『いまだにファンです!』(テレビ朝日系)Twitter(@imadanifan)より

 12月4日放送『いまだにファンです!』(テレビ朝日系)にて行われたのは、「80年代最強!チェッカーズVSシブがき隊SP」と題した特別企画であった。

 どちらも80年代に絶大な人気を誇ったグループだが、シブがき隊はジャニーズファンをターゲット層に捉えた王道アイドルで、チェッカーズはシブがき隊では届かなかった男性ファンも獲得した、アーティスト色の強いアイドルバンドである。

 両者のファンが登場し、タレント本人とともに両グループの足跡を振り返る、というのが今回の趣旨だ。この日、スタジオにはシブがき隊から布川敏和が、チェッカーズからは鶴久政治が登場した。この手の企画に出演するのは、両グループともにいつも布川と鶴久である。

 さらに、ファン代表として、シブがき隊側からは田中律子が、チェッカーズ側からは西村知美が登場した。田中は筋金入りのモックン(本木雅弘)ファンだし、山口県出身の西村は福岡で結成されたチェッカーズに憧れやすいパーソナリティの持ち主でもあった。そういえば、モックンファンだった高田万由子がシブがき隊の追っかけをやっていたというエピソードも有名である。

「ギザギザハートの子守唄」の100位圏外は“予定通り”

 まずは、シブがき隊のほうからご紹介。番組は、当時のシブがき隊のパフォーマンス映像を流し、「現代のジャニーズといえば歌もダンスもキレッキレだが、シブがき隊は歌もダンスもイマイチ」と、いきなり揶揄し始めた。

 ジャニーズ史上、バク転をできないアイドルといえば、野村義男(ザ・グッバイ)、堂本剛らがいるが、その代名詞といえばシブがき隊だった。『ザ・細かすぎて伝わらないモノマネ』(フジテレビ系)にて、「大技を決めそうで決めないシブがき隊」というネタが登場したが、本当に3人ともバク転はできなかった。

 とはいえ、シブがき隊はスタートダッシュが物凄い。1982年にデビューした彼らは、1stシングル「NAI・NAI 16」で25.9万枚を売り上げ、日本レコード大賞やFNS歌謡祭(当時は賞レース制だった)など同年の新人賞をほぼ総ナメしている。

 3人が生徒役で出演したドラマ『2年B組仙八先生』(TBS系)が82年3月で終了、約1カ月後に電光石火でデビューしたグループだっただけに、世の追い風も尋常ではなかったのだ。

 一方のチェッカーズは83年にデビュー。実は彼ら、アイドル業界では不作と言われる83年デビュー組なのだ。デビュー前の藤井フミヤは国鉄に勤務しており、シブがき隊とは「自分たちのほうが年上だけれど、芸能界のキャリアとしてはシブがき隊より後輩」という関係性であった。

 チェッカーズのデビュー曲は、言わずと知れた「ギザギザハートの子守唄」である。当時、幼稚園児だった筆者は『おはようスタジオ』(現在の『おはスタ』、テレ東系)でこの曲を歌うチェッカーズを目撃しており、5~6歳なのに「♪ちっちゃな頃から悪ガキで~」と無邪気に歌う自分をたしかに記憶している。それくらい、この曲はキャッチーだった。女性バージョンで例えると、相川七瀬「夢見る少女じゃいられない」のようなものか? 

 しかし実はこのデビュー曲、発売当初のランキングは100位圏外だったのだ。同時期、シブがき隊の7th「挑発 ∞」は4位にランクインしていたから、チェッカーズからすればシブがき隊は雲の上の存在だ。

 そして、チェッカーズは84年に2ndシングル「涙のリクエスト」をリリース。こちらは67.2万枚を売り上げ、オリコン2位に入る大ヒットに。さらに、3rd「哀しくてジェラシー」ではついにオリコン1位を獲得! すると、「ギザギザハートの~」にも注目が集まり、85年5月にはオリコン史上初、3曲同時ベスト10入り(1位「哀しくて~」、5位「涙の~」、9位「ギザギザハートの~」)という快挙を成し遂げている。

 当時の『ザ・ベストテン』(TBS系)で、1日のうちに3度登場するチェッカーズの姿は筆者もなんとなく覚えている。彼らは本当にブームだったし、ヒット曲も多数なので、逆にどれが代表曲かわかりにくいという特徴も持っていた。

