今期夏ドラマでひときわ毎週SNSを沸かせていた『愛の、がっこう。』(フジテレビ系)が全11話を以て最終回を迎えた。
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■ゆっくりと進んだ最終話
それにしても不思議なテンポ感の最終話であった。全体的に決着がつききっていない関係性に対して一つずつ締めていくように、ピエタス女学院と生徒たち、川原“なにがし”(中島歩)、百々子(田中みな実)らとの対話が順々に描かれていく。
正直、生徒たちに囲まれて罵詈雑言を浴びせられる愛実(木村文乃)が泣きながら、それを愛の裏返しと解釈して受け止める、というのはあまりにも愛実というキャラクターの読解力と人間性に頼りすぎているのではないかと思ってしまうものの、何かしらの対峙は必要だったことも理解できる。愛実が教師として、担当する生徒ひとりひとりに対する詳細なメモを残していることも映されていたので、それが彼女たちを理解していることへの小道具として生きてくるのだ。
“なにがし”こと川原洋二は、第10話の時点で随分好感度を取り戻し、そのまま憎めないキャラクターとして物語から退場した。バス停にいた外国人観光客に応援されながら愛実の連絡先を消すシーンでは、震える指元が彼女への想いが本気だったことを暗示している。そんないじらしさが愛おしい彼との電話を切ると、今度は親友の百々子と向き合う愛実。川原も彼女も、愛実とカヲル(ラウール)の関係を最初は反対していたが、今や二人の背中を押すような存在となった。「この恋は、誰にも祝福されない。」というキャッチコピーから始まったことを振り返ると、本作は全話を通して祝福する者が増えていく物語構成になっていて、最終的に後述する愛実の父・小川誠治(酒向芳)の発言まで、とても感慨深い。
しかし、意外なことに百々子との対話では女友達同士のある意味“正直”でビタースイートなやりとりが印象的だった。「愛実が抜けててどんくさいから、あたしそれ見て自信つけてたとこあるんだよね」とぶっちゃける百々子に対し、「やっぱり?」とあっけらかんと答える愛実。百々子はもともと知らずに愛実の元カレと関係を持った過去がある。それを許した愛実に対して「私が一生守る」と誓っていた。本筋のプロット(愛実とカヲルの恋物語)に直接関係がないものの、こういう関係性の女ともだちの友情について、これほどまでに実直な言葉で言い表すと言う選択も、なんだか井上脚本らしい生々しさだ。
さて、そんなふうにサブプロットを片付けていくかのようにゆったりと進む最終話。特にカヲルが美容学校の試験を受けるという、目に見えた試練が登場し、試験当日は愛実と学校の階段で抱き合うなど、なんだか希望的で多幸感あふれる描写が多かった。ところが、その試験結果が「不合格」とわかってから一気にギアがかかる。
■凄まじすぎた、ラウールの演技
試験結果を受けて、ソファにしなだれるカヲル。外から漏れる光が顔を照らし、そこに流れる一筋の涙を強調する。この泣きの表情だけでも素晴らしいのに、そこから愛実が押しかけた時のラウールの“顔”の作り方が本当に凄まじいのだ。顔を見て話せないので、ベッドに移動して心の丈を打ち明けるカヲル。
「俺さ、ずーっと人からガッカリされてきたもん。親だけじゃないよ」
「先生には…。先生にだけはガッカリされたくないんだよね」
話しているときの目の動き、彼の独白を受けて隣にきた愛実の言葉に対して嗚咽が出そうになるのを必死に堪えたり、堪えきれなかったりする演技。そういった“悲”から、涙も涎(よだれ)も垂らしまくって声を荒げる“怒”という表裏一体の感情表現を繊細にやってのける。その迫力に、シーンそのものが揺さぶられ、木村の演技も引き上げられたように思えた。
部屋を追い出す際の体のひっぱり合いから、靴や荷物を投げ出すタイミングまであまりにも完璧で、一体どんなふうに撮影したのか気になってしまうような怒涛のシークエンス。もうこれができるなら、ラウールという俳優は何でもできてしまうのではないかとさえ思える。再び夜の世界に戻り、酒に溺れて屋上で倒れる場面も魅力的だ。彼は笑うように泣き、泣くように笑う。キャラクターの感情を画面越しの私たちに強烈に浴びせる、そんな説得力のある彼の演技に次の出演作への期待が高まってしまった。
■想像を超えた展開、“愛された記憶”を扱う物語として
脚本家の井上が物語を終わらせたくなかったように、二人は最後の最後まですれ違い、最後の最後でようやく再会する。物語の作り手が、キャラクターとの別れを惜しむかのようにギリギリまで引き延ばされたラストシーンは、第6話の最後にカヲルが負ったけがなど、なんとなく漂わせていた死の匂いを払拭し(筆者は正直カヲルが死んでしまうのではと思っていた)、予想以上に希望的で愛の溢れたものだった。
砂浜で再会し、愛実の「愛」の字が間違えていたことに気づいたカヲルは、いつかにしたように、砂浜にたくさん書いて練習する。ここで重なる愛実の“愛の記憶”についての独白。それは物語を通して、これまで二人にとって対照的なものとして描かれてきた。カヲルは母親から愛された記憶もなく、おそらく過去の話をしながら撫でられた時に父親だと確信した松浦小治郎(沢村一樹)からもそれを否定されることで、結果的に二度も拒絶されてしまった。カヲルにとって“愛の記憶”とは、常に期待された上での失望 、痛みだった。
一方、両親から大事に育てられ “愛された記憶”を持つ愛実は、それが勇気になる場合もあれば逆にそれに囚われて苦しむこともあることを体現してきた。“愛の記憶”なんて、それが慈愛に満ち溢れたものだろうと、執着だろうと、痛みだろうと、人それぞれであること。しかし誰かから愛を注がれたことがあるものがその分、誰かに(そして自分自身にも)与えられるように、やはり“愛された記憶”は勇気となり、その有無が人生の選択にも影響を与えるほど大きいものであると、カヲルと愛実の対比を通して本作は語るのだ。改めて考えると、元婚約者に愛されず、自死を選びかけた愛実の口から語られる「愛された記憶があれば人は生きていく勇気が湧(わ)く」という言葉には重みがある。
さて砂浜に文字を書く動作で思い起こされるのは、第1話でも触れられていた石川啄木の短歌だ。「大という字を100回砂に書いたら、死ぬことがバカらしくなって帰ってきた」という意味のこの歌の中で、愛実の「大」についての解釈は第1話では濁されていたが、最終話でそれが「大きすぎて背負いきれない夢」だと明かされた。つまり、最終話でカヲルが何回も何回も書いた「愛」は、愛実の瞳には彼にとって “大きすぎて背負いきれない夢”として映っているのだろうか。
それでも、物語の結末はあまりにも甘美で優しい。あの厳しかった父・誠治が主夫となり、妻・早苗(筒井真理子)が出かけた後、昼ごはんを用意するラストシーンで、彼は3人分のうどんを用意していた。「ちょっと大盛りかな」と言う様子から、おそらくカヲルと愛実のために準備しているのだろう。そんなふうに少しずつ祝福されながら彼らの“愛”が、今後も続いていくと願ってやまない。
(文:アナイス/ANAIS)
ドラマ『愛の、がっこう。』は、TVer、FODなどで見逃し配信中。
※「初めて連ドラで、ラストシーンを書き終えたくないと思った。『愛の、がっこう。』脚本・井上由美子インタビュー 女子SPA!
(参照 2025‐9‐17)