哲学だけでなく生物学、天文学、物理学……など、様々な研究を行ったアリストテレスは「万学の祖」と言われている。アレクサンドロス大王の家庭教師だったことも知られているアリストテレスの学問体系は、没後1000年以上経ったルネッサンスが始まった頃のヨーロッパでさえ、基礎となっていたほどだ。
哲学者アリストテレスとはどんな人物だったのだろうか。生涯は、マケドニアとの縁によって背負った宿命と外国人排斥の機運に翻弄されたものだった。
逸話には事欠かない。
足が細くて、目が小さく、髪が短く(あるいは禿頭)て、いつも派手な服と指輪を身に着けていたと言われている。
弁論が重要な哲学者でありながらあまり滑舌が良くなく、舌がもつれるような発音をしていた。 熱いオリーブ油を溜めた風呂に浸かり、使用済みのオリーブ油を売っていた。青銅の玉を手に握って眠り、床に置いた皿に玉が落ちた音で目覚めるようにした……。
そんなアリストテレスは紀元前384年に、マケドニア王国支配下のスタゲイロスという都市で生まれた。
一族は代々マケドニアの王宮に使える医者で、父親のニコマコスもアレクサンドロス大王の祖父に仕えていた。アリストテレスとマケドニア王家は、代々縁が深かったのである。
だが、父が若くして亡くなったため、アリストテレスは親戚に預けられて育った。医者の一族だから、幼い頃から英才教育を受けていたのだろう。 17歳になったアリストテレスはアテネに行き、プラトンが創設した学園「アカデメイア」に入学した。
その頃はちょうど、プラトンが二回目のシチリア旅行をしていた時で、帰国するまでの間はエウドクソスという哲学者が学頭代理をしていた。アリストテレスはこの学園に約20年間在籍し、倫理学、幾何学、天文学などについてギリシア中から集まっていた哲学者たちと議論を交わすこととなる。 優秀で卓越した知性を発揮したアリストテレスを、プラトンは「学校の精神」とまで評した。 だが、プラトンの亡くなる前後の時期に、アリストテレスはアカデメイアを去ることとなる。
アテネを去り、親交の深かったヘルミアスの元へ当時はマケドニア王国の力が高まり、アテネでも煽動政治家によってマケドニア脅威論が声高に主張されていた。マケドニア出身で王家とも縁が深い外国人であるアリストテレスは、アテネに滞在し続けるのが難しい情勢となったのだろう。
アカデメイアを去るアリストテレスに対して、プラトンは、
「アリストテレスは私を蹴飛ばして行ってしまった。まるで仔馬が生みの母親をそうするかのように」
という言葉を残したそうだ。 いずれにしても、アリストテレスは次第に師プラトンの「イデア論」を批判する学説へ傾いていた時期でもあったので、アカデメイアを出て自分なりの哲学を探究する決意をしたのではないだろうか。
アカデメイアを去ったアリストテレスは、エーゲ海対岸のアソスという都市に移り住んだ。この都市の独裁者ヘルミアスはアカデメイアを訪れたことがあり、アリストテレスとも親交が深かったようだ。
ヘルミアスは奴隷の身から独裁者へとのし上がった人物であった。去勢されていたものの、アリストテレスと愛人関係にあったという話もある。やがて、アリストテレスはヘルミアスの側室と恋に落ち、ヘルミアスの許可を得て結婚した。結婚がかなった時のアリストテレスは大変な喜びようだったそうだ。
だが、アソスの街がペルシアに攻められたために、アリストテレスはレスボス島へと移り住んだ。ここでは生物の研究を行い、その成果が『動物誌』などの著作にまとめられた。
エーゲ海に住む海洋生物の観察や漁民からの聞き取り調査から、クジラやイルカが魚とは違って空気を吸っており、卵を産まずに妊娠して子供を産んで、授乳しながら育児を行い、寿命は30年ほどであるとする先進的な研究も行っている。