──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

『鎌倉殿』では見せない実朝の「スピリチュアル」な一面と、渡宋...の画像はこちら >>
和田義盛(横田栄司)|ドラマ公式サイトより

 『鎌倉殿の13人』第41回「義盛、お前に罪はない」は、「和田合戦」と、「忠臣」和田義盛(横田栄司さん)の壮絶な散りざまが描かれました。しかし、鎌倉幕府始まって以来の規模の内乱のさなか、複数のキャラが想像もしないような動きを見せてくれたので、悲劇一色で終わる内容ではありませんでした。

 鎌倉のメインストリート・若宮大通で和田軍を迎え撃った北条泰時(坂口健太郎さん)たちですが、古代ギリシア・ローマ時代の戦士のように陣列を組み、民家の板戸を盾代わりにしながら和田勢のほうにジリジリと迫っていったシーンは、シリアスな場面だったにもかかわらず、思わず笑ってしまいました。

 『鎌倉殿』では冷徹な文官として描かれてきた大江広元(栗原英雄さん)も、今回は笑ってしまうほどにすごい武勇を見せつけてくれました。「鎌倉殿の証しのドクロ」を御所に忘れてしまった実朝(柿澤勇人さん)の代わりに、敵に占領された御所に立ち戻るという捨て身の奉公ぶりを政子(小池栄子さん)から感謝され、「このこと、生涯忘れませぬ」と言われた広元は、政子の手を握って「お任せを」と決め台詞。御所に戻った広元は、屈強な兵士たちを相手に実に華麗な大立ち回りをこなしていましたが、北条政子への「愛」ゆえの発奮だったのでしょうか……。第35回で実朝の行方がわからないと御所で騒動になった際、広元と政子がなんとなくいい雰囲気を見せ、目撃した実衣(宮澤エマさん)がびっくりする……という場面があったこともあり、ネットでも、広元が無敵の強さを発揮したのは、「政子ちゃんパワー」によるものではないかと見る声がありました。

 今回は、「ふだんの生活空間が戦場になる」という究極の非日常の中で、それぞれのキャラクターが隠し持っていた一面があらわになるという演出が面白かったですね。

 それにしても、和田義盛の討ち死にには驚かされました。『鎌倉殿』において武蔵坊弁慶(佳久創さん)は伝承通りの「立ち往生」を見せることはありませんでしたが、義盛がそうなってしまったのですから……。

 三谷幸喜さんは和田義盛と源実朝の関係を、シェイクスピアの『ヘンリー四世』における怪力自慢のベテラン軍人フォルスタッフと、彼の「親友」だったハル王子の関係に見立てて描いたそうです。これは『鎌倉殿』で義盛役を熱演してきた横田栄司さんのインタビュー記事からの情報ですが、横田さんの台詞回しが朗々としていたのは、シェイクスピアの舞台を意識したものだったのかもしれませんね。フォルスタッフといえば、欧米ではジャンルを超えて愛されるキャラクターで、19世紀末にはイタリアのヴェルディが彼を主人公にしたオペラを書いています。『鎌倉殿』の義盛の討ち死にを受け、ネット上に「義盛ロス」が広がったのも、そういう意味では当然といえるでしょう。

 『鎌倉殿』の北条義時は、義盛という奸臣を討ち取ったと宣言しながらも、本心ではやはり複雑だったようです。悪人になりきれない義時の揺れ動く心を、小栗旬さんが実によい演技で見せてくれていました。

 ただ、そんな義時の本音は実朝には伝わらず、ラスト近くの二人の対面シーンで義時は、「こたびのことで考えを改めた」という実朝に「心を許せる者はこの鎌倉におらぬ」と突き放されてしまいます。今後の政は「強きお人」である京都の後鳥羽上皇に相談していくとの方針を聞かされた義時は、その場で表情を変えることはなかったものの、退場していく彼の足音はやけに刺々しく響いており、まるで舞台を見ているような面白さがありました。

 次回・第42回「夢のゆくえ」は、実朝が実際に建造させたという「唐船」の話を中心に、実朝と義時の対立が表面化する内容となりそうです。予告には、実朝が「父上がつくられたこの鎌倉を、源氏の手に取り戻す」と決意を新たにする場面も出てきました。

次回は、頼朝(大泉洋さん)との対面を、「頼朝は殺生を重ねた大悪人」と彼の罪深さゆえに拒んだ陳和卿(テイ龍進さん)が、ドラマに再登場するようです。(1/2 P2はこちら

