監修:武光誠
1950年生まれ。東京大学人文系大学院博士課程修了。文学博士。明治学院大学教授。専攻は日本古代史。著書に『日本人なら知っておきたい名家・名門』(河出書房新社)『日本人が知らない家紋の秘密』(大和書房)他多数がある。
「明治維新で幕府を打倒した薩長土肥の“功臣”たちは“身分”が低かった」
と武光誠さん。そんな彼らは、明治2年(1869)、江戸時代の士農工商制を廃し、華族(旧大名家、公家)・士族(武士と卒)・平民の三族籍に国民を再編した。
「ヨーロッパの“貴族”ではなく、“華族”という新語が面白い。西洋文化を次々に翻訳していた影響もあるかもしれませんが、『貴』という言葉は律令にあって古いから、と嫌ったのかもしれません」
だが、“維新の三傑”といわれた大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允は成り上がり者(武光先生)で華族にはなれなかった(大久保は死後、華族に列せられた)。
明治17年(1884)の「華族令」は、改めて華族を《公・侯・伯・子・男》に序列付け、大久保、木戸の遺児を侯爵に叙した。また、西郷の遺児寅太郎も大日本帝国憲法発布(明治22年・1889)の大赦の際に侯爵になっている。
「明治天皇は西郷隆盛が大好きで、菊の紋を下賜しました。抱き菊の葉に菊紋の家紋を、西郷は一代限りのものにする、と遺言しました」
ちなみに、藤原氏の末流と称した大久保利通は三つ藤巴、木戸孝允は葉菊菱(桂小五郎時代は丸に三つ星紋)だ。
明治の新社会を導く新しい名家はこうして造られた。だが、それは多分に“政治的”なものだった。
「薩長閥は天皇の直属の臣として“枢密院議員”になり、やがて“元老”となって影響力をふるったのです」
明治時代後半以降、日清戦争、日露戦争を指導した軍人政治家たちが権力をふるうようになる。日本軍閥の祖・山縣有朋は、伯爵から侯爵、公爵へと位階が上がった。桂太郎は、韓国併合の功により公爵を授かった。
大久保利通の次男・伸顕は牧野家へ入り、内大臣・牧野伸顕伯爵として昭和天皇に仕えた。その娘婿が吉田茂だ。三男の利武は長兄・利和の養子となり、貴族院議員となっている。木戸孝允の甥・来原孝正は木戸家の養子となって東宮侍従長に進み、その子の木戸幸一侯爵は、牧野伸顕を継いで内大臣となり、昭和天皇の側近として重きをなした。
明治天皇を支えた英傑たちの子孫たちもまた、昭和天皇を支えたのが興味深い。
<維新三傑の家紋>
●大久保家「三つ藤巴」
藤の花を三つ巴にデザインした家紋。多くの藤原家支流によって用いられた藤紋は、下がり藤以外にもバリエーションが多い。
●西郷家「抱き菊の葉に菊」
天皇から菊紋を下賜されるのは豊臣秀吉以来のことで、菊の葉が向かい合わせに配されている。これ以前の西郷家の家紋は分からない。

●木戸家「菊菱に対い葉(葉菊菱)」
長州藩主毛利敬親から木戸姓を与えられ、菊菱に対い葉を家紋にした。菱紋とは斜方形が菱の実に似ていることからの命名。

<公爵に上り詰めた明治の政治家と軍人の家紋>
●伊東家「上がり藤」
下がり藤を嫌った家は、巻き花房が上を向いた上がり藤紋を用いた。博文の父が長州藩の中間・伊藤家に養子に入った後に用いた家紋。

●山県家「丸に三つ鱗」
魚の鱗をデザイン化した鱗紋は、「太平記」に北条時政の旗印として記され、北条一族が家紋に用いた。

●桂家「花菱」
唐花菱とも呼ぶ家紋で、幾何学図形の菱形を四等分した割菱と、花形を合わせて図案化した。「花菱」は実在しない。

●大山家「丸に隅立て四ツ目結」
布を染めるときに括って染め残す「目結」を紋章化。

●松方家「抱き菊の葉に抱き茗荷」
神仏の守護を祈願する「冥加」と音が同じ植物「茗荷」を図案化した家紋。茗荷は摩陀羅神(またらしん)の神紋だ。