 鶴久曰く、デビュー曲「ギザギザハート~」とブレイクをもたらした「涙の~」の両曲には、驚くべき裏話があるそう。

「プロデューサーの狙いなんです。『涙のリクエスト』は聴いた感じ入りやすいけど、インパクトがない。『ギザギザハート~』で不良をやってた奴が歌詞とマッチングし、それを全国的に広めた後に、『涙のリクエスト』が絶対にヒットする……って、プロデューサーが言ったんです。(『ギザギザハート~』がヒットしなくても)『焦るな、焦るな、2枚目来るぞ』みたいな(笑)」(鶴久)

 つまり、『ギザギザハート~』リリース時の不発も、3曲同時ランクインも、計算通りだったのだ。

「でも、このデビュー曲(『ギザギザハート~』)を僕らは大っ嫌いだったんです。これをもらったとき、フミヤさんは『これって演歌ですか?』とポロッと言って。(プロデューサーは)『我慢して歌え。でも、売れたら好きなことなんでもやっていいから』って」(鶴久)

 初めて「ギザギザハート~」を聴かされたメンバーたちは、そのメロディーに首を傾げ、「小林旭の歌みたいだ」と感じた……という逸話は、今も語り草である。

結局、チェッカーズとは藤井フミヤの人気であった

 止まらないチェッカーズ人気。85年にはチェッカーズ主演映画『CHECKERS IN TAN TAN たぬき』が公開され、配給収入11億円に達する大ヒットを記録した。「チェッカーズの正体はたぬきだった」という今見るとかなりしんどい内容なのだが、日本アカデミー賞の話題賞、最優秀撮影賞、最優秀照明賞と3部門を受賞した輝かしい成績も残している。ちなみに、同作でメガホンを握ったのは名作『竜二』を撮った川島透監督だ。

 当時は、そういうご時世だった。芸能界で売れ始めた新鋭を主演に据えた映画が、本当によく制作されていた。主演:とんねるずの『そろばんずく』や、主演:玉置浩二の『プルシアンブルーの肖像』などである。

「この映画(『TAN TAN たぬき』)を見たスーパースターが1人いますよ。僕のところに来られて、『7歳のときにお母さんに連れて行かれて、映画を見て感動したんですよ』って言ったスーパースターがいたんです。安室奈美恵ちゃんです」(鶴久)

 そういえば安室も、ブレイク初期に山口達也(元TOKIO)とのダブル主演で『That’sカンニング! 史上最大の作戦?』なる映画に出演していた。チェッカーズからの流れを、奇しくも彼女は受け継いでいたのか?

『TAN TAN たぬき』のラストは伝説である。正体がたぬきだとファンにバレてしまったメンバーらが砂漠で途方に暮れていると、ファン4000人が一斉にチェッカーズに駆け寄り、取り囲むというシーンだ。

 今見ると、危険極まりない撮影である。もし、暴走するファンがいたらチェッカーズに危害が及んだろうし、4000人もの大群が全力で駆け寄るのだからケガ人が出てもおかしくなかった。余談だが、82年に開かれたシブがき隊のコンサートでは将棋倒しが発生し、ファンの1人が死亡するという事故が起きている。

 兎にも角にも、チェッカーズ人気はその後も上昇するばかり。そんな最中、90年にはフミヤが結婚するという衝撃のニュースが報じられた。当時のワイドショーを見ると、芸能リポーターの梨元勝がマンション名を隠さずフミヤ宅の前でリポートをしているし、大勢のファンがフミヤ宅の前に集まり泣き腫らしているのだ。つまり、フミヤの住所はみんなにバレバレだった。当時、タレント名鑑を読むと芸能人の住所は普通に載っていたものである。

 その後、ファンの願いも虚しく、フミヤの結婚発表会見が開かれることに。出席したのはフミヤ本人と、“糟糠の妻”である学生時代からの彼女・まち子さんだった。一般人なのに普通に顔出しして会見に出る、当時はそういう時代であった。

 顔出しすることにより、藤井夫妻にはいろいろな影響があったはずだ。視聴者としても、さまざまな感慨がある。「昔、天ぷらを揚げてボヤ騒ぎを起こしたのが、このまち子さんだったのか」とか、「この2人から生まれた息子が成長してフジテレビアナウンサーになったのか」などなど。

 なんにせよ、ファンが絶望する姿を見るにつけ、「結局、チェッカーズとはフミヤの人気だったのだ」と再認識することができた。ちなみに、フミヤの結婚発表会見が開かれたのは90年6月29日である。一方、シブがき隊の薬丸裕英と石川秀美によるアイドル同士の結婚発表会見が行われたのは、90年6月4日だ。

