監修:武光誠
1950年生まれ。東京大学人文系大学院博士課程修了。文学博士。明治学院大学教授。専攻は日本古代史。著書に『日本人なら知っておきたい名家・名門』(河出書房新社)『日本人が知らない家紋の秘密』(大和書房)他多数がある。
「日本で最も重要な『家』といえば、天皇家と宮家ですね。名家というのは、その天皇家との結びつきが特に強い貴族の中から生まれました」
『日本人なら知っておきたい名家・名門』の著者であり、名家と名門に詳しい明治学院大学の武光誠教授はいう。
「天皇に娘を嫁がせて、天皇の外祖父になり、幼い天皇を補佐する摂政や、成人後も政務を担う関白として重きをなしたのが、“摂関家”略して“摂家”と呼ぶ5家の貴族でした。摂政や関白になれたのは、彼らの子孫だけだったのです」
天皇を中心とする貴族社会はおよそ200人ほどの小さな世界だった。五摂家とは、藤原道長から続く近衛家、そこから分家した鷹司家と九条家、九条家から岐れた二条家と一条家である。彼らは邸のある地名から近衛、九条などと呼ばれるようになり、それを名字とした。
「藤原の家名に縁のある藤の花は、摂家の九条家、二条家、一条家の家紋になり、それぞれ少しずつ意匠の異なる下がり藤紋を用いています」(武光さん)
近衛家は、中国から紹介された“百花の王”で富貴の象徴とされた豊麗な牡丹を家紋にした。鷹司家もこれに倣った。
摂家に次ぐ家格が院政期から鎌倉時代にかけて勢力を伸ばした「清華家」だ。中でも、西園寺家は、有職故実(朝廷の儀式や式典を研究する学問)に通じた家だったが、鎌倉幕府と朝廷の仲介役として活躍した。また、37代目の西園寺公望は2度首相を務め、大正から昭和にかけて、「最後の元老」として昭和天皇を支えた。
五摂家、九清華家などの名家に生まれた者は日本の中枢として重職をになったのだ。
<摂家の家紋>
●近衛家「近衛牡丹」
「枕草子」に、名おそろしきもの“ほうたん”と書かれた牡丹。鎌倉時代前期の「大要抄」に、近衛家の牛車の紋は《牡丹》とある。
●鷹司家「鷹司牡丹」
近衛牡丹より、中央の牡丹花が上から見た絵柄に近く、丸くて花弁が多い意匠。江戸時代になって菊紋、桐紋に次ぐ権威を持った。

●九条家「九条下がり藤」
源頼朝の信任を得た“最後の関白”藤原兼実(かねざね)に続く九条家。下がり藤で花房が向かい合い、蔓が巻きあがった意匠だ。

●二条家「二条下がり藤」
九条藤と異なり、紋の上部に三枚の藤の葉がある。藤の花房もやや小振りになっていて、中央の蔓は巻き上がらずに下がっている。

●一条家「一条下がり藤」
二条家の祖・良実(よしざね)の弟・実経(さねつね)が起こした一条家。三枚の葉を持たないが、その分、一つずつの花が大きい。

<清華家の家紋>
●三条家「唐花菱」
唐草が実際にはないように、「唐花」という植物はなく、大陸伝来の文様・図柄で、三条実行が家紋に定めたという。

●徳大寺家「徳大寺木瓜」
高貴な人物が身を隠す御簾に付けた《御簾裳額》は、牛車の紋として徳大寺実能(さねよし)の時代に用いられるようになったという。

●花山院家「杜若菱」
紫の花が美しい杜若(かきつばた)は平安貴族に好まれた植物。花と葉を上下に向かい合わせた菱形紋が花山院家に伝わる。

●久我家「五つ竜胆車」
村上源氏嫡流の久我(こが)家は源氏の家紋・竜胆を家紋にした。『餝称(かざりしょう)』には《竜胆多須岐(たすき)》を文様とした、とある。

●西園寺家「左三つ巴」
弓を引く左手首に付けた鞆に似た図像で、室町時代初期の「尊卑分脈」などによると、藤原実季(1032~1091)が定めたという。

●菊亭(今出川家)「三つ楓」
葉が蛙の手に似ている楓は、平安時代から文様や衣服の装飾に用いられた。

●大炊御門家「菱片喰草」
片喰草は繁殖力が強い赤紫や緑紫色のクローバーに似た小さな草で、優美な黄色い花が咲く。最も多く用いられた紋で、三葉が多い。

●醍醐家「一条下がり藤」
江戸時代の延宝7年(1679)に一条家から分家した醍醐家は、宗家と同じ「一条下がり藤」を家紋としている。

●広幡家「十六葉裏菊」
寛文4年(1664年)に正親町系の桂宮家から分家して源氏姓を得て創立した廣幡家は、十六葉の菊花を裏から見た家紋を用いている。
