新政府軍の衝突である。近藤は江戸防衛の要にして、江戸城の西方約125㎞に位置する甲府(こうふ)城を押さえるために兵を挙げたが、既に甲府城は新政府軍の手に落ちていたため、入城することができなかった。
進軍に際して甲陽鎮撫隊は、泊まる先々でどんちゃん騒ぎをしたために、行軍が遅れたとする説がある。
この絵を描いたのは、幕末から明治にかけて活躍した絵師の月岡芳年(つきおかよしとし)である。芳年の師匠は歌川国芳(うたがわくによし)で、国芳は江戸時代に幕府の厳しい規制に反発し、一風変わった風刺画を描いたことでも有名だ。芳年も、そんな師匠の反骨精神を受け継いだのだろう。逆賊(ぎゃくぞく)と呼ばれた新選組の近藤に、「驍勇(強く勇ましいさま)」という言葉を題名に用いて、滅びゆく者の美しさ、気高さを見出したのではないだろうか。