 チェッカーズが台頭し始めた84年、シブがき隊は9thシングル「喝!」で初のオリコン1位を獲得した。というか、彼らが1位を獲得したのは唯一この曲のみである。

 この頃、シブがき隊がリリースした楽曲としては、「サムライ・ニッポン」、「喝!」、「アッパレ! フジヤマ」、「べらんめぇ!! 伊達男」などがある。改めてこれらを聴き直し、筆者は笑ってしまった。正直、どの曲もかなりキツいクオリティーなのだ。

 デビューから解散までシブがき隊を担当した、元CBSソニーの音楽ディレクター・藤岡孝章氏が証言している。

「音程がめちゃくちゃで、元気よく歌うっていう。正直、これをデビューさせるのか? と(苦笑)。ハイレベルな楽曲だと(3人は)歌いこなせないんで」(藤岡氏)

 特に、シブがき隊は布川が最も歌が下手で、ダンスも本当に適当だった。スタジオに登場したシブがき隊ファンの1人は、こう熱弁している。

「私たちはシブがき隊に歌のうまさもダンスのカッコ良さも、なにも求めていないんです!」

 とにかく、3人がそこにいればもうそれでいい。ある意味、ファンの鑑だ。でも、それだけじゃない。シブがき隊にも、彼らならではのストロングポイントがあったらしい。番組が説いたのは、以下の3要素だ。

●メンバーカラーの元祖
 今ではジャニーズの定番となっているメンバーカラーも、実はシブがき隊が元祖と言われている。本木が赤、薬丸が青、布川が黄だ。

●握手文化の元祖
 AKB48よりずっと前に握手会を開催していた。

●ジャニーズ初モノマネ番組出演
 番組内で、「歌い出しの声が小さすぎる中森明菜」、「失礼すぎる岩崎宏美の顔のマネ」といったネタを披露する本木のパフォーマンス映像が紹介された。

 番組は上記3つのストロングポイントを紹介したが、この認識は明らかに誤りだろう。例えば、たのきんトリオにだって、田原俊彦=赤、近藤真彦=黄、野村義男=青というメンバーカラーがあったし、あおい輝彦が在籍した初代ジャニーズにもメンバーカラーはあった。あと、川崎麻世がジャニーズ入りした経緯は、彼がモノマネ番組で西城秀樹のモノマネをし、それを見たジャニーズ事務所が川崎をスカウト……という流れだったはずである。

 85年、デビュー4年目のシブがき隊の人気に陰りが見え始める。売り上げが10万枚にも届かないシングルが出てくる最中、さらに追い打ちをかけたのは、ジャニー喜多川氏肝入りの3人組・少年隊のデビューだった。

 当時はチェッカーズのみならず、男性アイドルに吉川晃司や風見しんごもいた時代。まさに、群雄割拠だった。しかも、彼らの多くは歌と踊りが一級品だ。どちらに関しても水準以下だったシブがき隊のパフォーマンスは、他のアイドルと比べかなり見劣りした。

 その状況で、世界水準の歌とダンスを誇る少年隊というグループが身内から登場したのだ。今振り返ると、ここでシブがき隊はとどめを刺されていた……というのが筆者の偽らざる気持ちである。

 さらにこの頃は、シブがき隊の不仲説まで流れ始める始末である。

田中 「たしかにテレビを見てても、フックンがふざけたり、モックンが変なことをやると、ヤックンが絶対、睨むんですよ。『何言ってんだよ!』みたいな。子ども心に『あれ?』って思って見てました」

布川 「その通りです。顔に出るんですよね」

 噂通り、シブがき隊は不仲だったらしい。その亀裂には、チェッカーズ人気が関係している。

「俺らも、チェッカーズが出てきたときは認めてましたからね。モックンがまず、『敏和、大変なカッコいいグループが出てきた』って。それで、モックンと一緒にチェッカーズの合宿所に行くわけですよ。すると、薬丸は嫌な顔をするわけです。呼び出しですよ。『布川と本木、お前らチェッカーズの家に遊びに行くとは何事だ!? ライバルのチェッカーズにどれだけ俺らのファンを持っていかれてるんだと思う!』と怒られるんですけど、僕と本木は『いいじゃん、別に楽しければ』って」(布川)

 良く言えば、薬丸は真面目でプロ意識が高かった。悪く言えば、彼は面倒くさかった。

 振り返ると、アイドル然としたチェッカーズがピークを迎えていたのは84~86年の3年間である。たのきんはチェッカーズ以前に活動したグループだし、少年隊のデビューから少ししてチェッカーズは脱アイドルの方向へと舵を切った。ジャニーズのグループで最も割を食ったのは、シブがき隊なのだ。「チェッカーズとは会話するな!」と薬丸が偏屈になり、3人が不仲になったのも同情の余地がある。まあ、対するチェッカーズものちに不仲が表面化するわけだが……。

