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Text by 山元翔一
Text by よろすず



坂本龍一が発表した数々の音楽作品を紐解く連載「追悼・坂本龍一:わたしたちが聴いた音楽とその時代」(記事一覧はこちら)。



第11回の書き手は、Shuta Hiraki名義で音楽制作も行なうライターのよろすず。

Alva Noto、Fenneszとのコラボレーションを取り上げた前回に続き、クリストファー・ウィリッツ、テイラー・デュプリーと協働を振り返る。



坂本龍一 追悼連載vol.11:エレクトロニカの季節——テイラー・デュプリーらと模索した「音楽」のその先

坂本龍一(さかもと りゅういち) / Photo by zakkubalan ©2022 Kab Inc.
1952年東京生まれ。1978年に『千のナイフ』でソロデビュー。同年、Yellow Magic Orchestra(YMO)を結成。散開後も多方面で活躍。2014年7月、中咽頭がんの罹患を発表したが、2015年、山田洋次監督作品『母と暮せば』とアレハンドロ・G・イニャリトゥ監督作品『レヴェナント:蘇えりし者』の音楽制作で復帰を果した。

2017年春には8年ぶりとなるソロアルバム『async』を発表。2023年3月28日、逝去。同年1月17日、71歳の誕生日にリリースされたアルバム『12』が遺作となった。



Fenneszとの『cendre』がリリースされた2007年には、ラップトップによる音響加工を駆使する正に「エレクトロニカ以降」の感性を持ったギタリスト、クリストファー・ウィリッツとの共作『Ocean Fire』もリリースされている。



対面での即興的なセッションをベースに、ファイル交換による編集を経て完成した本作では(*1)、ウィリッツがギターとラップトップ、坂本がピアノとラップトップを用いているのだが、その仕上がりがAlva NotoやFenneszとの共作と大きく異なっている点が印象深い。



具体的には坂本のピアノがそれとわかるかたちで聴こえてくる箇所がほとんどなく、作品の大部分が帯状のドローン的音響によって構成される作風となっている。



本作は後に紹介するテイラー・デュプリーの主宰レーベル「12k」と「commmons」の共同リリース。「マイクロスコピック・サウンド」と形容される微細な電子音響作品(※)のリリースからはじまった「12k」は、この時期、グリッドの放棄や楽器の積極的な導入などによってドローン的なサウンドの溶解、ひいてはアンビエント性の誘致(いわゆるアンビエントドローンの時代)へと本格的に変化していく渦中にあった。本作のサウンドは正にこの流れに符号するものでもある。



本作は両者の音がつづれ織りとなり溶け合うような作風のため、収録曲から「音の所在」(どちらが出した音か)をはっきり掴むのが難しい。しかしウィリッツ単独の作品に比すると和声が重厚で、そこに坂本の趣向が色濃く表れているように感じられる。



坂本のピアノ演奏から感じられる和声の感覚は、Alva NotoやFenneszとの共作においても作品の色づけに決定的な役割を果たしていたが、本作ではそれがドローンという形態で発揮されている。

その結果、翳りやロマンティシズムを抱き込んだアンビエントドローン、という両者のキャリアのなかでも一風変わった仕上がりに結びついた。



そしてテイラー・デュプリーとのコラボレーション制作は、『Disappearance』(2013年)にて初めて実現する。



前述した「12k」の方向性と同じく、主宰者のデュプリー自身の作品においても、2000年代の半ばからグリッドの放棄やアコースティックな音響の積極的な導入が行なわれていた。2010年代に入ってからは、その方向性を携えて他者と即興的なアンビエントセッションや共同制作を行なうことが増えており(※)、本作は絶好のタイミングで実現した共演に思えた。



本作におけるアコースティックな音響、それも楽器の音とは異なる「もの」の軋みや擦れなどのいわゆる「雑音」に分類されるような音の混入は、これまで紹介してきたコラボレーションにない特性だろう。



