洒落本には、吉原など遊里の生態を活写したものが多い。
そんな洒落本のひとつ『青楼色唐紙』(文政十一年)に、吉原の遊女綾衣と唐松が客の男をめぐって大喧嘩をする場面がある。以下、わかりやすく書き直した。
綾衣は唐松に向かい、「ええ、よく人を馬鹿にしなんした。泥棒め、畜生め」と言い、悔し涙を流す。
唐松が言った。
「綾衣さん、なんざますえ。訳も言わずに畜生の何のと、人聞きの悪いことを。よしてもくんなんし」
「ええ、白々しい」
綾衣はやにわに唐松の髪をつかんで、その場にねじ伏せ、枕を手にして殴りかかる。
ここで、映画『幕末太陽伝』(川島雄三監督・昭和三十二年公開)を思い出した。品川の女郎屋を舞台にした映画だが、やはり遊女同士がおたがいに髪の毛をつかんで振り回し、大喧嘩をする場面があった。じつに迫力満点の、すさまじい光景だった。
遊女同士の大喧嘩はけっして珍しくなかった。
もちろん現代の職場でも、仲の悪い女性同士はいるであろう。しかし、口喧嘩くらいはあるとしても、まさか職場で女性職員が髪の毛をつかみ合い、手近にあった文房具で殴り合うなど、まず考えられない。
これはべつに現代の女性が「知的で上品」だからではない。要するに、環境に原因がある。
現代、職場に相性の悪い、あるいは仲が悪い同僚がいても、終業時間になれば退社し、翌日まで顔を会わせることはない。休日はいっさい顔を見ないですむ。職住分離しているおかげである。
ところが、妓楼(女郎屋)は職住接近だった。住む場所も働く場所も、同じ屋根の下である。遊女同士でいったん関係がこじれると、行きつくところまで行きがちだった。つまり、髪の毛をつかみ合っての取っ組み合いである。
さて、現代の風俗店で考えてみよう。
ある風俗店に初めて行ったとき、「A子さんなら、いま、あいていますよ」と勧められ、A子と遊んだが気に入らなかった。そのため次回、店に行ったとき、写真を見て、B代を指名した。
こうした遊び方に、どこからもクレームはこない。どの風俗嬢をえらぶかは客の自由であり、あくまで客に選択の自由がある。ところが、吉原ではそうはいかなかった。
吉原の妓楼でいったんある遊女を買うと、その妓楼では別な遊女を指名することはできなかった。客に選択の自由がないわけで、理不尽そのものといえよう。しかし、前述した事情を知ると納得できよう。
もし花魁(おいらん)同士が客をめぐっていざこざをおこせば、花魁はそれぞれ配下に新造や禿を従えているため、グループ同士の対立となった。
妓楼内で花魁グループが対立してにらみ合うような事態になれば、もうその妓楼は立ちいかなくなる。そのため、遊女同士が客を奪い合っていざこざをおこさないよう配慮し、吉原の妓楼は客に選択の自由をあたえなかったのである。
しかし、やはり男と女の世界である。