ここ数年、ヒット曲不足でパッとしない歌謡界。そんななか、話題を集めたのが氷川きよしの「変化」だ。
この状況を、メディアも世間も面白がりつつ、もてはやしている。「女子SPA!」が「氷川きよしに学ぶ『お姉さまメイク』 眉、目…アラフォーのお手本です」という特集を組んだり、自身のインスタグラムに投稿された自撮り画像が「かわいすぎです!」「こじるりに似てる」と絶賛されたり、という具合だ。
ただ、氷川は過去に、松村雄基との熱愛をフライデーされたり、元マネージャーに「ホモセクハラ」を告発されたりもしている。ここへきてのオープンなフェミ化には戸惑う人もいて、たとえば、和田アキ子がそうだ。
12月1日「アッコにおまかせ!」でのこと。氷川がイベントで発した「新生・氷川きよしです。本来の自分に戻りました」という言葉について、こんな感想を口にした。
「このへんがね『本来の自分』って、本人がもっとはっきり言ってくれたら私も言いやすいんだけど…」
そんな和田への回答というわけでもないだろうが、その直後、氷川は「週刊新潮」で事実上のカミングアウトを行なった。
子供の頃「オカマ」呼ばわりされた話に始まって「自分で言うのもなんだけど、アタシ足がキレイなの。キレイすぎて困っちゃうわ(笑)」と自慢。デビューから20年たったことで「自分の性分」を出したい心境になったとして、
「男らしく生きて欲しいって言われると、自殺したくなっちゃうから、つらくて……」
とまで漏らした。
ちなみに、この11ヶ月前「スポーツ報知」のインタビューでは生まれて初めて憧れた歌手への想いも語っていた。
「4歳の時に旅行で行った壱岐対馬のバスの中で、松田聖子さんの『赤いスイートピー』をアカペラで歌ったんです。その時、歌って心に刺さるエネルギーがあるなとキュン!ときた。小1で福岡で聖子さんのライブを見て、子供ながらに刺激を受けて歌手に憧れました」
聖子といえば、はるな愛や米良美一など、そういう系統(?)の人たちにも大人気のスター。氷川もまた、同様だったわけだ。
そのインタビューでは、1歳下の浜崎あゆみへのライバル意識も明かしていた。
「01年からレコ大3連覇して、CDも何百万枚売れるスター。僕が演歌で一番売れてても雲泥の差だった。顔も小さくてキレイで、 カリスマ性を研究してた。マネジャーから『次元が違う』と言われたけど、何十年かかっても何かやってやると思った。同じ福岡人に負けたくなかったんです」
勝ちたかった相手が演歌の男性歌手ではなく、メイクやファッションでも魅せた「歌姫」だったことが象徴的だ。
しかし、九州男児は硬派な傾向が強いとされる。11月20日放送の「徹子の部屋」では、最近のフェミ化について、同じく九州男児の父親から「好かん。男は男らしくしろ」と言われ「知らん!」と言い返したというエピソードを笑いながら話した。
また、この番組では裕福でなかった生い立ちを振り返り、おかげで「ハングリーになれた」とも。保育園の運動会でかけっこの成績が2位だったことの悔しさから「一番」にこだわるようになったことも明かした。
どうやら氷川のなかでは、フェミニンな志向と九州男児らしい負けん気がせめぎあっているようにも思われるのだ。
その負けん気ゆえ、演歌でのトップだけでは満足できず、その後、全体チャートでも1位を複数回達成。06年には「一剣」でレコ大も獲った。Jポップ全盛のこの四半世紀で、演歌のレコ大はこの一度きりだ。
じつは新境地に挑み始めた背景にも、演歌が古典芸能化して衰退しつつあることへの危惧があるという。そこで、あえてジャンルを超え、演歌だからいいではなく、氷川きよしだからすごい、という世界を模索し始めたわけだ。
これにより、彼の歌には独特の魅力が加わりつつある。
もともと、両方の発声法ができる人なのだ。それがポップスにも力を入れ始めたことにより、二刀流的な自在感が一気に高まった。その自在感はかつて、どんなジャンルも歌いこなした女王・美空ひばりに通じるものだ。最新アルバムでひばりの「歌は我が命」をカバーした氷川は、その発売記念イベントで「最近、ひばりさんにはまっています」として、ものまねも披露した。
また、ひばりは中性的とか両性具有的とも評された人である。ただ、あくまで「女」として生きた。そういう意味で、氷川が目指すとすればもっと別のタイプの歌手だろう。
たとえば最近、ミッツ・マングローブがこんな文章を書いている。
「夏の武道館公演を観た際、特に絶唱系の演歌を唄う姿が、幾度となくフレディ・マーキュリーと重なる瞬間がありました。『影響を受けていそう』とか『寄せている』とかではなく、期せずしてごく自然に。
とはいえ、気になるのは氷川を「演歌のプリンス」として応援してきたファンの反応だ。ミッツのような人が絶賛する歌手をこれまで通り、好きでいられるだろうか。フレディが今、もてはやされるのもエイズで亡くなったという悲劇的宿命によるところが大きい。美輪明宏もそうだが、異端であるがゆえに迫害され、笑われたりもした人たちだ。
氷川自身は笑われる覚悟があるとしても、笑われるような歌手をこれまでのファンが好きでいられるかはわからない。まして、彼を支持してきたのは古いジェンダー観をよしとしてきた年代だ。王道と異端の両立は、演歌とポップスの二刀流ほど容易ではない。事務所やレコード会社は、気が気ではないだろう。
前出の「スポーツ報知」のインタビューで、結婚について、氷川はこんな発言をした。
「それはもう氷川きよしには必要ない。ホッとする家族の空間は手に入れられなかったけど、その分ほかのものを手に入れた。華やかに一生を歌にささげていきます」
この理由が、歌やファンこそが恋人、ということならいい。
和田アキ子もそのあたりが気になるようで「アッコにおまかせ!」ではこんな心配もしていた。
「“急にどうしたの?”っていうのはあるけど、ファンが喜んでくれてるんなら。ついてくるんなら」
実際、今回の「変化」についてこられないファンはいるだろう。もちろん、新たにつくファンもいるだろうが、その増減がどうなるのか、これはLGBT的なものを今の世の中がどこまで受け容れられるか、ということを探る壮大な実験でもある。
ただ、その結果に氷川が期待しすぎると落とし穴にハマりかねない。メディアも世間もただただ移り気だからだ。そもそも、王道感を維持しながら、異端としても面白がられ、人生の幕を成功裡に閉じたスターなど皆無である。戻るなら今のうちだし、そうしないなら、今後は異端に徹して生きるくらいのつもりでいたほうがよいかもしれない。