 メンバーの確執で、解散危機もチラついたシブがき隊。そんな危機的状況の最中、起死回生のヒット曲が生まれる。86年リリース「スシ食いねェ!」だ。結果、4作ぶりに売り上げは10万枚を突破し、『NHK紅白歌合戦』出場にもつながった。

 今でもバラエティ番組やワイドショーにお寿司が出てくると、必ずこの曲が流れるのがすごい。『水曜日のダウンタウン』(TBS系)でも「スシ食いねェ!」はおなじみだ。バレンタインシーズンになると流れだす、国生さゆりの「バレンタイン・キッス」みたいなものか?

 前述した通り、シブがき隊はシングルの売り上げが目に見えて下降気味に。そんな時期の救世主のような曲が、この「スシ食いねェ!」だったのだ。とはいえ、同曲のオリコンの最高位は10位である。それどころか、『ベストテン』では12位止まりだった。つまり10位以内、ベストテンに入ることさえできなかったのだ。

 実は、この曲の歌詞は布川が作ったそう。

「ヤックンが手の骨を折ってしまって、コンサートに出れなかったわけですよ。で、モックンとのコンサートだとMCがもたなくて。それで、困って前の晩に作ったんです。『明日にMCの穴埋めでやろう』と。ちょうど、Run-D.M.C.のラップが出てきて、『これ(ラップ)は音程も取らなくていいな』と。『じゃあ、ラップの曲書いてくれ。歌詞は俺が書く』って言って。で、ホテルのルームサービスで寿司を頼んでいたわけです。それらのネタを歌詞に入れて、『へい、らっしゃい!』でいいかな……と、お寿司の歌ができました」(布川)

 まさか、布川が作詞していたとは驚きだ。ということは、印税も布川の元に入っているのだろうか? さらに、曲制作の経緯も驚きだった。Run-D.M.C.からの「スシ食いねェ!」。というか、この曲がラップだという事実に筆者は今回、初めて気付いた。ジャニーズらしからぬ攻めた路線だし、この方向性を継承したのが現在の関ジャニ∞という気もする。

 鶴久は、仲の良かった本木がこの曲についてどう思っていたか、裏話を明かしてくれた。

「『スシ食いねェ!』の発売が決まったときに、モックンが泣きながら来て『これ、俺ら歌うんですよ』って涙目になってて。『スシですよ、スシ。ネタを歌うんですよ』って崩れてました(苦笑)」(鶴久)

 泣くほど「スシ食いねェ!」が嫌だったモックン。ジャニーズらしからぬ曲とは思っていたが、やはり本木は嫌々歌っていたのか。なにしろ、同時期に少年隊は「仮面舞踏会」という超絶カッコいい名曲で世を席巻していたのだから。少年隊とシブがき隊を比較し、「随分、差をつけられたな……」と自らを悲観してもおかしくない。今や完全に大物俳優である本木雅弘の涙目を想像すると、たまらなく面白いのだが。

「(本木が嫌がっていたと)今、初めて聞いた! 俺は、別に俺が作ったんだから嬉しいですよ。『俺って天才かな?』っていうね(笑)」(布川)

 天才である。本木がそこまで悲嘆に暮れていた「スシ食いねェ!」は、今やシブがき隊の代表曲だ。いまだ、あれを上回る寿司ソングに出会ったことがない。何が当たるかわからないものである。B面曲だった「てんとう虫のサンバ」が大ヒットした、チェリッシュみたいなものだろうか? 

 一方、チェッカーズも転換期を迎えていた。86年に入ると、12thシングル「NANA」をリリース。実は、音楽番組『ミュージックステーション』(テレビ朝日系)がスタートし、その初回放送のトップバッターを務めたのは、「NANA」を歌うチェッカーズだったのだ。

 今振り返ると、記念すべきパフォーマンスだった。まず、この曲は「作詞:藤井郁弥 作曲:藤井尚之」という布陣である。シングルで初めてメンバーが作詞作曲を担当した曲だった(それまでのシングルは、主に「作曲:芹澤廣明 作詞:売野雅勇」のコンビが手掛けていた)。

 しかも「NANA」は、歌詞に「濡れてくれ」「やろうぜ」といった性行為を思わせる箇所があり、NHKで放送禁止になったいわく付きの曲でもある。つまり、チェッカーズが“脱アイドル”を図った記念すべき楽曲なのだ。余談だが、この頃の『Mステ』の司会はタモリではなく、関口宏と中原理恵のダブル司会。関口&中原時代の『Mステ』である。