坂本龍一 追悼連載vol.11:エレクトロニカの季節——テイラー・デュプリーらと模索した「音楽」のその先

Ryuichi Sakamoto & Taylor Deupree『Disappearance』アートワーク(Bandcampを開く



これまでも坂本は弦を直接弾いたり、ボディを叩くなどしてピアノから「物音」を引き出すことはあったが、本作では演奏空間で意図せず発されたものも含めて、より広く雑音を演奏に取り込もうとする意識が窺える(おそらくデュプリーもさまざまな物音を出していると思われる)。



加えて、エフェクトやテープループ化(ワウやフラッター、ヒスノイズの混入)によってハーモニーをたわませることで音の存在感をぼやかす、というデュプリーが得意とする手法も本作では活用されており、それらが相まって靄のように全体像が掴み難いサウンドスケープが生成されている。



こうしたサウンドの特性は、空間を柔らかく満たすような心地よさを持つと同時に、坂本の弾くピアノのサウンドの明瞭さをより印象深く浮かび上がらせる。



結果としてここでの坂本のピアノは、これまで紹介してきた作品に比して、和声的な特色などよりまず先に硬く鋭い音の質感を認識させるものとなっており、それはまるで肌が不意に冷たい金属に触れるようである。心地よいサウンドスケープによる微睡の感覚と、意識に食い込むようなピアノによる覚醒の感覚。本作はそうした振れ幅を持ったアンビエント作品ともいえるのではないだろうか。



なお、坂本はAlva Notoとのコラボレーションにおいて、自身の弾いたピアノの音がそれ以外の電子ノイズなどと判別できない「物理現象」として知覚される経験をたびたび語っている(*2)。

しかし私にとっては本作こそが、坂本のピアノの音から「ハンマーが弦を叩く」といった物質性がもっとも強く知覚される作品であった。



ここまでAlva Noto、Fennesz、クリストファー・ウィリッツ、テイラー・デュプリーとのコラボレーションを実現した順に紹介してきたが、彼らとの関わりはどれも一作では終わらず、継続的なものとなったことも重要だろう。



Alva Notoとは「V.I.R.U.Sシリーズ」のあとも『レヴェナント: 蘇えりし者』(2015年)、『Glass』(2018年)、『Two』(2019年)、Fenneszとは『flumina』(2011年)、クリストファー・ウィリッツとは『Ancient Future』(2012年)、テイラー・デュプリーとは『Perpetual』(2015年、Illuhaも含めた3者のコラボ)、『Live in London』(2016年にLP、2020年にデジタルでリリース)と多数のリリースが続く。



なかでもAlva Notoとの関わりは、作品制作から演奏ツアー、映画音楽での共同など多岐に渡っており、2000年以降の坂本にとって、もっとも重要なコラボレーターであったといっても過言ではない。特に『Glass』のサウンドは、両者の出会いからこの時点までの関係の変化が反映されたかのように互いの音が判別し難く溶け合っており、晩年の坂本の作品のなかでも特に感慨深い。



これらのコラボレーションにおいて坂本は、ピアノを用いていても安定したリズムやメロディーをあまり奏でず、ときにまばらに和音を落とすことに終始し、作品によっては電子ノイズやアコースティックな雑音を積極的に放ち、構築的な思考や作曲技法をあえて持ち込まず、自身の素朴な好みを探るように音に接していた印象がある。



浅田彰は坂本龍一の訃報後の取材(*3)において、氏のキャリアを見渡しながら、特に『async』や『12』を指して「最後に自分の音楽に到達した」と語っている。その「到達」は今回紹介したコラボレーション作品を追い、そこに探求を聴き取ってきた私にとっては、仰々しい表現を用いる必要がないほど自然な延長線上の一点に思えた。



そう、おそらく私にとっては坂本龍一は初めから、「自分の音楽を鳴らしている」人であったのだ。