余談が命というすこぶる変わったミステリーである。

『ポケミス読者よ信ずるなかれ』(田村義進訳、ハヤカワ・ミステリ)は、TVプロデューサーで新聞記者などの職歴があるダン・マクドーマンのデビュー作である。

先日馬伯庸『両京十五日』二部作で通番2000を数えることになったハヤカワ・ミステリだが、愛称のポケミスが題名につけられるのは初めてだ。ポケミスの愛称が広まるのはいいことだが、あくまで正式名称は〈ハヤカワ・ミステリ〉なのでよろしく。校閲でも間違える人がいるんだよね。

 それはともかく、本作は語りの技巧が駆使された作品である。翻訳ミステリーのご多分に漏れず、本叢書も巻頭に登場人物表があるのが通例なのだが、まずそれがない。最初の「木曜日」と題する章が「このマーダー・ミステリは、ほかのすべてのマーダー・ミステリと同様、読者が"雰囲気"と見なすものを呼び起こすことから始まる」という一文から始まる。

なぜそういう出だしなのかを作者は解説する。情報提供の仕方がミステリーの肝であり、小説全般に共通する重要事項なのである。最初の段落は「すべての小説は謎解きだから。すべての読者は探偵だから」と結ばれる。

 これでわかるように、作者は読者に対し、この小説を見たとおりに受け止めないように、と警告し続ける。その部品がどういう意図で置かれているかを考えるべきだし、作中人物に同化して物事を見聞するだけでは不十分で、作品の中で彼もしくは彼女がそういう情報を得たということは、俯瞰的に見た場合、推理にどういう方向付けを与えるかを検討したほうがいい、と注意を促すのである。

 物語は、その時点ではまだ名前が明かされない私立探偵と依頼人が、郊外にあると思われるクラブハウスに連れ立ってやってくる場面から始まる。後に、私立探偵がクラブに起きている事態を調査するために雇われたことがわかる。この程度はネタばらしにはならないのでご安心を。舞台となる建物の紹介は単純に登場人物の視点で叙述されるのではなく、読者である〈あなた〉が、それをどう読んでいるかという作者による推測という形で行われる。「あなたの鋭い視線は、主人公の目がクラブハウスを観察しているのを見てとっている」というように。主人公の注意がワイン・セラーに向けられると「あなたはそれがポーの『アモンティリャアドの酒樽』を思い起こさせるディテールだと思っているにちがいない」という推測が述べられる。

 作中の主人公による観察や会話があり、それを〈あなた〉が俯瞰で眺めており、その背後に幽霊のように語り手が立って、読者の思考をいちいち代弁していくという形式で進行していく。だから読んでいると、作者に頭の中を読み取られているような、不思議な感覚がある。表現の誤用になるが、身の置き所がないというか。落語の「粗忽長屋」よろしく、「読んでいる俺は確かに俺だが、作者に読まれている俺はどこのどいつだろう」と言いたくなる。

 プロローグに当たる章がかなり進行してからようやく登場人物表が公開される。だが、この表は、一部が黒塗りになっている。

「ジョン・ガーモンド......ウェスト・ハート・クラブの会長。黒塗り」という具合に。これは登場人物が嘘を吐いているからである。初登場した際にそうだと見えた姿は、だいたい真実からは隔たっている。裏の顔について、巻頭に置かれる登場人物表は書くことができない。だからそこは黒塗りになっているわけである。
本書ではミステリーにおけるもっとも重要な原則はフェアプレイであることが再三注意喚起される。書き手はそれを忠実に守ろうとしているという態度表明が、黒塗りの登場人物表になっているわけである。

 私立探偵はアダム・マカニスという名前だ。彼がクラブに入っていって、メンバーにあれこれと質問していく序盤は、物語としては正直平板である。アガサ・クリスティー的な性格劇の技巧に優れた書き手とは言えず、要素の呈示に留まった感がある。しかしそれでも読まされてしまうのは、ここまで書いてきた作者による注意喚起の数々に興味を惹かれるからだ。

想定読者「あなた」として物語の中に呼び出され、これはこうだ、だがそう信じていいのか、といちいち作者から問い質される。挙句の果てに作者は、物語の進行を一時中断し、ミステリーにおけるルールとは何かというコラムのような文章を挿入するに至るのである。これが冒頭で書いた余談だ。「T・S・エリオットは五つ、ホルヘ・ルイス・ボルヘスは六つ、ロナルド・ノックスは十(有名な"十戒")、S・S・ヴァン・ダインは二十のルールをあげている。アガサ・クリスティーはもちろんすべてのルールを理解しているが、ほとんどのルールを見事に破っている」と綴られるこの余話を、読まずに飛ばすことができるはずがない。ちなみにこのくだりに関して、小山正氏の解説は素敵なボーナストラックを準備してくれているので必読、ただし本文の後で。

 これ以外にもさまざまな形で脱線が行われる。たとえば唐突に、文章問題が挿入されるというような形で。余話はゲームにおけるセーブポイントのようなもので、そこで読者は進行中の物語について、立ち止まって考えをまとめるように促される。しろうと探偵が事件に遭遇したときに作る、謎のリストのようなものなのだ。ロールプレイングゲームのプレイヤーは、一定のロールを演じるキャラクターに同化しつつ、自分がその登場人物に名前をつけ、一個の人格を与えた操作者であることも理解している。それと近い形で、読者は主人公アダム・マカニスとの距離感を意識させられることになるのである。

 本作における最大の驚きはページが八割方進行したところで訪れる。その後の展開は、欧米の読者にとっては驚天動地のものだった可能性があるが、百花繚乱の技巧が花開いた日本においては、それほどの衝撃はないかもしれない。Amazonレビューに得々と、「先例があるから感心しなかった」とか書き込む顔が見えるようだ。だが、驚いた読者が上げる声の大きさを比較することは重要ではなく、その趣向によって浮かび上がる構図がどこまで精巧かつ無矛盾に組み立てられているかを問うべき作品なのである。なるほどそうきたか、の後に続くべきは、よし、作者がどれくらいうまくやったか見てやろう、であるはずだ。

 うまくやっている、と思う。かなりうまくやっている。いや、とてもうまく。

(杉江松恋)