失敗の過程を冷徹に見据える眼が大事
大学を気ままに過ごして、あまりよく考えずに就職した銀行を、これまた深く考えることもなくさっさと辞めました。
それでも、教訓だけは得られたような気がします。好きなことをやってお金をもらおうなんて図々しかったな、と。写真/花井智子
では、これが挫折だったかと言われると、うーん、なんか違うんですよね。特に若いときは、確かに失敗、大失敗を数多く繰り返してきましたよ。しかし、挫折、つまり、挫け、折れるようなことは一切ありませんでしたからねえ。こういうやり方では、たぶん失敗するだろうな、と自分が失敗するプロセスを、いつも極めて冷静に見つめていました。平然とおのれの失敗を見つめる感覚――これがあったことが、次につながったような気がします。
借金だって、かなりの額になりましたが、「返せない、どうしよう」と思ったことは一度もありませんでした。いつも、何とかなるだろうという根拠のない自信があって、実際に全額返しました。
仕事以外でも、例えば大学に入ってすぐの合コンで、素敵だなと思った女性の友達が、彼女に「あんなデブ」と言っているのを偶然聞いた時だって、落ち込むようなことは一切ありませんでした。思ったことはただ、「デブという日本語の使い方として間違っていないな」、それだけです。何しろ当時は100キロ近くあったんですから。その後も、何度も女性に振られましたが、これだって自分の魅力が足りなかったのだから仕方がない、こんな僕でもいいと言ってくれる女性を見つけようと、割合早めに次に向かいました。
いつもクールというか、より適切に言えばコールドに、淡々と自分のすることを見ている、もうひとりの自分がいるんですよ。
何かをやろうとしてできなかった場合、必ず原因があります。多くは、情報不足であり、慢心や思い込みによるものです。ならば、その原因を解消しなければ、また同じことが起きる。では、どう改善すればよいか。そもそも、自分に改善できるのか?
上手くいっている人がいるのに、自分は上手くいかない。まず、その原因を見極めます。どうやっても自分にできないことだったとすれば、チャレンジそのものが失敗だったということになります。
失敗すれば人は落ち込むものです。しかし、その過程を冷徹に見据える眼があってこそ、それを次に生かせるのもまた事実です。挫けそうな心に流されることなく、冷静に自らの失敗と向き合ってほしいですね。特に若い人は。
明日の第二十九回の質問は「Q29.生徒に特に戒めているようなことはありますか?」です。
※この記事は2月15日(水)までの限定公開です