「中西(宏明)さん(前経団連会長、6月27日に死去)の遺言のようなものだから、誰も正面切って『ノー』とは言わなかったけど、やはり無理なんじゃないの? 4年はもたないかもしれないよ」(経団連の副会長経験者)

 通常の任期(2期4年)を1年残して退任した中西氏(前日立製作所会長)に代わり、6月1日に第15代日本経済団体連合会(経団連)会長に就任した住友化学会長の十倉雅和氏に対する評価は日に日に厳しさを増している。

 三菱電機の柵山正樹会長が十倉氏を訪ねたのは7月5日の昼前だった。

十倉氏はこの日、定例会見を予定していた。柵山会長は「当社長崎製作所で発覚した空調機器などの検査不正について『申し訳なかった』と陳謝した上で、9月末に調査結果が出るまでの間、経団連の定例会議の出席や宇宙開発利用推進委員会の委員長としての活動を控えたいと伝えた」(関係者)。

 十倉氏はこの日の記者会見で、「(柵山氏から)経団連副会長辞任に関する発言はなかったのか」と問われると、「我々としては見守りたい。経団連は裁判所ではないので」と答えた。三菱電機の自主的判断に任せる考えで、厳しい見方をするなら「思考停止をした」(関係者)。

 新型コロナウイルス感染拡大で日本経済は深刻な打撃を受けていたが、中西氏は闘病生活が長引き、経団連としてタイムリーな提言などを行うことができず、情報発信力は低下の一途をたどっていた。

 三菱電機の検査の不正は35年以上にわたっていたことが6月末に発覚した。鉄道車両向けの空調装置は米英など海外にも輸出されており、鉄道インフラの輸出にも影響が出始めている。今回発覚した不正検査は、架空データを自動で生成する専用プログラムが使用されるなど極めて悪質。日本の製造業の評判を著しく毀損することになりかねない案件だった。

 十倉会長は、いきなりリーダーシップを問われる場面に直面したことになる。にもかかわらず、「進退はご自身で判断を」との受け身のスタンスだった。

「これでは何もしないに等しい」(別の経団連の副会長経験者)とまでいわれた。

 自浄作用が働いた前例はいくつもある。平岩外四・第7代会長(東京電力会長、当時)の任期中の1991年、損失補填など一連の証券不祥事の責任を問われ、野村證券会長だった田淵節也副会長を辞任させた。奥田碩・第10代会長(トヨタ自動車会長)時代の2002年には、東京電力の原子力発電所の点検記録改ざんの責任を取るかたちで東電会長だった荒木浩氏が、国後島のディーゼル発電施設の不正入札などで三井物産会長だった上島重二氏が、それぞれ経団連副会長のポストを返上している。

 三菱電機も1998年前後に発覚した総会屋への利益供与事件や巨額赤字の責任を問われた当時の会長、北岡隆氏が任期途中で経団連副会長の退任を余儀なくされた。豊田章一郎・第8代会長(トヨタ自動車会長)の時である。

 平岩氏、豊田氏、奥田氏といった“大物会長”の在任中には、それなりのけじめがつけられていたのである。ところが、昨今の経団連はメンバー企業の倫理を厳しく問う姿勢が緩い。十倉・経団連は求心力の回復を図る意味でも、受け身の判断はあり得なかった。

菅首相と十倉氏、頻繁に会談

 菅義偉首相は7月18日午後、首相公邸で十倉氏と会談した。十倉氏は終了後、記者団に「定期的に意見交換し、経済界や経団連のことも聞いていただきたいと申し上げていたが、今日がその1回目になった。非常に有意義なので継続して意見交換するようお願いし、快諾をいただいた」と述べた。

 菅首相は8月18日、東京・千代田区の経団連会館を訪れ、新型コロナウイルスの感染抑制について十倉氏と会談した。菅首相は「さまざまな業種もあり難しい点もあると思うが、テレワークの協力をお願いしたい」と述べ、出勤者数の7割削減を要請。十倉会長は「会員企業に周知徹底を働きかける」と応じた。経団連は会長名の要請文を会員企業に改めて送付する。

 財界の菅首相離れが取り沙汰され始めているなか、レームダックの感が強い2人がたびたび会うのは、それなりの理由がある。菅氏から見れば十倉氏なら組みやすい。「何を言っても言うことを聞く」と判断したからにほかならない。榊原定征・第13代経団連会長は“安倍(晋三前首相)さんのポチ”と揶揄された。十倉氏は“菅さんの忠犬”になり下がったのだろうか。

三菱電機の病理

 そもそも柵山氏の経団連副会長起用には強い違和感があった。三菱電機は2014~19年に過労やパワハラによる自殺などで社員6人が労災認定を受けた。ゴム製造子会社トーカンでの検査データ捏造の発覚(18年)、サイバー攻撃により新型ミサイルの性能など防衛関連情報が漏洩した可能性の浮上(19~20年)、欧州(EU)規制に適合しない車載用オーディオ部品の出荷(20年)など、トラブルが続出していた。

ガバナンスの欠如が再三指摘される始末だった。

 柵山氏は14~18年に社長の座にあり、相次いだ労災問題についてはトップとして責任を負う立場にあった。だが、三菱電機は情報開示に消極的で、柵山氏自身が正面切って、この問題に取り組む姿勢を見せることもなかった。

 柵山氏の前任の社長、会長を歴任した山西健一郎氏が17~21年に経団連副会長を務めており、柵山氏は三菱電機枠を引き継いで副会長になった経緯がある。人選の過程で不祥事続きの三菱電機は厳しいチェックの対象になったはずだが、経団連の事務方が三菱電機の副会長の“世襲”を容認した図式が見えてくる。

 経団連の副会長のポストは企業なら取締役会のボードメンバーにあたる、重要なポストのはずだ。それなのに、三菱電機の副会長の“世襲”は深い議論がなされることもなく決まった。中西前会長の名代として権力をふるった久保田政一事務総長はその功績が認められ、中西氏の最後の人事で6月1日付で経団連副会長に昇格した。

 経団連の会長は、かつては政界に物申す立場から財界総理と呼ばれた。十倉氏は、どのような決意をして、経団連会長の椅子に座ったのであろうか。

(文=編集部)

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