「相模原殺傷事件」をモチーフにした映画『月』 磯村勇斗演じる...の画像はこちら >>

【かつてあったことは、これからもあり かつて起こったことは、これからも起きる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。

 旧約聖書「コヘレトの言葉」の一節から、映画『月』は始まる。作家・ジャーナリストである辺見庸が2019年に刊行した小説『月』(KADOKAWA)を原作に、『舟を編む』(13)で映画賞を総なめにした石井裕也監督が大胆に脚色し、新しい物語に再構成している。「コヘレトの言葉」も原作にはなかったものだ。

 辺見庸の小説『月』は、2016年7月26日に起きた「相模原障害者施設殺傷事件」をモチーフにしている。知的障害者施設「津久井やまゆり園」に植松聖(犯行当時26歳)が侵入し、入所者19人を刺殺、入所者・職員を合わせて26人に重軽傷を追わせた衝撃的な事件だった。植松が「やまゆり園」の元職員であり、衆議院議長宛に犯行予告の手紙を渡していたことが分かり、この事件はより大きな波紋を呼ぶことになった。

 劇中、大量殺人犯・植松聖にあたる「さとくん」に扮するのが磯村勇斗だ。NHK連続テレビ小説『ひよっこ』で見習いシェフのヒデさんを演じるなど好感度の高い磯村が、パブリックイメージそのままの好青年から殺人犯へと変貌していく様子を淡々と演じてみせている。その変わっていく過程が、本作の大きな見どころとなっている。

「相模原殺傷事件」をモチーフにした映画『月』 磯村勇斗演じる好青年が殺人鬼に変貌する夜
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ハリウッド映画『ジョーカー』を思わせる「さとくん」

 この映画の主人公であり、語り部となるのは、かつては人気作家だった洋子(宮沢りえ)。彼女が森の奥深くにある重度障害者施設「三日月園」で働き始めるところから、物語は幕を開ける。職場には作家を目指している陽子(二階堂ふみ)、絵を描くことが大好きなさとくん(磯村勇斗)がおり、新しく入った洋子のことを歓迎した。陽子も、さとくんも、明るく親切な若者だった。

 洋子は東日本大震災の被災地を取材した小説で作家デビューし、震災後の社会を励ます内容は好評を博したが、その後は原稿が書けなくなってしまっていた。夫の昌平(オダギリジョー)は人形アニメーションを自主制作中で、収入はない。洋子が外へ出て、働かざるを得ない状況だった。

 知的障害を持つ入所者たちとは言葉によるコミュニケーションが難しいため、介護の仕事は容易ではなかった。陽子やさとくんとの交流を深めながら、洋子は施設内の現実を知ることになる。他の職員らによる入所者への心ない言葉や虐待行為が日常的にあり、家族が訪ねてこない入所者も少なくない。

個室に閉じ込められたままの入所者もいる。園長(モロ師岡)に訴える洋子だったが、「ここのやり方を理解してもらえないと、一緒に仕事することはできませんよ」と一蹴されてしまう。

 理不尽な現実に対し、洋子以上に憤っていたのがさとくんだった。入所者たちを喜ばせるために紙芝居を自作するなど、優しい心の持ち主だったさとくん。ろう者である恋人・祥子(長井恵里)と同棲するなど、障害者への偏見は持っていないはずだった。そんな彼が仕事に疲弊し、同僚たちにバカにされ、希望の持てない未来に絶望していく。

ある夜をきっかけに、危険な考えに取り憑かれてしまう。

「いらないものは、僕が片付けますよ」

 誰よりも責任感が強く、施設内の実情を知るさとくんは、凶器類が詰まったカバンを持って、深夜の施設へと侵入する。入所者一人ひとりに「心、ありますか?」と尋ねて回る。返事をしない入所者は、さとくんによって処分される。「この国の平和のために」さとくんが下した決断だった。

 心優しい若者から、大量殺人鬼へと変貌するさとくん。

ホアキン・フェニックスが“無敵の人”を演じたハリウッド映画『ジョーカー』(19)を思わせるものがある。

「相模原殺傷事件」をモチーフにした映画『月』 磯村勇斗演じる好青年が殺人鬼に変貌する夜
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石井裕也作品がはらむ危うい独善性

 18歳の頃から辺見庸の著書を愛読してきたという石井裕也監督。配給会社スターサンズの河村光庸プロデューサーからの要請を受け、映画『月』を撮ることになった。「撮らなければならない作品だと覚悟を決めた」そうだ。河村プロデューサーは社会派サスペンス『新聞記者』(19)や『空白』(21)など数々の問題作を放ち、本作のクランクイン直前の2022年6月に亡くなっている。

