ネリとの壮絶な打ち合いを見せた井上。初回には「らしくない」場面も見られた。

(C)Takamoto TOKUHARA/CoCoKARAnext

勝ち方に誰よりもこだわるからこそ――

 世界で「怪物」と認められる男にしか務まらない興行のメインマッチであり、誰もが酔いしれ劇場は幕引きも最高すぎるものだった。5月6日に東京ドームでは34年ぶりに実現した井上尚弥(大橋)とルイス・ネリ(メキシコ)による世界戦だ。

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 もっとも、本人には、少なからず気負いがあった。

「自分にとって、東京ドームでやることにパワーをもらっていた。その分、プレッシャー、重圧もあったと今、振り返ると思う。入場してきた時に景色を見て、舞い上がってはいないけど、浮き足立ったというか、そういう感じだったかなと。振り返ればそういうシーンもあった」

 試合後の会見でそう振り返ったように、井上の様子は、入場時からいつもと違ったように筆者には見えた。

 布袋寅泰氏の生演奏による旋律に彩られた花道に立った井上は、眼前に現れた大観衆を何度も見渡した。4万3000人もの観衆が集まった東京ドームは、そのほとんどが自身を後押ししている圧倒的ホーム。そんな光景が“怪物”の重圧となったのは想像に難くない。

 さらに相手がネリだったのも、井上から普段の冷静さを失わせたのかもしれない。

 2017年と18年にWBC世界バンタム級タイトルマッチとして山中慎介氏と対戦した際に、ドーピング違反と体重超過を犯したネリ。今回の試合開催にあたって、当時に日本ボクシングコミッション(JBC)から科されていた日本での活動停止とライセンス申請の剥奪という処分は解除となったものの、日本ボクシング界にとっての「憎き奴」という印象は拭えていなかった。

実際、彼の名がリング上でコールアップされた際には、大ブーイングがこだました。

 いわば山中氏の敵を討ってほしいというような空気は確かにあった。井上自身はかねてから「正直、自分にとって日本での過去の因縁を持ち込んで試合をしようという気はない」と立場を明確にしてきたが、ネリの自身に対する挑発的な言動もあり、いつも以上のアドレナリンが出てしまったのかもしれない。

 勝ち方に誰よりもこだわりを持つ井上だからこそ、自身でも「これ以上にない」と語る舞台は、気づかぬうちに集中力を奪った。結果、注目のオープニングラウンドでネリの一発を被弾する。身体を密着させた近接戦で左アッパーを放った直後、ふと隙が出来た顎に左フックをモロに受けたのだ。

 井上は身体を反転させるようにキャンバスに飛んだ。

4万人が酔いしれたドラマ 無敵の井上尚弥がネリに“倒された”舞台裏 不世出の怪物を飲み込みかけた重圧「ダウンがあったからこそ」

ネリとの壮絶な打ち合いを見せた井上。初回には「らしくない」場面も見られた。(C)Takamoto TOKUHARA/CoCoKARAnext

二の矢、三の矢は打たせなかった完璧な危機管理

 34年前、無敵のヘビー級王者に君臨していたマイク・タイソンも、ノーマークだったジェームズ・ダグラスの猛攻に東京ドームで沈んだ。そんな“世紀の番狂わせ”が脳裏をよぎったファンからは悲鳴にも似た声が上がった。それは共鳴し、ドームを異様な雰囲気にさせた。

 この時、「寿命が縮まった」という大橋秀行会長はこう語る。

「初回は力んでいた。冷静に、冷静にと思っていたけど、あの時間に倒されたら普通は無理ですよ。初回のパンチって効くから」

 ただ、「ダメージはさほどなかった」という井上はスッと上体を起こすと、リング上に膝をついた姿勢を維持。カウントのギリギリまで立たず、約8秒後にファイティングポーズを取った。そして「OK」と口にした。ここで完全に頭は切り替わったのだろう。

