現代女性の心を惹き付けてやまないのが「細いからだ」。
つまり「瘦せること」。
また「瘦せることがすべて」という生き方をする女性は、日本はもちろん世界でも実は多く存在しています。
そんな女性たちを「瘦せ姫」と呼ばせてもらっています。
なぜ女性はそこまでして「細さ」にこだわるのか?
「激瘦せ」ということばがいまはもう一般化していますが、いったい日本ではいつから「激瘦せ」が身近なことばになったのか?
そのエポックメイキングになった芸能人がいます。
いまや大女優として活躍する宮沢りえ。
実は、彼女にとって契機になる出来事が1990年代にありました。
いま話題の書『瘦せ姫 生きづらさの果てに』の著者・エフ=宝泉薫氏が、日本芸能界における「激瘦せ史のカリスマ」について語ります。
宮沢りえは芸能人激瘦せ史の分岐点だった…
宮沢りえ以前・以後。
日本における瘦せ姫の歴史については、そういう区分も可能でしょう。1995年に起きた、トップアイドルの「激瘦せ」騒動。メディアはそれを摂食障害によるものと診断し、世間も同調したことで大きな関心事となりました。
そんなりえの「変化」をテレビで最初に指摘したのは、タモリ。芸能界きっての容姿フェチであるこの人は4月10日『笑っていいとも!』のゲストに来た彼女を見るなり、驚きの声をあげます。
「また一段と細くなりましたねぇ」
この日のりえの衣裳は、身体にフィットした薄手の長袖ニットに、ミニ丈の半袖ワンピース。当時の雑誌記事(註1)には「誰の目にも10キロはやせてしまったように映った」「40キロもないはず」との見方が示されています。ちなみに、身長は168センチなので、なかなかの細さです。ただ、見出しには「〝激やせ〟りえの意外な明るさ」というフレーズも付けられていました。当時の彼女は「ダイエッターズ・ハイ」のような状態だったのかもしれません。

そして、半年後——。彼女はさらに、メディアと世間を驚かせます。10月3日に行なわれたゴルフイベントに、もっと瘦せた姿で登場。スラックスのなかで泳ぐ脚の頼りなさはもとより、何より衝撃的だったのは、途中で羽織っていたものを脱いだ際、半袖のシャツからむきだしになった腕の細さでした。
この様子は翌日のワイドショーで派手にとりあげられ、それ以降、彼女は国民的レベルで注目の的に。好奇の視線と心配の声が混在するなか、メディアによる原因探しが活発化し、世間は摂食障害への理解と誤解を一気に深めていきます。そういう意味で、このゴルフイベント、とくに彼女が羽織っていたものを脱いだ瞬間は、瘦せ姫の歴史の大きな変わり目となりました。
その歴史的瞬間、筆者が何をしていたかというと——。テレビ朝日で芸能リポーター梨本勝氏の取材を受けていました。その半年前に上梓した『ドキュメント摂食障害』の著者として、すでに話題になっていた彼女の激瘦せと摂食障害の関連性について語るためです。このVTRは2日後のワイドショーで使われるとのことでしたが、ゴルフイベントでの姿が衝撃だったため、予定が早まり、翌日、彼女の映像とともに放送されることとなります。
じつは本格的なテレビ出演は、後にも先にもこの一度のみ。それが瘦せ姫史の分岐点というタイミングだったことには、運命的なものさえ感じます。
ではなぜ、彼女は激瘦せをきたしたのでしょうか。当時よくいわれていたのは、母親との関係に原因があるとする説。
というのも、摂食障害には支配的な母親と従順な娘という構図が典型例として存在し、彼女の場合もそこに当てはまります。筆者が10代半ばの彼女を取材したときも、ステージママである母親にもたれかかっているような印象を受けました。
ただ、当然のことながら、太った支配的な母親を持つ女性がみな、激瘦せをきたすわけではありません。そこには、複雑な家庭環境、少女としての無理な自己実現、大人世界への移行の失敗、体型をめぐる強迫観念の強さといった、さまざまな要素が作用していたと考えられます。
というのも、彼女は物心つく前に父親と生き別れており、母親とも一時は別居状態に(母親が戻ってきたのは、彼女が子供モデルを始めたことを知ってから、ともいわれています)。「素直」「元気」「天真爛漫」などと評された彼女の性格は、おそらくそういう生い立ちから逆説的に育まれたもので、それは芸能界でも称賛されたことにより、強化されたはずです。と同時に「顔立ち」や「体型」が重視される世界に飛び込んだことで、自らの外見についてのこだわりも、強化されたことでしょう。