 88年、ついにシブがき隊は“解隊”(彼らは「解散」ではなく、この言葉を使用)を迎えた。

「3人がおじいさんになっても、グループは続けていけないなと。特に、アイドルグループは。『だったら、もうそろそろ解散しましょう』っていうのが、本当のところかもしれないです」(布川)

 当時、アイドルグループの寿命は長くないと考えられていた。「3人がおじいさんになっても、グループは続けていけない」は、偽らざる本音だと思う。今のアイドルは違う。今年でKinKi Kidsはデビュー25周年だし、田原俊彦は61歳でも自称アイドルだ。それどころか、郷ひろみは67歳で現在もアイドルである。時代は変わったのだ。

 不思議なのは、解散以降の“元シブがき隊”のメンバーの活動だ。なんだかんだ、みんな活躍している。当時のジャニーズの不文律として、よほどのことがない限り、事務所を抜けた人材は芸能界で干されるのが常だった。

 88年といえば、光GENJIが“ジャニーズの歴史上No.1の最大瞬間風速”を背に受けていた頃。だから、シブがき隊が解散を決意しても事務所からの引き止めはなく、3人の芸能活動の邪魔をする必要もなかった。

「解散コンサートの前の日、3人だけで焼肉食いましたよ。初めて、3人だけで。『今日は3人だけで食べに行こう』って薬丸君が言い出して。(会話の内容は)他愛のない、普通の感じにあえてしていたかもしれない」(布川)

 寿司じゃなく、焼肉を食べに行っていたシブがき隊。番組では、88年10月28日放送『Mステ』での、彼らのラストライブ映像が放映された。特に、このときの本木があまりにもイケメンなのだ。というか、3人とも今とあまり変わっていない。容姿に関しては、今の現役グループよりも明らかに上だと思う。

 そして同年11月2日、シブがき隊は代々木体育館で解隊コンサートを開いた。バブル絶頂期に誰しもが納得する解散を迎えたのだから、いかにシブがき隊が下降線をたどっていたかがわかる。

 しかも同時期、ジャニーズ事務所は男闘呼組のデビューイベントを控えていた。所属グループは明らかに飽和状態だったのだ。ただ、いいポイントを挙げるとすれば、解散コンサートを行えたことだ。ジャニーズの歴史上、まともに解散コンサートを行えたグループは、シブがき隊を含めてもかなり数が少ないと思う。

 余談だが、シブがき隊のラストシングルのタイトルは「君を忘れない」だ。当初は「サヨナラだってお祭りさ!」という曲が用意されていたが、昭和天皇の体調が悪くなり、不謹慎ということで「君を~」に差し替えられた。

 その後の3人の活動ぶりを見ると、正直、本木雅弘の活躍は別格である。今で例えると、V6解散後の岡田准一が同じような道をたどりそうな気がする。

 92年には、チェッカーズも解散を迎えた。彼らの解散理由とはなんなのか?

「ずっと、フミヤさんがメインを張っているじゃないですか。だから、どこかで『休憩したい』という思いはあったと思います。ご結婚もされたし。(メンバー間の不仲で楽屋が殺伐になったことは)ない、まったく。だから、フミヤさんと高杢(禎彦)君が仲が悪いから解散したっていうのはまったくないです」(鶴久)

 かなりデリケートな話題に踏み込んでいて驚いた。そして、鶴久はファンの夢を守る回答を選んだようだ。ただ、10代からの仲間だったフミヤを「フミヤさん」と呼ぶ鶴久の話しぶりから、一抹の寂しさを感じたのは事実だ。

 92年12月28日、チェッカーズの解散コンサートが日本武道館で行われた。

「武道館に全国からチェッカーズが好きな子が集まって、入れなかったファン7~8000人が外にいたんです。『全部、(武道館の)窓開けろ!』って言って、生音を全部外に聴かせて、外の子も全員合唱しました」(鶴久)

 2015年11月、代々木第一体育館でデビュー20周年ライブを開催したV6がコンサート中に会場の扉を開放、外にいるファンに会場内の音を聴こえやすくするという配慮を行ったことがあったが、先駆けること23年前にチェッカーズも同じことをしていたのだ。

 チェッカーズの解散時、中学生だった筆者は当時のことをしっかり覚えている。まず、活動期間わずか10年で解散したという事実が嘘みたいだった。このときのフミヤの年齢は30歳。国鉄への就職を経てデビューした彼だけに、たった10年の活動だがすでに大人になっていたのだ。

 あれから30年経ち、チェッカーズのメンバーも今や還暦である。時間なんて、本当にあっという間だ。