 当然、一気呵成に畳みかけるネリは猛ラッシュを展開。だが、井上はしっかりとガードを固め、要所ではクリンチ。さらにボディへのジャブとアッパーも放ち、カウンターへの警戒を強めさせ、追撃を許さず。次第に勢いを失った相手を前にし、モンスターは笑みを浮かべていた。

 完璧な危機管理で二の矢、三の矢は打たせなかった。そして初回を“逃げ切った”井上は「ポイントを計算していこうかなと。

2ポイントリードされているので」と冷静に2ラウンド目に向かった。

 そこからは、まさに「井上劇場」だった。

 ポイントでも優勢に立ったネリが繰り出す必殺の左を軸にした攻撃も、得意のバックステップで軽くいなす。モンスターに同じ技は二度も効かない。それを体現するかのようにチャンプは軽快にリング上を駆けた。そして何度か左フックをかわしたタイミングだった。お返しとばかりに左フックを炸裂。ダウンをもぎ取るのだ。

「ダウンでひとつチャラにできた。同等にまず立てる。気持ち的にもリセットできた」

 形勢が逆転したのは、数字も如実に物語る。井上のパンチ率は1ラウンド目こそ33.3%だったのが、2ラウンド目は56.8%、3ラウンド目は51.4%と劇的に向上。さらに強打率も1ラウンド目の46.2%から、2ラウンド目に60%にまで上がった。

 次第に心身を擦り減らしていったネリに対し、完全に主導権を握った井上。4ラウンド目の途中には右手で自身の頬を叩き、「ここに打ってこい」と挑発したかと思えば、その直後に右ストレートと左ボディをかますパフォーマンスを披露。さらに瞬間的にノーガードモーションも見せ、ふたたびニヤッと笑った。もういつものモンスターだった。

4万人が酔いしれたドラマ 無敵の井上尚弥がネリに“倒された”舞台裏 不世出の怪物を飲み込みかけた重圧「ダウンがあったからこそ」

ネリにダウンを奪われてから冷静を取り戻した井上。(C)Takamoto TOKUHARA/CoCoKARAnext

敵なしの偉才は、いったいどこまで最強の道を歩むのか

 そして、5ラウンドに完全にネリの戦意を削ぐ。

 わざとロープを背にし、何とか反撃の糸口を模索する相手を誘い出した井上は左フックを一度繰り出してから、身体をわずかに沈めて、またも左フック。この連打にネリもたまらず膝から崩れ落ちた。

 趨勢はこの瞬間に定まっていたのかもしれない。何とか気力で立ち上がったネリをいつ仕留めてもいい状況を作り出した井上は、6ラウンドに今度はコーナーに追い詰め、左ジャブ、右アッパーのコンビネーションから、最後は渾身の右ストレートをバシッと炸裂。頭がロープから飛び出るほどの衝撃的な一撃を食らったネリは呆然。咄嗟にレフェリーもTKOを告げた。

 あのネリを打ち破った――。直後に東京ドームは観客が総立ちとなり、割れんばかりの大ナオヤコールが巻き起こった。誰もが井上に酔いしれた。

 日本のボクシング界、いやスポーツ界にとっても、歴史的な一日は、これ以上にないフィナーレで締めくくられた。

「あのダウンがあったからこそ、こういう戦い方ができた。自分の中でも激闘と言える試合が見せられた。これでまたひとつキャリアを築けたのかなと思う」

 単にネリとの勝負というワケにはいかなかった一戦。想像し難い外圧とも向き合い続けた井上は、自身へのプレッシャーをも飲み込んだ。この敵なしの偉才は、いったいどこまで最強の道を歩むのか。

「強くなりたい」

 その一心で覇道を突き進む井上。次戦はIBF&WBO世界同級1位の実力派サム・グッドマン(豪州)との対戦が決定的となっているが、右肩上がりに進化を続ける無敵の怪物ならば、軽々と乗り越えてしまう気がしてしまう。

[文/取材:羽澄凜太郎]