『鎌倉殿』では見せない実朝の「スピリチュアル」な一面と、渡宋を熱望した理由
源実朝(柿澤勇人)|ドラマ公式サイトより

 『吾妻鏡』において、陳和卿は「これ東大寺の大仏を造れる宋人なり」として紹介されていますが、実際の彼は職人というより、職人たちを率いて、主に宗教建築に取り組む建築家もしくはプロデューサー的存在でした。その技量は、天竺(インド)において工芸・建築を司る神「毘首羯摩(びしゅかつま)」に喩えられるほどだったとか。

 建保4年(1216年)、そんな陳和卿が鎌倉まで実朝のことをわざわざ訪ねてきたときに起きた不思議な出来事は、『吾妻鏡』に詳しく描かれています。陳和卿は実朝に対面すると「当将軍に於いては、権化の再誕なり」といって、滂沱の涙を流しました。陳和卿は、実朝の前世が宋の阿育王寺(現在の中国・浙江省寧波市)の高僧であり、自分(の前世)はあなたの弟子だったと主張し、実朝もそれに応えるように、「建暦元年(1211年)6月3日の丑の刻(午前2時)」という具体的な日時を挙げて、「私もあなたと同じ内容の夢を見ていたのだが、これまで誰にも言ったことはなかった」と驚愕の発言をしています。

 現代人には実に怪しいやり取りのように思えますが、『吾妻鏡』には頻繁に「夢告(=正夢)」で未来を予言し、それを的中させる霊能力者・実朝の姿が登場しています。『鎌倉殿』ではおそらく意図的に実朝のスピリチュアルな側面は描かれていませんが、実朝の予知能力は「和田合戦」についても発揮されており、戦の約1カ月前の時点で、実朝は偶然見かけた二人の武士が近い将来、敵と味方に分かれ、両名とも戦死するだろうと予言し、的中させています。『吾妻鏡』建暦3年(1213年)4月7日の記録です。

 実朝の家集(=和歌の作品集)として知られる『金槐和歌集』も、都の貴族のように花鳥風月を詠んだ作にまじって、龍神に雨を止めてくださいと祈って成功したときの歌や、神仏に懺悔したときの歌など、スピリチュアルな内容の歌も少なからず収録されているのです。

 そういう内面を持つ実朝でしたから、陳和卿という“良き理解者”を得て、前世の自分が暮らしていた宋の阿育王寺に行ってみたいと思い立ったとしてもおかしくはありません(阿育王=仏教を保護したことで有名なインド・マウリア朝のアショーカ王)。

 こうして実朝は、広元や義時の制止も聞かず、宋に渡航するための巨大な船舶を陳和卿の手で造らせることにしました。

予告映像を見るかぎり、ドラマでは職人キャラの八田知家(市原隼人さん)が計画に加わっている様子ですが、史実でも腕のある御家人たちも造船に協力していたかもしれませんね。

 実朝は渡宋にあたって同行者60人を選出しましたが、こうした“派閥形勢”は、第二代執権として鎌倉幕府の権力を掌握しつつあった義時への反抗の表れだというようにしばしば語られています。『鎌倉殿』の歴史考証を担当している坂井孝一氏も、陳和卿と夢のお告げについて語り合ったのは実朝の「政治的パフォーマンス」として考えているようですから、『鎌倉殿』も実朝による渡宋計画のことを、実朝と義時の不仲の象徴として描くような気がします。

 史料を丹念に読み込んだ毛利豊史氏による論文『幻の渡宋計画─実朝と陳和卿』では、実朝が自ら渡宋し、阿育王寺に行くことにこだわった理由として、同寺に保管されているお釈迦さまのお骨、つまり「仏舎利」の一部を自らの手で鎌倉に持ち帰ることで幕府の権威をさらに高める狙いがあったのではと推察しています。

 当時、仏舎利は単なる「お釈迦さまの遺骨」であることを超えて、持ち主の運命の吉凶を体現し、増えたり減ったりするものだと考えられていたそうです。霊的な存在である仏舎利は、それ自体が信仰の対象ですらありました。

仏舎利は寺院が秘蔵するものだけにとどまらず、後白河院や九条兼実といった権力者、そして実朝の父の頼朝なども個人で所有していたことが知られており、仏舎利に彼らは守護されていたという考えも当時はありました。

 頼朝が持っていたなら、それを頼家や実朝は受け継げなかったのか?と思ってしまいますが、おそらく頼朝が亡くなった時、遺骨と共に仏舎利も埋葬されたのでしょう。

 しかし、陳和卿と会う前に、実朝はすでに仏舎利を所有していたこともわかっています。建暦2年(1212年)、実朝は、自分の祈祷僧にしてメンターでもあった栄西から仏舎利三粒を譲り受けたという記録が『吾妻鏡』にはあります(ちなみに栄西も実朝の霊的能力を高く評価し、彼を『西遊記』で有名な玄奘三蔵法師の生まれ変わりだと信じていたそうです)。

