有村架純主演のドラマ『中学聖日記』(TBS系)が話題を呼んでいる。

 もちろん、“話題”というのは、いい反響もあれば、そうでない意見もあるということだ。

一体、視聴者は、このドラマのどこに惹かれ、また、違和感を感じているのだろうか。

 言うまでもなく、一番大きく取り上げられているのは、「教師と生徒」の恋愛を描いているという点だ。“問題がある”と感じている人も、そこをクローズアップしている人がほとんどである。

 しかし、この「生徒と教師の恋愛ドラマ」は、今回初めて作られるわけではない。1993年に真田広之と桜井幸子が主演し、2003年には藤木直人と上戸彩で再ドラマ化された『高校教師』(同)や、滝沢秀明と松嶋菜々子主演で99年に放送された『魔女の条件』(同)など、その時代時代に作られ、そのたびに話題となっているのだ。

 今回は、それらの作品を取り上げ、共通点や違いなどを比較することで、そのドラマが作られる意味について考察してみたい。


『高校教師』は、32歳の教師・羽村隆夫(真田)が、女子校に赴任するところから始まる。そこで出会った高校2年の生徒・二宮繭(桜井)と恋に落ちるというストーリーだ。しかし、物語は彼らの恋愛だけにとどまらず、近親相姦や、教師による強姦、同性愛など、センセーショナルな題材がこれでもかと盛り込まれ、見ていて衝撃を受けっぱなしだったのを覚えている。

 続いては『魔女の条件』。26歳の教師・広瀬未知(松嶋)のクラスに、他校で問題のあった高校2年の生徒・黒澤光(滝沢)が転校してくる。そこで二人が愛し合うようになるというもの。
こちらは、二人の関係や、周囲からのバッシングなどをメインに描き、高視聴率を獲得した。

 そして今回の『中学聖日記』。25歳の教師・末永聖(有村)と、中学3年生の生徒・黒岩晶(岡田健史)の恋愛を軸に物語が展開されている。正直、先の2作品ほどの人気にはなっていないが、このご時世にデリケートな問題を丁寧に扱っている点では、評価していいと思う。

 3つのドラマは、「教師側が男性か女性か」という視点や「生徒が中学生か高校生か」という視点などで分類することができる。しかし、まず考えてみたいのは、先生役と生徒役の「どちらがアイドルか」という点である。


 言うまでもなく『高校教師』は、生徒役である桜井がアイドルである。内容が衝撃的すぎて、当初予定していたアイドルに断られたという逸話もあるこのドラマ。しかし、当時19歳の桜井は、他の誰にもできなかったであろうと思わせるほど、主人公・二宮繭にハマっていた。ある意味、この作品によって、アイドルから女優に成長したと言えるかもしれない。

『魔女の条件』については、やはり生徒役の滝沢がアイドル側だろう。松嶋もアイドル的人気があったとはいえ、どちらかといえば、女優としての見方が大半であった。
滝沢のその後の活躍については、周知のとおりである。

 そして今回の『中学聖日記』だが、生徒役の岡田健史は、今回がデビューということもあって、アイドル的な人気があるのは断然、有村架純の方だろう。彼女が、今後大人の女優として脱皮していく、きっかけになりうる作品だと思う。

 このように、アイドルがこの手のセンセーショナルな役を演じることには、メリットもデメリットもある。それだけの難役をこなしたという演技力で認められることは、今後俳優を続けていく上で、大きなメリットになる。反面、その役の印象が強く、その後伸び悩んでしまうという危険性もあるのだ。
その意味で、『中学聖日記』の今後も盛り上がりを期待したいところだ。

 それでは次に、それぞれが放送された時代、社会はどのような時期だったかを見ていこう。

『高校教師』が話題となった93年、世の中は何か閉塞感のようなムードが漂っていた。バブルの崩壊によって景気が悪くなり、日本で政権交代が起きるなど、「今までにないものを求める」気持ちが強かったように思う。そんな中、暗い中にもわずかな光を見つけたいという気持ちが、視聴者の中に存在していたのではないだろうか(ちなみに、このドラマが放送されていた時期に、有村架純は生まれている)。

『魔女の条件』が放送された99年は、言うまでもなく「ノストラダムスの大予言」による終末思想が高まっていた時期だ。
ドラマの主題歌「First Love」を歌った宇多田ヒカルのブレイクや、モーニング娘。の「LOVEマシーン」のヒットなど、新しい時代の到来を感じさせた時期でもある。

 それでは、『中学聖日記』が作られている現代の状況はどうだろう? 政権は安定し、ネットのインフラも充実、昔に比べれば実に便利な世の中になった。しかし、将来に対する漠然とした不安は拭えない。そんな中でこのドラマは生まれた。

 3つの時代に共通していえるのは、日本人が不安や苦しさを感じる中で作られているということだ。これは単なる偶然だろうか……?

 これらのドラマを表する中で、しばしば「純愛」という言葉が使われる。人間は、心の中に多くの打算や配慮を抱えて生きている。恋愛も、結婚もそうだ。「この人が好き、ずっと一緒にいたい」そんな気持ちがありながらも、「この人といれば経済的に安定するだろう」「この結婚は自分のキャリアに有益だ」などの感情も必ず入ってくる。

 それらを表現するのに使われるのが、婚約者の存在だ。『高校教師』では渡辺典子、『魔女の条件』では別所哲也、そして『中学聖日記』では町田啓太が、それぞれ婚約者として登場する。皆、主人公にとって有益な人物だ。

 そんな人たちをある意味“裏切って”まで、生徒との恋愛に走る。そこで「純愛」を際だたせることができるのだ。

 つまり、「生徒と教師」という、話題になりそうな設定は、あくまでもドラマを見せるための「仕掛け」でしかない。制作者側が本当に描きたいのは、打算や思惑を超えて、お互いに惹かれ合う魂の物語なのだ。それこそ、混迷する時代の要請によって生み出されたものといえるだろう。

 その証拠に、先の2作品では、いずれも「命」について考えさせられるエピソードが描かれている。『高校教師』のラストは、二人の心中を思わせるシーンで終わったし、『魔女の条件』では、未知のお腹に宿った命が失われてしまうというエンディングだった。

「教師と生徒が恋に落ちる」、そんなセンセーショナルな設定に苦情を言いたくなる気持ちもわかる。しかし、そのドラマが生まれた思いや、時代背景を考え、そこに描かれた本質を見極めることこそ必要なのではないだろうか?

『中学聖日記』は、今のところ「命」にまでは言及していない。しかし、批判が多いであろうことを承知の上で、それでも制作者は挑んでいることと思う。今後、物語がどう動き、どんな魂の物語を見せてくれるのか、それが楽しみなのである。

(文=プレヤード)