1月末に刊行され大きな話題を呼んでいる初の著書『Difficult?Yes. Impossible? ...No. わたしの「不幸」がひとつ欠けたとして』よりその半生や哲学を紹介する。■笑いの絶えない家族に訪れた衝撃
わたしが中学1年生のときに、父が経営していた牛乳屋が倒産しました。長男が小学6年生、次女・優は小学4年生。末の弟はまだ7歳の小学1年生だった頃です。
いたって、ふつうの家族でした。両親と4人の子ども。笑いの絶えない家庭。人並みに喧嘩をするきょうだい。妹とはよく喧嘩をした覚えがあります。違いがあるとすれば、多少、裕福なほうだった、ということかもしれません。
5月の休日。
滋賀県に暮らしているわたしたちにとって、湖畔はたのしい遊び場のひとつでした。
「今日はみんなで琵琶湖でも行こか」
父の一声で、家族6人は車に乗り込みます。きょうだい4人はただ遊びに行くものだと思って、はしゃぎっぱなし。いまふと考えるのですが、あの車内で両親は何を思っていたのでしょうか。
琵琶湖に到着すると、ピクニック気分のわたしたちは「石跳ねさすやつ」を始めました。小石を投げ、水面をはじく遊び。水切りをわたしたちは「石跳ねさすやつ」と言っていました。
何回水面をはじいたか、競い合いながら興奮していた、そんなときです。
「ちょっとみんなこっちに来てくれるけ?」
父が声を掛けました。何も予感していないわたしたち。特別な違和感もなく、ただ指示に従ったように思います。家族6人が集まり、輪になって父のほうを見ていました。
「今日はな、大事な話があるんや。
笑いの絶えない家族。父こそがその中心でした。笑顔で笑いジワのイメージしかない父の不安そうな目。初めて知る顔でした。
父の横にいた母は、気丈に振舞っているように見えました。
このときわたしは初めて、父と母と同じ場所に立っているんだと思いました。不安とかそうしたものより、変な言い方かもしれませんが、「対等」になった、と感じたのです。
わたしたちは何も言えずに黙って話を聞いていました。そもそもまだみんな小さくて、現実感や危機感を持つほどには理解できていなかったのだと思います。
【注目の女優・高橋メアリージュンの話題作。
大人になってから驚いたことがあります。このときの記憶があるのは長女のわたしだけかと思っていたのですが、ひとつ下の弟、3つ下の妹もこの日のことをはっきりと覚えていると言うのです。理解はしていなかったけれど、その先にある「何か」を感じ取っていたのでしょうか。
いずれにせよ、この「琵琶湖会議」―わたしはそう呼んでいます―は、いまにいたるまでの「高橋家にはお金がない」日々のスタートになり、またわたしたち家族にその意識をはっきりと植え付けることになりました。
高校生になってバイトができるようになれば、自分のお小遣いにするのではなく、自然と家へお金を入れていたし、社会人になってもそれは変わりません。
実際いまも、会社からいただいたお給料は、「高橋家」に一度入れています。そこから、両親がわたしたちに生活費として振り込む。この生活が15年近く続いています。
これを言うと、多くの人に驚かれるのですが、わたしにとってはふつうのことでした。そして、お金がない生活に不満を感じることもなかったのです。
きっと両親がわたしたちを大事にしてくれることを常に感じていたからなのだろうと思います。
「メアリーや他の子どもたちがそこまでする必要ある?」と言われたことがあります。確かに、ふつうとは違うのかもしれません。父に対し、注意をしたこともあります。
父が「死ぬまでにやりたい100のことリスト」を「家族LINE」で送ってきたことがありました(高橋家にはわたしがお願いして始めた「家族LINE」があります。その理由はのちほど)。その中のひとつに「仕事を引退して旅行に行くことが夢だ」という項目がありました。わたしは借金があることへの気持ちが先立ち、こう返信しました。
「それを叶かなえるにはお金が必要やなあ。そのためにはまず借金返さななあ。でないといつまでもこのままやろし、ウチはいつの間にかお金は子どもたちが入れるもの、という風潮になってるけど、子どもの『当たり前』を親が『当たり前』に思うのは違うしなあ」
わたしの言葉に対して、父がどう感じたかは分かりません。
でも、わたしたちは分かっているんです。
【注目度急上昇中。女優・高橋メアリージュンが綴った父と母とは?】■他人から見た不幸が自分の不幸ではない
父も必死だった。いつでも人のために時間を使う人でした。子どもたちをなんとか無事に育てようという使命感でいっぱいだった。父も70歳になり、弱音も吐きたくなるだろうし、そういう気持ちになるのは理解できるのです。
だからわたしは、自分のことよりも先に亡くなってしまうであろう両親にできる限りのことがしたい。これは美談でもなんでもなく、それがわたしにとって一番の救いになるからです。家族の幸せこそがわたしの幸せなのです。
子どもが親を選べないように、親も子どもを選べません。
わたしは高橋家に生まれ育ってきたことをとてもありがたく、誇りに思います。借金のことだけを捉えて「高橋家は不幸だ」と思われたくない。むしろ、そのことで手にしたことがたくさんある、と伝えたいと思います。
家族で苦難を乗り越えてきているからこそ、結束が強まったのは紛れもない事実です。高橋家6人、それを日々感じながら過ごしています。離れた場所にいようとも、その存在が、いまを、未来を信じて生きる原動力になっている。
他人から見た「不幸」を不幸だと思うことが一番不幸だと思うのです。
(著書『Difficult?Yes. Impossible?...No. わたしの不幸がひとつ欠けたとして』より再構成)