現在のラブホテルに相当する男女の密会の場を、江戸では出合茶屋と呼んだ。神社仏閣の門前町に多かったが、とくに上野の不忍池の周辺に密集していた。
写真を拡大 図1『絵本江戸土産』 出合茶屋で情交している男女を描いた春画には、たいてい窓の外に蓮の池が見えるが、これは不忍池を暗示しているといえよう。
図1は不忍池で、池のなかの中島には弁財天が祀られていた。中島を取り巻くように建ち並ぶのは、ほとんどが出合茶屋である。
さて、出合茶屋は吉原の区画内にもあり、これを裏茶屋と呼んだ。
吉原は江戸町一丁目、江戸町二丁目、伏見町、角町、揚屋町、京町一丁目、京町二丁目に分けられていたが、式亭三馬の文化八~九年の日記である『式亭雑記』によると、裏茶屋はそのころ、
揚屋町 4軒
角町 4軒
京町二丁目 1軒
あったという。
遊廓である吉原のなかにラブホテルがあるなど、奇異に思えるかもしれない。『古今吉原大全』(明和5年)は、裏茶屋を利用する者について――
と述べている。
吉原の芸者は客の男と寝るのは禁じられていたため、情交には人目を避けて裏茶屋を利用したのである。
引手茶屋や船宿の若い者は関連業者のため、客として登楼することはできない。
小間物売りや髪結、太神楽の芸人なども日ごろ商売で妓楼に出入りするため、登楼は禁じられていたのである。
芸者と客の男、遊女と各種出入り業者など、禁じられた関係の男女が裏茶屋を利用したといえよう。裏茶屋は、いわば吉原関係者御用達の出合茶屋だった。

図2は、戯作『両個女児郭花笠』(松亭金水著、天保7年)の挿絵で、桐屋という裏茶屋の外見である。同書は桐屋について――
路地の入口に桐屋という行灯を掛けたるは、これ裏茶屋の目印にて、奥をのぞけば門口にも同じさまなる行灯あり……(中略)……手水場へ行く入口にはギヤマンの簾をかけたり。すべて、このこしらえは雅俗を混じておつりきなり。と描写し、「おつりき」は「乙」で「粋」なこと。便所の入口に当時は高価なガラス製の簾を掛けるなど、随所に金をかけていた。
一見、目立たないようでいながら、小粋で瀟洒な造りである。まさに人目を忍ぶ男女の密会場所といえよう。
春本『春情妓談水揚帳』(天保七年)にも裏茶屋の場面があるが、部屋は五畳と押入れ。
男と女のあいだには、禁じられれば禁じられるほど燃えるという厄介な傾向がある。それは吉原でも同じだった。