 原作小説では、入所者のひとり「きーちゃん」の視点から、さとくんが事件を起こすまでの経緯が語られている。

健常者とは異なる思考性やコミュニケーション能力を持つきーちゃんを主人公にした原作をそのまま映画化するのは、まず不可能だった。きーちゃんの分身(別人格)である健常者の「あかぎあかえ」をベースに、石井裕也監督は映画版の主人公となる洋子を新たに造形。洋子の視点から見た物語としている。ちなみに、映画版では洋子と施設内で寝たきり状態のきーちゃんの二役を宮沢りえが演じている。

 石井裕也監督は、社会派コメディ『川の底からこんにちは』(09)や三浦しをん原作の群像劇『舟を編む』が高く評価され、これからの日本映画界をになう大器として期待されてきた。だが、石井監督が脚本から手掛けたオリジナル作品は、熱量は高いものの、独善的な内容に陥ってしまうことが少なくなかった。

 コロナ不況を題材にした『茜色に焼かれる』(21)は、主演女優・尾野真千子の熱演ぶりが絶賛され、多くの映画賞を受賞している。尾野演じるシングルマザーは「まぁ、がんばりましょう」を口癖に、次々と押し寄せるトラブルに対処しようとした。しかし、どれも「がんばりましょう」で済まされる問題ではなく、作品としては最後まで違和感が消えなかった。がんばり過ぎたことで、体を壊し、心を病んだ人たちがどれだけいることか。若者たちの生きづらさを描いた『映画 夜空はいつだって最高密度の青色だ』(17)も、危ういバランスの上で成り立っていた作品だった。

 松岡茉優と窪田正孝がダブル主演した石井監督の新作『愛にイナズマ』(10月27日公開)は、理想を追い求めるあまり、現実世界から乖離してしまう女性監督が巻き起こす悲喜劇となっている。『愛にイナズマ』や『川の底からこんにちは』のようなコメディ系の作品の場合は、若い主人公たちの独善的な言動を観客は苦笑しながら観ることができるが、シリアスな作品ではこれまでうまく機能していなかったように思う。

「相模原殺傷事件」をモチーフにした映画『月』 磯村勇斗演じる好青年が殺人鬼に変貌する夜
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 そうした石井作品における危うい独善性を、もっとも先鋭化させたキャラクターが今回の「さとくん」ではないだろうか。背中にタトゥーを入れ、大麻を常習するなど、現実の植松聖もなぞらえてあるが、むしろさとくんは普遍的な若者像として描かれている。さとくんは不条理な現実社会を憂う我々の分身であり、また石井監督の心のコアな部分に存在する怒りの分身でもあるはずだ。監督自身がはらむ成熟されない青臭さや社会への怒りが、さとくんという危険なキャラクターに集約されたように感じる。

「がんばれ、みんながんばれ♪」

 さとくんが口ずさむ、井上陽水の名曲「東へ西へ」が夜の施設に響き渡る。「がんばれ」という言葉が、これほど空しく感じられるシーンはそうないだろう。個人レベルの「がんばり」ではどうにもならない状況を放置していたことから、大惨事が起きてしまう。

 会話ができる入所者かどうかを、一人ずつ陽子に確かめながら犯行に及ぶさとくん。ナチスの「優生思想」を思わせる選別大量殺人を犯すさとくんを演じた磯村勇斗は、朝井リョウ原作の『正欲』(11月10日公開)でもキーパーソン役を演じている。こちらも一見すると爽やかな好青年だが、心の中に闇を抱えるキャラクターだ。『PLAN75』『ビリーバーズ』(22)、『波紋』『渇水』(23)など、俳優として難役に挑戦し続ける磯村の姿勢を評価したい。

 冒頭で触れた「コヘレトの言葉」は、栄華を極めた古代イスラエルの国王・ソロモンの言葉だと言われている。「コヘレトの言葉」の第一章は、次のような一節で締めくくられる。

【わたしは心をつくして知恵を知り、また狂気と愚痴とを知ろうとしたが、これもまた風を捕まえるようなものであると悟った。それは知恵が多ければ悩みが多く、知識を増す者は憂いを増すからである。】

 辺見庸による原作小説と石井裕也監督が撮った映画『月』は、あくまでもフィクションの作品である。だが、植松聖が起こしたあの事件に関心を持った人ほど、この作品は深く心に突き刺さるに違いない。さとくんが手にしていた、鋭く尖った鎌のように。
 
(文=長野辰次)

『月』
原作/辺見庸 監督・脚本/石井裕也 音楽/岩代太郎 
出演/宮沢りえ、磯村勇斗、長井恵里、大塚ヒロタ、笠原秀幸、板谷由夏、モロ師岡、鶴見辰吾、原日出子、高畑淳子、二階堂ふみ、オダギリジョー
配給/スターサンズ PG12 10月13日(金)より新宿バルト9、渋谷ユーロスペースほか全国ロードショー
(c)2023『月』製作委員会
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