 ですから、三代鎌倉殿であると同時に宗教的な存在でもあった実朝が、師匠である栄西のように、宋まで出向いて仏舎利を直接譲り受けたいと願っても不思議ではないわけです。

 実朝は「和田合戦」の後、治世を安定させるべく世継ぎをもうけるべきと大江広元から進言されていますが、この時、「源氏の正統この時に縮まり終はんぬ。子孫敢へてこれを相継ぐべからず」(『吾妻鏡』)という予言をしています。「自分には子供を作ることができないから、父・頼朝以来の源氏将軍の正統は終わるだろう。遠縁の源氏の子孫を連れてきて継承させることもしてはならない」と訳せる意味深な言葉でした。

 先述の毛利氏の仮説のように、実朝の渡宋計画は仏舎利獲得計画だったと考えるのであれば、(理由は明らかではないにせよ)子供が作れない代わりに、頼朝らとは違う形で鎌倉幕府に貢献しておきたいと願い、その思いが彼の強引な渡宋計画として表れたとも考えられるでしょう。

 『吾妻鏡』によれば、義時は実朝の渡宋計画に反対したとされますが、読者はこれを妥当と取るでしょうか。それとも意外と取るでしょうか。よく言われるように実朝との関係が本当に悪化していたのなら、義時はむしろ賛成していたかもしれません。実朝が鎌倉から長期間いなくなってくれるのなら、そのほうが好都合だからです。

 いずれにせよ、渡宋計画は実現することはありませんでした。陳和卿が製造していた「唐船」はいちおう完成はしています。しかし、建保5年(1217年)4月17日、由比ヶ浜で進水式を執り行った際、数百人が見守る中、まともに進水できぬままに船は座礁、その後も浜辺で朽ち果てていく巨体を晒し続けるという、実に不名誉な結末となったのです。

 結末だけを見れば、陳和卿のやったことは、実朝を焚き付け、多額の費用を投じさせたにもかかわらず、結果的に実朝の夢を潰し、あまつさえその権勢に傷までつけたわけで、陳和卿は(京都からの?)刺客だったと考えられなくもありません。なにより彼の「その後」を語る史料はなく、義時の手で殺されてしまったのではという説もあり、非常に物騒です……。

 ドラマでは実朝と陳和卿の語り合いや渡宋計画はどのように描かれるのでしょうか。実朝と義時の関係がどうなっていくかも併せて注目したいと思います。

<過去記事はコチラ>

『鎌倉殿』でも暗躍を見せる三浦義村の“裏切り”と「和田合戦」後の思わぬ“誤算”──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ...

『鎌倉殿』では見せない実朝の「スピリチュアル」な一面と、渡宋を熱望した理由
『鎌倉殿』では見せない実朝の「スピリチュアル」な一面と、渡宋を熱望した理由
日刊サイゾー2022.10.30『鎌倉殿』の愛されキャラとは違う和田義盛 実朝とも親しい“やり手の政治家”ぶりが仇に?──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ...
『鎌倉殿』では見せない実朝の「スピリチュアル」な一面と、渡宋を熱望した理由
『鎌倉殿』では見せない実朝の「スピリチュアル」な一面と、渡宋を熱望した理由
日刊サイゾー2022.10.23『鎌倉殿』の政子は「悪女」にならない? 史実の「嫉妬の怪物」ぶりとのギャップ──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ...
『鎌倉殿』では見せない実朝の「スピリチュアル」な一面と、渡宋を熱望した理由
『鎌倉殿』では見せない実朝の「スピリチュアル」な一面と、渡宋を熱望した理由
日刊サイゾー2022.10.16『鎌倉殿』では名場面でも…史実の時政追放は「庶子」義時によるクーデターだった?──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ...
『鎌倉殿』では見せない実朝の「スピリチュアル」な一面と、渡宋を熱望した理由
『鎌倉殿』では見せない実朝の「スピリチュアル」な一面と、渡宋を熱望した理由
日刊サイゾー2022.10.09『鎌倉殿』の愛されキャラとは異なる、「知性と剛腕を兼ね備えたリーダー」北条時政──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ...
『鎌倉殿』では見せない実朝の「スピリチュアル」な一面と、渡宋を熱望した理由
『鎌倉殿』では見せない実朝の「スピリチュアル」な一面と、渡宋を熱望した理由
日刊サイゾー2022.10.02