聞き飽きるほど言われている、「日本人はプレゼン下手」。私は、専門としているネット依存や男性ファッションに関し、大勢を前に講演をする経験が何度もあり、そこそこうまいほうだという自負もあったのだが、その鼻っ柱は南国・フィリピンでへし折られることになった。

 それはなぜか。そして、日本人のプレゼンの何がまずいのか。私のフィリピンでの経験をもとに、人に聞いてもらえるプレゼンや講演をするための極意をお伝えしたい。

「パワポの文字が多すぎ、小さすぎ」

 そもそもなぜフィリピンに行ったのかというと、「東大で留学生を相手に、ネット依存から自力で脱却した体験について英語で講演する」という心臓が縮みあがりそうな仕事を、「学校を出て以来、英語には15年触れてない」という状況なのに、おもしろそうだと受けてしまったためだ。その講演に備えて、語学留学のためにフィリピンを訪れた。

 フィリピンは英語が公用語で、タガログ語をはじめとする現地の言語がいくつもあるが、公立でも小学校から授業は英語で行われる。街の人たちは普段は現地の言葉をしゃべっているが、英語で話しかけると、パッと英語で返してくる。日本人からすれば、まぶしいほどの英語力だ。そのため、フィリピンには日本人を相手にした、欧米やオーストラリア圏に行くよりも安価な英語教室が多くある。

 私は、そうした語学学校で「英語」を学ぶためにフィリピンに行ったのだが、今思うと、フィリピンで得たのは「英語」より「プレゼン技術」のほうが大きかった。フィリピンは公用語が英語なだけに教育も米国の影響が強く、語学学校の先生によると、学校の授業ではディベートやプレゼンの時間が多かったという。そんなプレゼン慣れした語学学校の先生たちの前で発表し、まず言われたのが「プレゼンのパワーポイントの資料の文字が多すぎ、小さすぎ」だ。

 しかし、この「プレゼンの映写資料に小さな文字びっちり」は日本のビジネスパーソンであればほとんどの人が見たことがあるだろうし、そういう資料をつくった覚えのある人もいるかもしれない。

 私は、そういった文字の多いプレゼンを見ると「ヘタだな」と思っていたので、あまり文字を多くしないのが自分のプレゼンの売りだと思っていたが、そんな私のプレゼンですら、先生たちにしてみればお話にならないくらい文字が多かったのだ。

 文字数を多くしてはいけない理由は単純だ。「文字数が多いと、聴衆は画面の文字を読んでしまう。聴衆が話し手を見なければプレゼンの意味がない」からだ。

 しかし、一方で、少なくない日本人が「びっちり、みっちりな映写資料」をつくってしまう理由もわからなくもない。「言うことを忘れたらどうしよう」という不安からだ。そのため、先生に「不安だから思わず文字が多くなる」と抵抗してみたが、「それは話者自身が練習で事前に克服するものである」と一刀両断にされた。確かに先生の言う通りであり、話者が自信のないプレゼンなど、誰が聞いてくれるのだろう。

“下書き”レベルのシンプルさでOK

 参考までに、私がネット依存に関する講演で実際に使っているスライドのひとつを以下に示したい。日本のプレゼンに慣れた人が見たら「下書きか?」と思うだろう。しかし、これで実際によく聞いてもらえているのだ。

 なお、このスライドで伝えたいメッセージは、「酒、たばこ、薬物は禁止といった、『対象の摂取を一切絶つ』という手段が取られるが、ネットを絶っては現代生活は成り立たない。ネットは『禁ネット』ではなく『節ネット』になるのが、その難しさだ」というものだ。

 そうなると、ついスライドのタイトルに「節ネットと禁ネットとは?」などと書いて、下に箇条書きで「禁ネットが難しい理由(1)、(2)、(3)……」とつらつらと綴りたくなるのだが、それをすると「読まれて」しまうのだ。

 それなら、せめて「禁ネットより節ネット」と書いたら、と思う人もいるかもしれないが、それでも読まれてしまう。ポイントは「文にしないこと」なのだ。あえて単語の羅列にすることで、「何が言いたいんだろう?」と話者を見てもらえるようになる。

 さらに、このスライドを見て「なぜ、もともとパワポに備え付けのカラフルな背景を使わないのか?」と思う人もいるだろう。私自身、背景のないパワポなんて、と最初は使っていたが、先生たちによく「背景がうるさい」と言われた。これも、多くの日本人がカルチャーショックを受けるところだと思う。ただマイクロソフトのデザイナーがつくってくれた背景を付けるだけで、「やった気」になってはいないだろうか。

プレゼンを聞いていると眠くなる最大の理由

「聴衆に話者を見てもらう」がプレゼンの基本中の基本だ。よって、「映写資料に文字いっぱい」はダメなのだが、さらにお話にならないのが「映写の資料をそのまま配布資料にすること」だ。

配ったが最後、全員が映写した画面ではなく、手元の配布資料を見てしまう。プレゼンで居眠りしてしまう人が多いのも、手元の配布資料を見てうつむく姿勢が長時間続くからではないだろうか。

 もちろん、中には内容が複雑や難解であるなど、配布資料が必要なケースもあるだろう。ただ、そうした内容でもないのに、映写資料を1から10まですべて印刷したものを律儀に配ってはいないだろうか。

 配布資料がなくても、伝え方次第で相手に印象を残すことはできる。

(1)プレゼンの冒頭で、プレゼンの全体像(目次のようなもの)を提示する

(2)章の最初で、章の全体像(目次のようなもの)を提示する

(3)章の最後に、章の全体像を再掲し、「これについてわかりましたね」とおさらい

(4)プレゼンの最後に、プレゼンの全体像を再掲し、「これについてわかりましたね」とおさらい

 上記のように、伝えたいポイントを絞り、さらに「おさらい」を入れることで、聞いている側に内容が定着しやすくなる。逆に言えば、「あれもこれも伝えたい」というのは、本人的にはいいことをしているつもりなのだろうが、「ダメプレゼン」のひとつだろう。

「あれもこれも」では聞いている側の印象がぼやけ、本当に伝えたいことが伝わらない可能性がある。「これについて伝えたい」と思えば、それ以外を捨てる勇気も必要だ。意地悪な見方をすれば、「あれもこれも」は伝えることの優先順位がついていないということであり、結局は「自信のなさ」の表れといえる。

 私は配布資料は極力配らないようにしているが、それでも内容的に資料が欲しい場合はウェブにアップし、そのQRコードを載せたビラを配り、講演の最後に「詳細を知りたい人は、このQRコードにアクセスしてほしい」と伝えたり、まとめ部分だけを配布したりしている。これらは「聴取をうつむかせない」ための工夫であり、実際に効果は高い。

 資料を配ると「やった気」になってしまうのも厄介だ。世界的講演会「TED Conference」で資料を配っている人なんて見たことがないし、そもそも多くの人は映写資料すら使わず、しゃべりだけで伝えている。正直、TEDのアメリカンな身振り手振りなどは日本人がやるには照れくさくなってしまうものもあるが、少なくとも「映写資料と配布資料に頼らない」だけで、「日本人のプレゼンはつまらない」という汚名は、かなり返上できるのではないかと思っている。

(文=石徹白未亜/ライター)

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