つまり、彼女は「完璧な美少女」を頑張って演じることにより、国民的アイドルになりえたわけです。
しかし、一生そのままでやっていけるほど、世の中は甘くありません。とくに、母親主導で行なわれたふんどしカレンダーやヌード写真集などのセクシー路線は、ハイリスク・ハイリターンでした。それはある意味、国民的レベルのセクハラ対象になることでもあり、サプライズ効果がすごかったぶん、本人にはストレスだったと考えられるのです。
そこで彼女は、のちの横綱貴乃花(当時は大関)との「結婚」という方法で、大人の世界へと一気に飛び立とうとしました。が、先方からの一方的に近い婚約破棄により、それが果たせず、デビュー以来初といっていい挫折を味わいます。
それでも会見で「悲劇のヒロインにはなりたくない」と発言するなど「素直」に「元気」に「天真爛漫」に振る舞うことで、危機を乗り切ろうとします。本当は恨み言を言ったり、八つ当たりでもしたほうがよかったのでしょうが、少女としての優等生的な自己実現しか知らない彼女には、そうやって、平気なふりをするよりほか、術(すべ)がなかったのかもしれません。その無理がしわ寄せを生み「激瘦せ」という、心身症的かつ自己破壊的表現をとらせるにいたったのでしょう。
それにしても、激瘦せという問題を考えるとき、これほど典型的なケースも珍しいのでは。いや、ひとつ、典型的ではないこともあります。それは大きなリバウンドをしていないことです。途中でひどい過食に転じて、以前よりも太ってしまう人が多いなか、彼女はその後、騒がれない程度の「ギリギリの細さ」となって、その体型を維持し続けました。
しかも、結婚(のち離婚)や出産も経験。こうしたことが、彼女を特別な存在にしています。というのも、SNSなどで、
「宮沢りえくらいの細さでいられるなら、体重を増やしてもいいのだけど」
と、口にする人が目立つのです。
では、本人は回復後の体型をどう思っているのでしょうか。それを察するうえで、興味深いエピソードがあります。2007年に『徹子の部屋』(註2)に出たときのことです。
彼女は和服姿で、帯の絵柄が「酒盛りをする骸骨たち」という奇抜なものでした。そこで、黒柳徹子が「こんなものがあるのねぇ」と感想を言うと、
「りえにピッタリね、ってマネージャーに言われたんですけど。どういう意味かしら……って(笑)」
黒柳は「まぁ、すっきりしてらっしゃるから」とつなげていましたが、かなりハッとさせられたものです。というのも彼女、激瘦せ騒動の渦中には、
「骸骨みたい、って言われるのは、イヤです!」
と、発言していたからです。そんな人がなぜ、骸骨柄の帯をして、周囲からの「ピッタリね」という突っ込みに笑っていられるのか、少し不思議にも感じたものです。
おそらくこれは、彼女のなかに「瘦せ」へのこだわりがまだ残っていて、悪意丸出しならともかく、羨望も混じったからかいなら、むしろ、満足や安心につながるからでしょう。いわば、世間で許されるギリギリの細さ。しかも、それはメディアに美しいものと見なされ、女優としての仕事にもプラスに働いている印象です。
近年は、脂肪を減らす効果のある緑茶のCMにも出演。
なお、米国において、瘦せ姫の歴史を一変させたのはカレン・カーペンターでした。83年に、拒食症による心不全で32年の生涯を終えましたが、宮沢りえは40代を元気に迎えています。瘦せたままで自己実現していきたい人にとっては、ひとつの希望といえるでしょう。
(註1)『週刊女性』1995年5月2日号(主婦と生活社)
(註2)『徹子の部屋』2007年11月2日放送(テレビ朝日系)
(つづく……。※著書『瘦せ姫 生きづらさの果てに』本文抜粋)

【著者プロフィール】
エフ=宝泉薫(えふ=ほうせん・かおる)
1964年生まれ。早稲田大学第一文学部除籍後、ミニコミ誌『よい子の歌謡曲』発行人を経て『週刊明星』などに執筆する。また健康雑誌『FYTTE』で女性のダイエット、摂食障害に関する企画、取材に取り組み、1995年に『ドキュメント摂食障害—明日の私を見つめて』(時事通信社・加藤秀樹名義)を出版。2007年からSNSでの執筆も開始し、現在、ブログ『痩せ姫の光と影』(http://ameblo.jp/fuji507/)などを更新中。