「昭和」を生きたビジネスマンにとって、「塩路一郎」の名は、自動車労連(現・日産労連)の会長として23万人の組合員の頂点に君臨し、生産現場はもちろん、経営中枢にまで影響力を及ぼす一方、週末は女連れでヨットに興じ、「労働貴族」と命名された豊かな暮らしぶりが記憶されているだろう。
塩路に権力を与えたのは、日本興業銀行から終戦後に日産自動車に入り、1957年から73年まで社長を務め、「日産中興の祖」といわれた川又克二だった。
塩路が頂点を極めていた84年、果敢に戦いを挑んだ「7人の侍」がいた。彼らは、労使関係の正常化に乗り出した石原俊社長(77~85年)のもと、社内の反塩路派を糾合する一方、マスコミを巧みに使って塩路を揺さぶった。塩路の“悪行”は広く知れ渡り、ついに塩路は組合内部から「退陣要求」を突きつけられるに至り、86年、すべての公職を辞し、組合活動から引退した。
『日産自動車極秘ファイル2300枚』(プレジデント社/以下、本書)は、「7人の侍」の中心メンバーだった川勝宣昭が広報室課長だった80年頃から7年をかけて戦った記録であり、2300枚の極秘ファイルは川勝家の軒下のキャリーケースに眠っていたものである。「戦いの記録を本にしませんか」と、編集者が声をかけたのが1年前の17年12月。かつての仲間の賛同を得て、「難攻不落の権力者を倒す課長たちの物語」の執筆に入ったのは18年6月頃からだった。
くしくもその頃、日産の後輩たちが、絶対権力者のカルロス・ゴーン会長を倒すべく、「司法取引」を使って東京地検特捜部の捜査に協力することを決めた。仲間を糾合するまでの川勝の行動には、「塩路を倒さずにはいられない」と鬼気迫るものがある。
●日産という会社の事なかれ主義
塩路の労働貴族ぶりが一気に知れ渡るのは、84年1月発売の写真週刊誌「FOCUS」(新潮社)の記事だった。『日産労組「塩路天皇」の道楽――英国進出を脅かす「ヨットの女」』というタイトルの記事には、塩路の公私混同ぶりが書かれており、凋落の一因となった。
本書では、「FOCUS」記事の企画を持ち込んだのが川勝で、まず最初に三浦半島のマリーナで写真が撮られ、その女が「銀座ホステスのヨウコ」であるという情報だけを頼りに、毎夜、銀座に立ち「ヨウコ」探しを続け、数百万円を費やし、2カ月後、ついに突き止めたという川勝の執念のエピソードが明かされている。
川又-塩路時代の日産に欠けていたのは、「企業はどうあるべきか」というガバナンスである。労使のなれ合いが塩路という怪物を生み、「組織防衛、組織操縦の天才」だった塩路に、人事権や管理権、場合によっては経営権まで委ね、塩路の増長がもたらす腐敗と歪みを、経営陣は見逃した。
それは今につながっている。塩路切りに立ち上がった石原は、「7人の侍」を有効に使い、労使関係を正常化させたが、後継の久米豊社長のもと改革は中断。辻義文、塙義一と続く社長のもとジリ貧が続き、99年、約2兆円の有利子負債を抱えて仏ルノーと資本提携、ゴーンに再建を託した。
リバイバルプランを成功に導いたゴーンは、18年もの長きにわたって日産を支配する間に腐敗して、経営を私物化した。「権力が腐敗する」のは、時代も民族も問わない。
そして今回、立ち上がったのは「ルノーへの身売りというゴーンの変節に怒った日産の一部経営幹部」であり、その怒りに同調したのは、検察との司法取引に応じた専務執行役と元秘書室長だった。
塩路とゴーン――。時代背景もよって立つものも違うが、長く権力を握るうちに会社を私物化していったのは同じで、経営幹部が彼らを恐れ、ガバナンス不全の会社にしてしまったのも同じ。前回は一課長の「たった1人の争い」が「蟻の一穴」となり、経営トップの決断もあって労組支配は崩壊したが、今回はどうか。ガバナンスを取り戻すのに司法権力を使うのは前代未聞だが、西川廣人社長は正面からの戦いは無理と判断して検察に駆け込んだ。
その判断の成否も含め、日産という会社と事件の背後にある事なかれ主義の底流を知るのに最適の本だろう。
(文=伊藤博敏/ジャーナリスト)